第一章:夕闇

第2話


     1


 児玉こだまゆうはそびえ立つ白い扉の前で、もう五分近く立ち尽くしていた。不快な汗が背中と脇の下を伝って下に流れていくのが分かる。

 もう高校生なのだから少しは自主的に行動をしなくてはと意気込んでから、既に三日は経過しようとしていた。

 ちなみに、扉の前まで来たのは今日が初めてである。内気な自分がここまで来ていることを褒めてほしいほどだと、夕はそう思いながらここに立ち尽くしている。

 彼は新品の奇麗な上履きに目を落とし、もう一度顔を上げた。

 目の前の扉には『新聞部』と書かれたマグネットシートが貼られている。中からは小さく話し声が聞こえる。何を話しているのかは分からないが、とても入りづらい雰囲気なのは確かだ。

 朝撒あさまき高校新聞部。ホームページを見る限りでは、かなり昔からある由緒正しき部活らしく、これまでも何度か全国総合文化祭——野球で言うなら甲子園——に出場しているようだ。

 実際に廊下に新聞が貼り出されているのも見かけたが、最初に抱いた感想は「高校生でもこんな本物みたいなものが作れるのか」であった。

 拍動している心臓の痛みを感じながら深呼吸し、それから扉をノックした。無機質なノック音によって、先ほどまで中から聞こえていた声が消える。

「はい」

 中からくぐもった声が聞こえる。それが自分にかけられた声だろうと確信した夕は、締まり切った喉から上ずった声を出す。

「あ、あの……廊下で、新聞を見かけて」

 頭の中ではそんなことじゃなくて本題を話せと思ってはいるものの、緊張して上手く言葉が出せない。ここまで緊張するのは全中ぜんちゅう以来だ。

「仮入部?」

 顔も知らない誰かに、相変わらず扉越しにたずねられる。

「あ。そう、そうです」

「え、本当?」

 目の前の扉がガラガラと音を立てて開く。

 夕はその姿を見たとき、思わずぎょっとしてしまった。それが人だととっさに認識できなかった。

 現れたのは、ペストマスクを被っている制服姿の生徒だった。顔は分からないものの、その高い声や長髪を後ろで一本に縛っていること、そしてスカートを穿いていることなどから恐らく女子だろうという推測だけができた。窓から差す日に当てられ、くちばしのような部分が黒光りしている。

「あ、本当に仮入部なの?」

 彼女もまた動揺を隠せないような声で夕に訊ねる。

「はい」

「部員が欲しいあまりに、幻聴が聞こえたのかと思ったよ」彼女は嬉しいような、少し困惑したような声色で呟く。「どうして新聞部を選んだのかな?」

「さっきも言った通り、ですけど」

 新聞部の部員の人と対面して初めての会話がこれって大丈夫なのかと思いつつも、夕はとりあえず部員が少なく人手が足りていなさそうだということに少し喜んだ。

 普通の部活であれば新入生の立場などたかが知れているが、人手が少ないということはすぐに一部員として活動できるというわけだ。

「まあ、いいか。どうぞ入って。新聞部はどういう活動してるのかとか、中で話すよ」

 彼女は体をずらし、部室内を振り返る。

 彼女の視線を追うように部室内を見ると、がらんとした広い部屋の中央に机と椅子が二つずつ置かれているのが見えた。どう見ても部活として活動しているようには見えない。

「あの……他の部員の人はどこへ? さっき誰かと話してませんでした?」

「ん? ……ああ」彼女は少し気まずそうに言う。「あれね、私の独り言。もしかして外まで聞こえてた?」

「え、はい」

「聞いてた?」

「え?」

「私が言ってたこと聞こえた?」

「ああ……いや、声がくぐもっててよく分かんなかったです」

「そう」

 先ほどまでの明るい雰囲気はどこへ行ったのか、今の彼女の声色や態度はひどく冷淡なもののように感じられた。独り言の内容を聞かれたくないような口ぶりだった。

 彼女はそのまま教室の中へ歩みを進め、夕もまた彼女を追うようにして教室に入る。

 先ほどは死角になっていて見えなかったが、壁際にも机があり、その上に一台のデスクトップパソコンが置かれている。そのパソコンの目の前にある壁にはホワイトボードが取り付けられており、黒や赤、青など様々な色で文字が雑多に書き込まれている。かなり前から使い古されているようで、消したはずの文字がうっすらと残っている部分もあった。

 また、その隣にはプラスチック製の青い収納ボックスや、大人ほどの高さはありそうな大きな棚が置かれている。恐らく取材のためのカメラなどが入っているのだろう。

「座っていいよ」

 夕が相対するように座ると、彼女は一拍置いてから肘をつき顔の前で両手を組む。

「ようこそ新聞部の作業室へ。新聞部は一年に三回、四ページあるブランケット版の新聞を発行しています。発行する三か月前の企画会議から始まり、アポ取りと取材を行い、得た情報や写真を用いてレイアウトを決め、原稿を書きます。また、見出しのフォントや、どんな文言を見出しとするのか、写真の説明文……ここではキャプションという言葉を使いますが、キャプションはどのようなものにするかなど、多くのことを並列で考えながら作業する必要があります」

 彼女は電車のアナウンスのように淡々と新聞部の活動内容を話し始めた。

 夕は今にも散り散りになっていきそうな記憶をどうにか押し留め、新聞部がいかなる部活なのかを覚えようとする。

「君が来たとき、なんで私が喜んだか分かるかな?」

「……部員が一人しかいないから、ですか?」

「その通り。私は新聞部部長にして、唯一の部員なの」

 夕は部屋を少し見渡す。部屋には今二人が座っている椅子と机があるだけ。壁際のデスクトップパソコンは一人分しかない。構造や広さ的には他の教室と同じなのだが、あまりにもで、ここだけ教室の様相をていしていないように見える。

 ということは、あの廊下に張り出されていた新聞はほぼ全て目の前の彼女が作ったものなのだろうか。だとしたら一生彼女には敵わないような気もする。

「一人でも活動って続けられるんですね」

「ここだけは特別扱いなんだって」

「全国総合文化祭に出てるからですか?」

「それも、まあ……あるだろうね。さてと、というわけで」彼女は席を立ち、部屋の端にあるプラスチック製の収納ボックスから紙を一枚取り出して夕に見せた。「仮入部とはいえ、入部は入部。君にはちょっとしたテストを受けてもらおうかな」

 その紙は、よく見かけるような四百字詰めの原稿用紙だった。

 これを見るのは中二の夏休みに書いた読書感想文以来だった。中三の頃は「受験勉強に集中しろ」とか言われて宿題がなかったような気がすると、無益な思い出を掘り起こしては、受験期の嫌な記憶も一緒に思い出して苦い顔をした。

「テストの内容は、君の身の回りで起きている出来事をこの四百字にまとめること。ここは新聞部だからね。新聞部員には、情報を集める力と情報を見定める力、それらを制限文字数の中でまとめ上げる力が必要になるんだよ」

 なかなかどうして難しい課題だったが、夕はとにかく頷いた。

 そもそも夕に友達はほぼおらず、身の回りでどんなことが起きているのか全く情報が入ってこない。自分から動いて無理やり探すしかないだろう。

「何か制限はありますか?」

「特にないよ。この時期だと新入生歓迎会みたいなイベントもやってるから、それについてまとめてもいいね。あとは、君と同じ新一年生に新天地での不安として何があるか聞いて、それを集計するとか。とにかく、君の身の回りの事象が対象だよ」

「期限は?」

「仮入部期間が終わるまでかな。今日は木曜だから、えっと……四日後だね。短いけれど、来週の月曜日の放課後まで、ということで」

 かなり厳しい締め切りだ。これも新聞部に求められる能力の一つなのだろうか。

「分かりました」

「他に何か質問は?」

「えっと、その」

 夕は彼女の顔から視線を逸らして口ごもった。

「そっか、自己紹介してなかったね。私は佐藤さとう。君は?」

「あ、児玉です。いや、でも、質問したいのはそれじゃなくて。ずっと気になってたんですけど」彼女の仮面が夕の瞳に映る。「なんでペストマスク付けてるんですか……?」

 その瞬間、カキン、と金属バットが軽快にボールを弾く音が遠くから響く。「ナイスバッティーン!」と叫ぶ声が聞こえる。

 そしてしばらくの間、完全な沈黙がその場を包み込む。

「この方が都合が良いんだよね」

 佐藤はおもむろに、独り言のように呟いた。

 夕はその言葉にまるでピンとこなかったが、理解の態度を示すように首肯しゅこうした。

「ありがとうございます」

「こちらこそ来てくれてありがとう。毎日ここにいるから、書けたら来てね」

「はい。失礼します」

 夕は小さく頭を下げて扉を閉めた。

 来た時のように再び視界に「新聞部」の文字が入る。そこでようやく夕は、本当に新聞部を訪ねていたんだという実感が湧いてきた。

 「新聞部」と形容したのにはわけがある。

 この学校はかなりの田舎町に建っており、学生にとっては退屈な場所である。そのため、刺激を求める生徒たちの間にはいつしか多くの噂が飛び交っていた。

 それは過去へ繋がるトランシーバーであったり、何でも増やせる鏡であったり、死んだ人ともう一度会う方法などであった。

 その中に、ひときわ話題に上がる噂があった。その噂とは「朝撒高校の新聞部は朝撒高校の魔女の正体を知っている」というものだ。

 魔女とはいったい何者なのか、なぜ新聞部がそんな秘密を抱えているのかなど、多くのことが不明で、ただ新聞部は何かを知っているという噂だけが流れている。

 夕の使命は、この秘密を明かすことだった。そのためなら青春なんてどうでもいいと思えるほどに、彼はこの噂を確かめることに必死になっている。

 好奇心と未知は比例関係にあると思う。未知であればあるほど人は恐怖を覚え、好奇心を抱き、身をほろぼす。

 河豚ふぐを食べて初めて死んだ者もいれば、河豚を食べて初めて生き長らえた者もいる。

 自分は河豚を食べて初めて生き長らえる人間でありたい。夕はそう思っている。

 だが、まさか新聞部自体がそもそも謎に包まれているとは思わなかった。一人で部活を続けているし、その唯一の部員である佐藤はなぜかペストマスクを被っている。

 この学校は、やはりどこかおかしい。

 空には西へ傾く夕日が浮かんでいる。夕はそれが妙に赤く見えた。

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