バウンダリーの向こう側へ
涌井悠久
プロローグ:東雲
第1話
とある田舎町に、一人の貧乏な少年がいた。闇市の物はろくに買えず、空腹を質も量も低い配給と水で誤魔化し、幼いながらに低い賃金で労働をしていた。
農地改革により力を失った地主が多い中で、この町の地主だけは未だに高い地位を保っていた。少年はその邸宅の清掃をする仕事に就いていた。手がかじかむどころか、もはや感覚すらなくなるような
少年を動かす、奥底にあるエンジンのようなものは家族への責任感だけだった。父は戦死し、妹と母の面倒を見るのは自分しかいないと、その重責を
その日はひどく雪が積もっていた。コートに付いた雪が廊下に落ち、少年はいつも以上に念入りな清掃を求められた。
地主の骨董品が保管された部屋のほこりを払っている時、ふと、自分はいつまでこんなことをしなくてはならないのか、と思った。
どんなに働いてもその給料は三人分を養えるほどではない。母の内職も含めてようやく生活ができる程度だ。少年は精神的にも身体的にもかなり限界だった。何となくではあるが、自分の死期も悟っていた。
ふいに、壁に立てかけられた一枚の鏡が目に留まった。人がすっぽり収まりそうな大きい鏡だった。
少年は自分の姿を見て、ひどく驚いた——というよりも、怯えた。
そこに映る姿は、もはや人と呼んでいいのかすら分からなかった。これが自分であるという自意識を持てなかった少年にとって、それはただの死体のように見えた。
何を思ったか、少年はおもむろに懐から十円紙幣を取り出し、鏡を見た。
その光景はひどく哀れなものであっただろう。その様子をたまたま見かけた地主の妻は「ひっ」という小さな悲鳴を上げ、見て見ぬふりをしてその場を去った。
少年は鏡に紙幣を押し付け、けらけらと声を上げて笑っていた。
少年の視点から見れば、十円は鏡の中に映るものも合わせて二十円に増えていた。それがたとえ
いずれ力が抜け、手元から紙幣が落ちた。
その時、少年は自分の目を疑った。本来、それは彼の足元に落ちるはずである。
その紙幣は鏡の向こうへと落ちていった。
少年はしゃがみ込み、反射的に鏡に手を伸ばしていた。
すると、その細い腕は鏡面をすり抜け、鏡の中へ入っていってしまった。
少年は思わず体を後ろに倒し、自分の手を見た。さっき、確かに鏡の中に紙幣が落ちていった。そして自分の手も鏡の向こうに入っていった。ということは——。
そこで少年は閃いた。鏡の中に落ちている二枚の紙幣を親指と人差し指でそっとつまみ、恐る恐る引っ張り出してみた。
「……やった」
少年の手元には、確かに紙幣が二枚。そして彼は完全にこの鏡の特性を理解した。
これは映したものを増やせる鏡だ、と。
それから少年は地主の邸宅に来るたび、紙幣を増やした。記号は全く同じだったが、それでも多くの人が押し寄せる闇市では全くバレなかった。
そうして少年は徐々に裕福になっていった。彼の母は怪しんでいたが、証拠も上がらずに黙認するしかなかった。
復興が進み、ある程度日本という国自体が裕福になってきた時、彼は教育を受け、学校を作ることを
そして彼は小さな町に、私立高校を建てた。
—―――――――――――――――
小さなさざ波の音でさえ耳に入るほどに、その場は静寂に包まれていた。
午前五時半。紺色で構成された空の下に広がる海に向かって吹く風が、首筋を
陸と海の温度差で、夜や明け方は
隣に、同じく陸風を背に受けて、ぼうっと海を眺めている制服姿の女子生徒がいる。
彼女の手には包丁が握られている。高校の調理室から盗んできたものだと彼女は言っていた。本当か分からないが、問題はそこではなかった。彼女が包丁を持ち出す理由自体に、頭を抱えていた。
「君は絶対に殺さない」
水平線から目を離さずに言ったので、彼女の表情は分からない。相変わらず呆れるような表情か、あるいは怒りの表情を浮かべているかもしれない。
「あなたの感情や事情はどうだっていい」
彼女もまた、海から目を離さずに言った。その声は怒りも呆れも含んでいなかった。ただ淡々と吐き捨てるような口ぶりだった。
しばらくの沈黙が続く。二人で海を眺める。
*
「君の死にたいという気持ちも十分に理解できる。けど、世の中には楽しいことも沢山ある。それを全て経験してからじゃ駄目なのか?」
重苦しい沈黙に耐えられず、思わず彼女に訊ねてみる。こんな問いかけが無意味であることは、とっくに分かっている。
彼女はため息を一つついてから口を開いた。
「何の意味もないだろう? 今の私は『生きている』というより『生かされている』ような気分なのだから。これでは死んでいるのと同じだ」
彼女の方を見る。緑のチェックのスカート、ワイシャツの上にオフホワイトのベスト。その上に濃紺のブレザーを着て、首元にはスカートよりも少し明るい緑のリボンが結ばれている。
風にその黒く
まるっきり同じなのだ。彼女を刺すことなど、できるわけがなかった。
「それに、君がその包丁で死ぬっていう確証もない。死ぬこともできずただ痛みに苦しむだけになるかもしれないんだぞ」
その場しのぎにしか聞こえない言い訳を口にしてみる。
「私に痛覚が無いのは確認済みさ。君がやるべきはこのナイフで刺してみること。ただそれだけだ」
彼女はすぐに実証を持って反論してくる。彼女の良いところで、悪いところだ。
「だったら――」
彼女が自殺する様を想像してしまい、酷い胸焼けのような、黒いヘドロがへばりついているような不快感が胸の辺りに溜まる。あまりの気持ち悪さに、それ以上何も言えず口をつぐんでしまう。
「そう。普通であれば……まあ、自殺を試すのが普通というのも変だが。それも試すべきだった。でも、それは違う。それじゃ駄目だ」
彼女がこちらを向く。
やめてくれ。
その顔で見つめないでくれ。
その笑顔を、そんな目的のために浮かべないでくれ。
「これは君への
彼女の笑顔は、相変わらず他の何よりも美しくて。
だからこそ恐ろしかった。
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