第6話

「取材が決まったのでこの部屋を使いたいんですが、いいですか?」

 佐藤は夕の言葉に小さく拍手をした。

「さすがの行動力だね。感心、感心。この部屋は自由に使っていいからね」

「ありがとうございます」

「ところで」

 佐藤は長いポニーテールをひるがえしながらパソコンの方に向き直し、キーボードを打ち始めた。画面には文字がびっしりと打ち込まれた文書が映し出されている。

「取材ってのは、例の落書きのことかな?」

 やはりあの落書きの話は広まっているようだった。夕は「そうです」とだけ答えた。

「やっぱり。落書きがあったって話は、初めて聞いたから印象に残ってるよ。児玉くんはあの落書きに何か身に覚えある?」

「いや、全く」

「あれに意味はあると思う?」

「意味はあると思いますけど……何か知ってるんですか?」

 佐藤の言い方がどうも気になった夕は思わず訊ねた。

「うーん……まあ、何か手がかりがないと児玉くんも記事を作りづらいよね。私はあの落書きはテン・コードだと思ってるよ」

「テン・コード?」

 彼女から発せられた聞き覚えのない単語に夕はオウム返しをすることしかできなかった。テン・コードとは、なんとも暗号めいた名称だ。

「正式名称はテン・シグナル。アメリカの警察の無線でよく耳にする略号だね。通信をより簡潔にしたり、標準化するといった目的のもと制定されたものだけど、最近では使われることも少なくなっているらしい」

「じゃあ、あれはそのテン・コードっていう略号を元にしたメッセージだと」

「たぶんそう。それで、テン・コードにおける"10-14"は不審者報告、あるいは通報という意味なんだ」

「不審者……」夕は少し悩み「あ、魔女のことですか」と少し声を大きくして言った。

 彼女は背を向けたまま少し首をかしげた。

「それは分からないけど、まあ、あり得る話だよね。でも、ただ魔女がいたっていうのを伝えたかったのだとしたら、別に落書きなんていう停学になりかねないハイリスクな手段を取る必要はないんだよ」

「無理やりにでも誰かに知ってほしかったんじゃないですか?」

「それなら『屋上で魔女を見た』っていう噂を流すだけで十分だと思うんだ。この高校にいる生徒はみんな噂好きだから」

「なるほど。確かにそうですね。そうなると、落書きを書いたのには何か別の目的があるんでしょうかね」

「たぶん、ね」

 その時、ふいに背後の扉が音を立てて開いた。

「あの、新聞部の活動場所ってここであってる?」

 扉の隙間から少し不安げな表情を覗かせたのは、菅原だった。

「あ、菅原先生。どうぞこちらの席に」

 部屋の中央にぽつんと置かれた椅子と机に菅原は疑念を抱くような、あるいは少しいぶかしむような視線を向けてから足を踏み入れた。

「改めて、取材を承諾しょうだくしてくださってありがとうございます」

 向かい合って座ったところで、夕は謝辞を述べた。

「取材を受けるのは別にいいんだけど、その」目の前に座る菅原の視線はペストマスクをつけた佐藤の方を向いていた。「あの子は?」

「ああ、同じ新聞部の佐藤先輩です」

「一緒に取材はしないのね?」

「はい。今回の記事の担当は僕なので」

「あら、そう」菅原は少し安堵したような表情を浮かべる。「遮ってごめんなさいね。始めましょうか」

「はい。今回は落書きについて訊きたいのですが、まず最初に。それはいつ発見されたものですか?」

「発見されたのは今朝だったわ」

「昨日は?」

 菅原は「うーん」と唸り、しばらく考え込んでいた。

「これは私たち教師の落ち度でもあるんだけど……この高校って、北校舎と南校舎に分かれてるでしょう? 屋上に続く扉って、実験室とか研究室しかない北校舎の三階の東の端っこにあって。あの辺りは山のせいで昼間でも日光も入りづらいし、特に放課後の見回りをするくらいの時間帯になると余計に見えないの。だから、あの落書きが昨日からあったのか、それとも既に前から書かれてたのか分からないのよ」

 落書きがいつ書かれたものなのか。これは明らかになっていないようだ。そうなると犯人の特定も難しいだろう。

「落書きを書いていそうな怪しい人物の目撃情報とかも?」

「特には」

「そうですか」

 それらしい人物の目撃情報すら上がっていないことに夕は落胆した。これで不審な生徒でもいたなら、あのテン・コードは確実に意味を持ちそうだったのだが。

「次の質問です。今朝、先生は落書きについて『去年もこのような落書きが発見されています』と言ってましたよね」

「そうね」

「去年はどんな落書きが?」

「確か、去年も似たような落書きだったわ。ただ、”14”じゃなくて”12”だったけど」

「”12”ですか。それは確かですか?」

「ええ。あんな変な落書き、忘れるはずもないもの」

 メモ帳に"10-12"と書いてみる。これもテン・コードにおいて何かしらの意味を持つものなのだろうか。

「先生はその落書きに何か心当たりは? どんな意味があるとか」

「ないわね。職員会議でも悪目立ちしたがる生徒のイタズラに違いないって言われてたし。実際、そういう青年期特有の衝動的な行動に違いないだろうって方向性でこの落書きの件はおしまいにするらしいの」

 それもそうだ。犯人がろくに特定できない以上、落書きの意図や書かれた時期を予想してみても何の意味がない。

「去年の落書きが発見されたのもこれくらいの時期でしたか?」

「そうね。一年生が入ってきてしばらくしてからだった」

「なるほど」

 夕は一息ついてから、おもむろに菅原の顔を見た。彼女も何かを察したようで、少し堅い面持ちになる。

「朝撒高校の魔女との関連はあると思いますか?」

「ないわね」

 菅原は幾分か語気を強めて言い切った。

「何かそう断言できる根拠があるんですか?」

「魔女はよく屋上に行く姿を目撃されてるけど、そもそも屋上に続く扉は施錠されてるのよ。だから、普通の生徒なら屋上にいる魔女なんかに会えないわけ。まあ、そもそも屋上に住みつく魔女なんて眉唾物まゆつばものだけど」

 屋上に続く扉は施錠されている。これが過去の新聞部が目撃情報もあるのに魔女に直接取材できなかった原因だろうか。

「魔女が屋上に向かって行った、という目撃談は最近も上がってますか?」

「上がってないわ」

「なるほど。ありがとうございます。今日の取材はとりあえずこの辺りで」

「案外早く終わるのね」

「まだ情報が少ないですからね。何か分かったらまた取材するかもしれません」

「私以外にもこの落書きについて知ってる先生とか生徒はいるから、そっちに訊いてみるのもいいかもね」

 そう言いつつ、菅原はおもむろに立ち上がる。

「あ、最後に」夕は立ち去ろうとする菅原に声をかけた。「朝蒔高校の魔女について、先生はどう思われますか?」

「……実際に存在していなくても、私はずっと前から彼女のことが嫌いよ。風紀が乱れるわ」


 ほんの一瞬。


 わずかな間だが、彼女の視線が佐藤の方に向いていたのを夕は見逃さなかった。

「なるほど。今日は取材を受けてくださってありがとうございました」

「新聞、楽しみにしてるわね」

「はい」

 菅原は様式美のようにそう言って部屋を去った。

 序盤の収穫にしては悪くないものだった。なにより、初めての取材が上手くいったことが何よりもほっとしている。

「お疲れさま。受け答えも丁寧にできてたし、取材に関しては心配なさそうだね」

 原稿を書き終えた佐藤がコピー機の電源を入れつつ夕に声をかける。

「ありがとうございます」

「情報はどうだった?」

「悪くはなかったです」

「そう。良かったね」

 夕はふと、佐藤が座っていた席の隣にもう一つ席とノートパソコンが置かれていることに気が付いた。

「あれ、パソコン増えてます?」

「あ、気づいた? 西川先生が用意してくれたんだよ。こっちはノートパソコンだけど」

「ありがとうございます。使ってみてもいいですか?」

「いいよ」

 夕は早速パソコンを立ち上げ、そのまま検索エンジンを開き「テン・コード」と打ち込んだ。

「”12”は……待機?」

「どうしたの?」

「その、去年の落書きは”14”ではなく”12”だったそうなので、調べてみたんですけど」

「その意味が待機だったんだ」

「そうなんです」

 夕は待機の意味するものは何か、しばらく考え込んだ。

 ”10-14”が意味するものは不審者通報であり、あの落書きを書いた何者かが不審者――つまり魔女と接触したのではないか、というのが夕の見解であった。となると、テン・コードはあの落書きを書いた人物の行動を表していることになるだろう。

 それを踏まえて待機の意味を考えてみよう。仮にその人が自分と同じように魔女を追っている人物なのであれば、魔女と会えずに停滞した、つまり待機という意味になるのではないだろうか。

 いや、それだと新入生が入って少ししてからの時期にだけ落書きを書く意味が分からない。第一、魔女に会えなかったのであればわざわざ書く必要もないはずだ。

「思い悩んでるみたいだね」佐藤が夕の顔を覗き込みながら、とある提案をする。「まだ朝撒高校の構造も把握してないだろうから、リフレッシュついでに校内を散歩してみたらどうかな」

「……そうですね。そうします」

 そう言い残して夕は席を立ち、作業室を後にした。

 もしかしたら魔女に会えるのではないか、という小さな期待を胸に抱いて。

 菅原から聞いていた通り、北校舎は南校舎にくらべてかなり日光が入りづらく、全体的に暗い雰囲気をかもし出していた。奥まで続く廊下がいやに長く感じる。

 作業室にいるときは気が付かなかったが、どうやら外は雨が降っているようで、廊下でテニス部が筋トレをしていたり、野球部が階段を上り下りしていた。中学生の頃に嗅いだことのある制汗剤の匂いが廊下に漂っている。

「……あれ」

 西校舎三階の廊下の突き当たりに椅子が一つ置かれていた。背もたれには何かが書かれた一枚の紙が貼られている。

 近づいてみると、そこには「立ち入り禁止」の文字が書かれていた。恐らく、屋上に近づけないようにするためだろう。物理的には侵入は容易だが、貼り紙があるだけで心理的に抵抗感が生まれる。

 夕は貼り紙の前で暗い廊下に目を凝らす。すると、確かに屋上に続いていそうな扉が一つあった。無機質な白色のその扉は、他の教室のものと比べて明らかに異質だった。あまり手入れされていないのか、塗装が剥げて鉄の部分が見えている。

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