第25話

「来るな、夕。逃げろ」

 諒路の呼吸は明らかに浅く、早くなっている。夕の頭に逝く寸前の花織の姿がフラッシュバックし、眩暈めまいがした。

「やあ、遅かったじゃないか。安心してくれ。まだ刺してはいないさ」

「……お父さんから離れてください」

「おやおや」彼女は真顔のまま包丁の背の部分を諒路の顎に当てる。「愛されてるな、君は。……いや、ここは妻らしく『あなた』とでも呼ぶべきか?」

「お前は花織と似ても似つかない」

「それは嬉しいことだ。私は彼女のようにはなりたくない。……私は君を待っていたんだ、児玉夕」

 彼女は、相変わらず包丁を諒路に向けたまま夕の方に視線を向ける。

「……何の用ですか」

「とある話を聞かせたい」

「それを聞けば、お父さんを解放してくれますか?」

「この状況がいまいち分かっていないようだね、君は」

 彼女が包丁にわずかに力を込めると、ぷつ、という繊維が切れるような小さな音がした。包丁を当てられた諒路の首から血がわずかに流れ、諒路が小さくうめき声を上げる。

「やめろ!」

「活殺自在だ。実の父を殺されたくなかったら、君は大人しくそこで話を聞くしかない。罪深い、とある少年少女の話を」


     5


 諒路は十七歳の時、次の魔女候補に選ばれた。口頭ではなく、机の中にそれを通知する英文が書かれた手紙が入っていた。それが英文である理由は、タイプライターで書かれていたからだ。それゆえに筆跡から誰なのか予測することすらできなかった。

 それが全ての始まりだった。

 高校三年生になり、先代の魔女が卒業したので諒路は次の魔女をすることになった。魔女とは言えど、単に物を複製できる〈鏡〉を可能な範囲で使うことしかできない。

 しかし、生徒の要求がいつあってもいいように図書室のアルバム保管室には常駐しなくてはならなかった。一応、机と椅子はあるのでそこで自習することもできなくはないが、魔女という名の響きとは裏腹に、それはあまりにも寂しく、地味なものだった。

 ほとんど毎日、生徒が求める、なおかつ世界にさほど大きな影響を与えない範囲で多くのものを複製した。そして、魔女の仕事をしていて徐々に〈鏡〉の性質を理解した。

 まず、複製は一つのものにつき一度のみ。模倣品もオリジナルも、〈鏡〉に映らなくなるのだ。この〈鏡〉の性質は、正確には「鏡像を実体化させる」と言うべきなのだろう。

 次に。複製品の本質が鏡像である以上、それらは光を必要とする。光がなければ鏡に鏡像は映らないように、それら複製品は光がない限り形を保てないのだ。試しに腕時計を複製してみたが、やはり影の中ではまるで何もなかったかのように姿を消す。

 とはいえ、これが判明したからといって特に天才的な発明ができるわけでもなかった。

 ある日の放課後、いつものように図書室へ向かう最中に一人の女子生徒に出会った。彼女もまた、他の生徒と同様に魔女に用事があった。

 諒路は彼女を一目見た時、思わず息を呑んだ。魔女を引き継いで良かったと、初めて心の底からそう思えた。ほとんど一目惚れにも近かった。

 諒路は僕が魔女だと打ち明け、アルバム保管室で話を始めた。

 彼女は江洲花織と名乗った。諒路は良い名前だと褒めたが、花織は「母がつけた名前をそんなに褒めないでほしい」と突き放すように言った。何か事情があるのかと訊ねたところ、それがあなたに会いに来た目的なんです、と前置きを置いて花織は自身の境遇から話し始めた。

 花織いわく、彼女の母親が虐待をするのでもう全てが嫌になってしまったという。始まりは幼稚園の頃からで、ほぼ日常的に階段から突き落とされそうになったりするそうだ。

「食事の中に衣料用洗剤を入れられているのに気づいた時は、本当にゾッとしました」

そう語る彼女のうれいを帯びた目には涙が溜まっていた。

「とはいえ、君の知っている通り俺には複製しかできない。何を複製してほしいのかな」

 諒路がそう訊ねると、彼女は一言。


「私の代わりが欲しいのです」

 そう言って、この世の不幸をすべて背負ったような潤んだ瞳で諒路を見つめた。涙が、諒路の背後にある窓から差す西日を受けて輝いていた。星空のような目だった。

 諒路はほとんど反射的に首肯しゅこうした。彼女の境遇は、自分にこそ縁遠い話ではあるものの、まるで自分のことのように強く共感できてしまった。

 諒路は花織を〈鏡〉の前に立たせ、ゆっくりと鏡面へ手を伸ばした。やり方は全て『〈鏡〉の取扱説明書』と題された手作りのペーパーバックに書かれていた。

 正直に言って、これが成功するか分からない。前例がなかった。

 諒路の手は鏡像の花織の腕を掴む。そして、ゆっくりと鏡から引っ張り出す。

 こうして、花織の分身が完成した。

 花織は自身の分身に、代わりに生活してほしいという願いをした。

「ふむ……急に呼び出したかと思えば、そんな用事だとはね」

 花織の分身は、性格や口調もまるで真反対であった。分身と花織と諒路は十分近く交渉を繰り返し、最終的に「卒業したら、花織の分身を自由にさせること」という条件のもとの契約を結んだ。

 それから諒路は卒業し、魔女という役職を花織に託した。しかし、学校にいるのはあくまで花織の分身であり、彼女はもちろん魔女の役目などするはずもなく、この時点で魔女はその機能を失いつつあった。

 そして、花織が卒業した一九九五年の三月。

 諒路は花織の分身から海に来るように誘われていた。

 彼女の提案はこうだった。

「私を殺してくれ」


 この約三年間、花織の分身はずっと自分の存在意義について、自由について考えていた。明晰夢めいせきむの中で思い通りのことをするように、彼女は様々なことをしてみた。勉強に専念したり、部活に入って全国大会を目指したり、時には無意味に恋愛もした。

 そして、そのどれもが空虚に思えた。これは生活していくうちに気が付いたことだったが、彼女には血も通っていないし心臓も動いていない。

 感情と身体の関係性について、三つの説がある。

 中枢起源説、末梢まっしょう起源説、そして二要因説だ。

 どれが正しいのかは今でも明らかになっていないが、ここにおいて重要なのは末梢起源説だ。

 分身は、いかなる事象を目の当たりにしても、経験しても、生理的反応が感情に先立って表出することはない。

 なにか面白い出来事に直面してほぼ反射的に笑うことも、涙を流すこともない。車に轢かれそうになっても、まったく心臓が動かないので恐怖も湧かない。涙を流すことも笑みを浮かべることも、全てが恣意しい的に行われる行動なのである。

 それゆえに、花織の分身はどこか感情に欠けていた。これを本当の自由と呼べるのか、彼女はいぶかしんだ。

 その末に、花織の分身は思いついた。というより、もう考えることに半ば疲れた、というのが正解に近かったのかもしれない。

 彼女は高校で習わないようなことも含めて、様々なことを学んだ。合理主義に従って、何の行動もしない存在は死んでいるのと同意義である。そして彼女は情動を失いかけている。

 であれば、「今の私は既に『死んでいる』のではないか」という結論に至った。

 確かにあらゆる行動は成したが、結果として自分には心の動きが見られない。悩み、そのうえで分身は諒路に殺すことを頼み込んだ。もう全てがどうでも良くなってしまった。

 予測はできていたが、諒路は殺すことを断った。それどころか、彼は「他にも楽しいことはある」と言った。

 そして。

 彼がそう言ったのを契機に、分身にとある感情が芽生えた。

 それは恨みと嫉妬しっとだった。

 なぜ自分には感情がないのか。他にも楽しいことがあると言えど、それを楽しむ感情がない。それゆえに全てに対し無気力なままであったというのに、よくのうのうとそんなことが言えるものだ、と。

 そして、そんな感情が自分に芽生えたのを感じて。

 これが自分の生きる意味だと、ほぼ直感的に悟った。

 そもそも、なぜ自分はこうして悩まなくてはならないのか。

 諒路が〈鏡〉から引っ張り出さなければ、自分は無知なままでいられた。

 彼女は知ってしまったのだ。悲しみも喜びも怒りも、他の人は持っているのに自分にはない。自分が真の意味で『生きている』状態にはなれないのだ。

 そして、彼女は復讐を誓った。諒路が自分を殺せない理由は、単に自分の幸せを願っているわけではない。彼の恋人と同じ姿であるから殺せないのだと、花織の分身は分かっていた。

 そして、諒路に自分を殺させることができれば、罪に向き合うのではないかと。


 諒路は大学二年生であった。心理学を専攻し、全てが順調に思えた。

 そんな人生に、一筋の影が差した。それは自分がずっと考えずにいた悩みの種であった。花織自身も、そのことについて心配をしているようだった。

 そして、一通の手紙が自宅に届いた。

 内容はただ「明かりを持って、朱浦の海に来い」というものだった。

 諒路は花織から貰った腕時計を身につけ、バスで海へ向かった。

 そして諒路は、砂浜にぼうっと立ち、包丁を片手に海を見つめる花織の分身と再会した。

「卒業、おめでとう」

 諒路はそう言いながら彼女の近くへ歩み寄った。

「めでたいことなんて何もない。全て君らが敷いたレールの上で歩いただけさ」

「……そうか。だが、君はこれで晴れて自由の身だ。それはめでたいことなんじゃないかな?」

「めでたい、なんて気持ちを持っている君が羨ましいね」

 諒路は、最後に会った時とかなり異なる雰囲気を持つ彼女に動揺を隠せなかった。

「前に頼んだこと、検討してくれたかな?」

 花織の分身は全く期待を持っていなさそうな口調で訊ねる。諒路はフェアーハンドランタンを手に持ったまま花織の分身の隣に立ち、同じように海を眺めた。暖かくなってきたとはいえど朝はまだ肌寒く、強い風も吹いていた。

「君は絶対に殺さない」

 水平線から目を離さずに言ったので、彼女の表情は分からない。相変わらず呆れるような表情か、あるいは怒りの表情を浮かべているかもしれない。


     6


 暗い空間を、ランタンの明かりが照らす。

 諒路の手には包丁が握られている。

 包丁の先は、花織の分身の腹部に刺さっている。

 正確には、刺さっているというよりは、透過しているようにも見えた。

 花織の分身は、鏡像をただ実体化させたもの。決して生物ではないから成長もしないし、死ぬこともない。常に同じ姿を保ち続けるのだ。

 そんなことはずっと前から分かっていた。

 諒路は包丁を引き抜いた。血どころか、傷跡さえ残っていない。

「やはり、死ねないか」

 包丁を眺めながら、彼女は達観したような口調でそう呟いた。そして、諒路の方を見た。

 その瞬間だった。

 諒路はとっさにランタンのシリンダーを下げ、ホヤガラスを上げて火を吹き消した。

 消える一瞬、花織の分身は諒路の腕を掴んだ。思わずランタンを手から離してしまう。

「ま――」

 彼女が何かを言う前に明かりはなくなり、辺りに暗闇と静寂が広がった。

 鏡像である花織の分身は、光がなければその形を保てない。

 諒路はおぼつつかない足で鉱山跡を出た。

 自分は死ねないと理解した瞬間。そして、彼女が諒路の腕を掴むその直前。

 その表情には、確かに憎しみの色が浮かんでいた。


 こうして諒路は、鉱山跡に花織の分身を閉じ込めた。というよりも、闇の中に放置してきた、という方が正しかった。

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