第26話
7
「罪は、その個人に影のようにつきまとうものだよ。決して離れることはなく、あがないの言葉を口にしたところで罪は応えることなどない。ただそこにあるだけだ。そうである以上、重要なのは罪との向き合い方さ。それを、この男は――」花織の分身は包丁を諒路の左胸に突きつける。「あろうことか、逃げた。目をつむり、あらゆる罪を闇の中に
彼女の話は、とてもじゃないが理解できなかった。諒路が過去にそんなことをしていたことも、彼女が〈鏡〉から生まれた花織の分身であることも。
だが、理解できなくとも判断材料はいくらでもあった。花織の分身がランタンを肌身離さず持っていたのも、諒路が朝撒高校の魔女——花織の分身が朝撒高校にいることを知った時の反応も。その全てが静かにその事実を肯定していた。
「君らはこっち側の世界の人間だ。心臓は一定のペースで拍動しているし、あらゆる感情を持って、その自由意志の中で行動できる。……ダニエル・クレメント・デネットの言葉を引用しつつ自由についても討論しておきたいところだが、やめておこう。そんな君らに問いたい。君らは〈鏡〉をどう思う?」
「どうって……その、不思議な〈鏡〉だな、と」
「ものの複製ができる?」
「……はい」
まるで綱渡りをしているような気分だった。一言一句に目を光らせられているような心地がして、声を出すことすら不快に思えた。
「そうか。——君もか」
そう言われた瞬間、呼吸が上手くできなかった。失敗した。とにかく、いつ諒路を刺す素振りを見せても反応できるよう監視しなくては、と意識を集中させた。
「これは〈鏡〉の根底の話だ。いつ誰が〈鏡〉は『映したものを増やせる』ものだと言った?」
「それは、〈鏡〉を発見した人が――」
「そうだ。初代校長、東雲源太郎がそう定義づけた。というよりは、そういう風にしか見なかったというのが正しい。仮に、その定義が正しいとして考えてみようじゃないか。もしただ単に、ものを複製できるだけの特性であれば、なぜ私はこうして君らと会話をしている? なぜ児玉諒路に復讐心を抱いている? ただ増やすだけだったら、江洲花織の姿形をした、本物そっくりのなにかだけが出来上がるはずだろう。そもそも、『増やせる』という言い方自体が誤りだ。何が言いたいか、分かるかな?」
彼女の言葉は相変わらず理解しがたいものだった。きっと、彼女は何年もこうしたことを考えてきたのだろう。
夕はおそるおそるかぶりを振った。
「では、君が気が付けるように少し話を変えようじゃないか。〈鏡〉は、初代校長の東雲源太郎の私物だ。彼は鏡の中の十円紙幣を取ることから、その特性を知った。彼にとってはさぞ偉大な発見だっただろう——だが、鏡の中にいる東雲源太郎の気持ちを考えたことはあるか? 鏡の中の彼は十円を奪われた。死に直結するわけではないが、その時の悲しみや恨み、君に分かるか? ……分からないから、こうして〈鏡〉を思うがままに使ってきたのだろうな」
ここで、ようやく夕は過去に彼女が話したことと、この話が繋がっているのではないかと直感した。彼女が重要視している『生きている』という言葉。
彼女はきっと、精神性を重要視したいのだ。実際に心臓が動いているとかはどうでもよく、ただ自分にとってその行動が有意義で満足なものか。彼女はそればかり気にしていた。それゆえに彼女は恨みという感情をエンジンにして、このような行動に出たのだ。
「……〈鏡〉の中の存在も、同じように『生きている』、ということですか?」
ほとんどあてずっぽうにも近かった。ただ、花織の分身であればこう答えるだろうと、彼女を知ろうとした夕だからこそ出せた回答だった。
「そうだ。やはり君はよく分かっているね。”心”だよ。血液も神経も通っていない私が、腕を伸ばしたり歩くことができている以上、そこには間違いなく物理的な関係を超えたものがある。私は”心”だけで動いている、物心二元論を体現したような存在さ。そして、この〈鏡〉の向こう側にあるのは、もう一つの地球。もう一つの宇宙だ。その全てが”心”を持っている。それなのに、だ。児玉諒路。君はあの〈鏡〉をどういう目的で使った? なあ。〈鏡〉の中のものは、我々は、道具か? ただ私利私欲のために使われる存在に過ぎないのか?」
花織の分身はまくし立てるように諒路へ問い詰めた。諒路はこめかみに冷や汗を垂らし、じっと花織の分身の目を見つめ返していた。不思議と、その表情に恐怖や怯えはなかった。
「おれは……正直に、言わせてほしい。おれには君がどう考えているのか分からない。そのために心理学を学んでいたと言ってもいいくらいに」
花織の分身の表情は変わらず、どのような感情を抱いているのか分からない。だが、彼女の胸中にある感情はなんとなく分かるような気がした。諒路の言い分は、夕にでさえあまりにも身勝手で軽率な発言のようにしか思えなかった。この期に及んで、諒路はまだ謝罪の言葉すらでないのか、と。
夕はどのような感情を抱くべきか分からなくなっていた。あの鉱山跡に光を入れて花織の分身を外に出したのは夕だった。だが、諒路の過去の行動はあまりにも自分勝手に思える。これは自業自得なのではないか。
「君は本当に変わらないね。もちろん、悪い意味で。それで、私の質問に答えてほしいのだが。君は私たちをどう見ていたのかな?」
諒路は相変わらず花織の分身から目を逸らさず、少しの間を置いてから、おもむろに口を開いた。
「白状しよう。おれは、君のことを道具として見ていた」
夕の背後から、小さく悲鳴のような声が聞こえた。湯浅だと思ったが、それにしてはあまりにも女性的な声だった。声の主は分かっていた。夕は振り返らずに、諒路と花織の分身をの方を見ていた。
今、もし自分が菅原を一目見たら、きっと怒りが湧いてきてしまうだろう。そんな理性がどうにか夕の激情を押し留めた。
「今、なんて言った」
花織の分身は、相変わらず不気味なほどに何の感情も感じさせない表情を浮かべて訊ねる。
「おれは、おれの愛する人のために君を利用した。何も考えず、青年期特有の衝動に身を任せたんだ」
花織の分身は、表情にこそ表れないが、明らかに硬直していた。まるで時が止まってしまったかのように、彼女は諒路の言葉に耳を傾けている。
「私は、君にとって……だって私は、確かに花織で――」
「おれの、道具だった。そして、もう一つ。君は大きな勘違いをしている。おれの過去の行動が正しいとは限らないが、こちらにだって当然のように”心”はある。決して物心二元論に賛同しているわけじゃなく、あくまで信念においての話だ。それを踏まえたうえで逆に訊くが——君こそ、おれの気持ちを考えたことが一度でもあるのか?」
その瞬間。
全てが終わった。
間に合わない。
体が思考に追いついていない。
助けなくちゃ。
救急車。
警察は?
反撃されたらどうする?
思考がとめどなく溢れてくる。
それなのに、包丁が腹部に刺さっている父親を前にして、夕は指一本も動かせなかった。
まるでスローモーションの映像のようだった。
花織の分身は、腹部に刺さった包丁を抜くことなく、両手で力強く握っていた。
彼女が包丁を刺す力に押され、諒路の体が〈鏡〉の方へ傾く。
諒路のシャツに、壁にペンキをかけたような赤黒い模様が徐々に浮き出てくる。
彼女はうつむき、長い髪が顔を隠す。
そして。
「考えなかったことの方が、少ないんだよ……!」
その言葉で、ようやく彼女を突き動かす”心”が分かったような気がした。
恨みなんかじゃない。
彼女の殺人動機は、愛憎だ。
花織の分身だって、自意識は花織本人だ。思考実験上のスワンプマンのように、彼女は「自分こそが花織だ」と信じているし、だからこそ諒路に愛されたかった。
それなのに、諒路は逃げた。だから――。
「刺してくれ、てよかった……おれが近づけば、警戒される……」
諒路が、両手で腹部に刺さったままの包丁の刃を抑え、重心を後ろにする。
「諒路……!」
その一瞬。
錯覚かもしれないが、ほんの一瞬だけ花織の分身の表情が、わずかに曇ったように見えた。
「君をわざと怒らせる、ような……発言を、してしまった」
力強く包丁を握っていた花織の分身は、そのまま諒路と一緒に――〈鏡〉にぶつからず、その向こう側へ吸い込まれるように入っていく。
その時の諒路の表情は。
痛みで意識も
花織の葬式の時にも見せた、優しくて、慈愛のこもった表情で。
〈鏡〉の奥へ行ってしまったから、もう声は聞こえないのだけど。
「すまない」
ただそれだけ、呟いているように見えた。
それが誰に向けられた言葉なのか、夕に分かりはしない。
ただ、諒路は、最期には罪と向き合い、
そして、誰かが夕の横を駆け抜け〈鏡〉の方へ向かった。
「何ぼうっとしてんだ、児玉!」
湯浅は、壁に立てかけられているその〈鏡〉の後ろに手を添え、力いっぱい押す。
「くそ……重い、なあ!」
「なに、してんの……?」
「なにしてんの、じゃねえやろが……! 〈鏡〉割んねん……! 父ちゃんの死、無駄にすんなよ!」
「いや、でも……」声が震え、激しい離人感が夕を襲う。「そんなことをしたら――」
「お前まで死ぬよりましやろうが!」
そこで、夕の体はようやく動いた。湯浅の言葉に背中をぽん、と押されるように、ほとんど反射的に動いていた。
――僕は。僕は、生きていたい。知らないことだってたくさんある。まだ、人を愛することすらできていない。
「きばれや! いくぞ、せー……の!」
夕と湯浅は〈鏡〉を壁から離し、叩きつけるように倒す。
その瞬間、走馬灯のように、今までの諒路との記憶が頭を駆け巡る。
諒路の作ったサイズも硬さも不揃いなカレー。諒路が料理に慣れ始めた頃に作った肉じゃが。諒路の謝罪の言葉。諒路と一緒に見た海。諒路と一緒に見た真っ赤な夕日。
顔を合わせることも、会話を交わすことも少なかったけど。
それでも、確かにそこには”心”があったように思えた。
そして、やはり最後に思い浮かぶのは。
諒路の優しい顔だった。
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