エピローグ:東雲

第27話

 あれから、約二ヶ月が過ぎた。ゆう池木いけぎ西川にしかわと、新聞部員ではないが湯浅ゆあさの協力もあって魔女についての記事を書き切ることができた。そして、ついに『朝撒新聞』は六月十一日に発行された。気づけば中間試験も近づいてきており、夕は幸か不幸か、忙しさであの事件を忘れることができた。気温はあの時よりもさらに上がり、本格的な夏が到来しようとしていた。

 〈鏡〉は音を立てて割れた。あまりにも呆気ない幕切れだった。

 花織の分身は二度と〈鏡〉から出てこなかった。もちろん、諒路りょうじもだ。その生活の残滓ざんしだけが、彼の自室に残された。諒路は行方不明として処理され、生活に関しては祖父母がこちらに来てくれるから大丈夫だろうということで決着がついた。

 この物語を信じる者など、湯浅以外に誰もいない。ただ、池木と西川だけは、何も言わず「よく頑張った」とだけ言った。信じてくれているかは別として、この反応は夕にとっての何よりの救いだった。

 菅原すがわらは朝撒高校から消えた。詳しくは聞いていないが、自主退職したか、あるいは被疑者として勾留こうりゅうされているという噂が広がっていた。諒路と接した部外者の人間は、警察目線では菅原だけだ。どちらでも納得できるし、どちらにせよ彼女は二度と自分の目の前には現れないだろうと思っている。彼女もまた、自分の罪から逃げた人間の一人だ。

 結局、夕が知ったことのほとんどは新聞に書けなかった。魔女が実は魔女ではなくて、〈鏡〉の中から連れ出された高校生の頃の母親の鏡像だったなどと、果たして誰が信じるだろうか。

 新聞の最後は「魔女については、これ以上知ることはできないだろう」という文で締めくくった。実際、本当の魔女も花織の分身も、もういないのだから。決して嘘をついているわけではない。

 菅原が残した"10-35"という落書きは、次の日の朝会でも話題に上がっていた。それも相まって、結局は朝撒高校の魔女の噂は今でも残ってしまっている。

 それらも踏まえて、あれからずっと、どうして花織の分身は朝撒高校に残って夕を待つという回りくどい方法を取ったのか、ずっと考えていた。彼女には数年単位の時間があったはずなのに、児玉と書かれた表札のある家を探して直接殺しに来ることをしなかった。

 そして、一つの結論に至った。

 花織の分身も、魔女の噂が流れているのは知っていた。それを知った上で彼女は魔女と名乗り、ほんのわずかな瞬間だけ生徒や教師の前に姿を見せた。彼女が屋上から落ちるのを校内の人間のほとんどが目撃したあの事件だって、あまりにもわざとらしすぎる。皆に魔女の存在を信じ込ませるため、見せつけるように花織の分身は落ちたのだ。

 夕の取材をこころよく引き受けたのも、油断させるためではなかったのではないだろうか。そう思えた。本当にただ魔女の存在を広めてほしかったのかもしれない。

 ——『私という物理的領域の因果的閉包性から外れたような存在も相まって、ここまで大きな噂になった。噂は老いもしないし死にもしない。魔女は噂となってただこの世に残り続けるのみだ』。

 彼女は、魔女の噂として生きていたかったのだ。彼女の、諒路への愛憎とはまた別に、『生きている』という実感を得るためにそうしていたのだろう。

 ただ、これらはあくまで推論だ。それが本当に花織の分身の望んでいたものか、それは彼女に直接訊いてみないと分からない。

 でも、魔女の噂を耳にするたび、夕は花織の分身を思い出す。彼女との会話も、はっきりと思い出される。


『であれば、私は尊重されるべき存在に値するだろうか? 人権というものは、私にもあるだろうか?』

『それは……はい。あると思います。誰であれ、尊重されるべきです』

『私が生物でなくてもか?』

『それでも、です。あなたが自分は人間だと主張するのだったら』


 もし。

 自分の言葉で、彼女の”心”を救うことができていたのなら。

 話はまた違ったのかもしれない。




 夕は、朱浦あけうらの海岸に立ち、海を見つめていた。

 朝と夜の中間ほどの時分——東雲しののめの頃に、夕はわざわざ自宅から歩いて海に来ていた。

 そして、その手には一枚の紙が握られている。

 夕はゆっくりと深呼吸をして、それから手元の紙に視線を落とした。

 それは、諒路のデスクの上に置いてあった手紙だった。警察に証拠として押収されないか心配で、夕はこっそりと持ち出していた。

 夕はそれを開き、声に出して読む。いまだに心の整理がつかないので、辺りにひと気はないが、誰かに聞いてもらいたかったという気持ちもあったのかもしれない。


 ――夕へ。遺書というものは初めて書くから、少し緊張している。お父さんはどんな死に方をしているだろうか。尾を引いてしまうような、そんな死に方は嫌だが。

 自分が不器用なのは自覚している。全て言葉足らずだったことも。その結果がこれだ。お父さんは罪から逃げようとしたんだ。過去を闇の中に捨てて逃げてきた。逃げた先にもっと深い闇があることは明らかだったのに。

 夕がお父さんに、どうして心理学を学んでいるのかと訊いてきた時があったな。あの時おれは、もう人を愛せないから、と言った。

 今思えば、あれも怠慢な言葉だ。心理学を学べば正しく人を愛せると信じ切って、ずっと何かに頼ってしか生きられなかった。花織のことは愛していたが、それ以上に不安が大きかったんだ。その結果、ほとんど何も伝えられずに全てが終わってしまった。

 夕には、後悔のないように生きてほしい。お父さんのようにただ暗闇をひたすら走るんじゃなくて、お前には光の中を歩いてほしい。お父さんが望むのはそれだけだ。

 本当にごめんなさい。そして、ありがとう。


 手紙はここで終わっている。夕は再び水平線に視線をやった。

 強い風が吹いている。

 白波が立っている。

 遠くから海鳴りが聞こえる。




—―――――――――――――――




 私がこの子につけた名前の理由を言う前に、あなたは「いい名前だね」と言ってしまったので、結局言えずじまいだった。

 名前を付けたのは私だけど、名前の由来はあなたなの。

 あなたの諒路という名前。

 諒闇りょうあん闇路やみじ。どっちも闇っていう漢字を入れると二字熟語になるでしょ。

 あなたのご両親が、私の予想している願いを込めて諒路と名付けたのか分からないけど、もしそうだったとしたら、とっても素敵な名前のつけ方。

 だから、私もそれにあやかってみたの。

 闇のつく二字熟語を考えて、とっさに思い浮かんだのは夕闇だった。

 でも、あなたの名前がそうであるように、闇なんて漢字は要らない。

 夕。児玉こだま夕。これがいい。

「この子が生きる先に、闇がありませんように」って。

 ね、素敵でしょ?

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バウンダリーの向こう側へ 涌井悠久 @6182711

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