第24話

「じゃあ、この内容って――」

「全て事実さ。そしてその性的暴行の対象は」彼女は夕を指差した。「君の父親だ」

「……は?」

 その瞬間、腹の底からウジ虫が大量に這い上がってくるような気持ちの悪い内臓感覚が夕を襲った。自分のことではないのに、その生々しい気持ち悪さが急に自分のことのように感じられ、吐きそうだった。胃が重くなり、ぐるぐるとかき混ぜられているような気分だ。

「そんな過去の話がどうして現代になって知られたのか分からないが……そういえば、そんな諒路と付き合っていた花織は、当時は悩み相談をするかかりつけの精神科医を持っていたらしいじゃないか」

 鎌田のことだ。どういう経緯か分からないが、そこから池木に知れ渡った可能性は高い。

「彼女を、どう利用したんですか?」

 乱れた呼吸をどうにか落ち着かせようと深く呼吸しつつ、夕は訊ねた。

「できるだけ君が私を積極的に追うように、情報を小出しにさせた。諒路が唐突に海へ行ったことがあっただろう。あれも菅原が西川にそう提案するよううながしたからだ。だが、どちらも事情は知らない。単に私の手足となって動いただけさ。彼らは責めないでやった方がいい」

 ここで夕の予想は完全に断たれてしまった。途端に何もかもが謎に戻ってしまい、宙づりにされたような気分だった。では、朝撒高校の魔女とは何者なのだろうか。

 本当は魔女なんてこの世に存在しなくて、ただ噂だけがあるだけではないか。

「本題に入ろうか。朝撒高校の魔女とは、果たしていったい誰なのか? そのためには、まず魔女とはどのような存在か話す必要があるね」

 彼女がそう言ったことで、夕は自分の体がいやにこわばっているのを感じた。これで本当に終わってしまうのだという得も言われぬ達成感のような、緊張感のような、あるいは違和感のようなものが体を支配していた。

「君は、〈鏡〉を知っているか?」

「鏡?」

 思わず拍子抜けしてしまい、夕は少し腑抜けた声で訊き返す。

「君らがいつも見ているような鏡とはまるで異なるものだ。初代校長、東雲しののめ源太郎げんたろうが持っていたとされる〈鏡〉」

「あ」

 夕はふと思い出した。そうだ。この朝撒高校には魔女以外にも確かに〈鏡〉の噂があったはずだ。内容は……何だっただろうか。

「その〈鏡〉は、映したものをそっくりそのまま複製する力を持つ。一体どうしてそんなものがあるのか、はっきりとは明かされていないがね。東雲源太郎の異常なまでの生への執念が生み出したとか、そんな話もある。とにかく、この朝撒高校には不思議な〈鏡〉なるものが存在する」

 これを踏まえたうえで私の話を聞いてほしい、と彼女は続ける。

「魔女は君も知っているように不老不死ではない。しかしその噂は何十年も前からある。——魔女とは、一つの役職だよ。代々この高校の選ばれた生徒だけが、魔女という名を襲名し続けていた。公式的に決まったものではなく、単に生徒がそう呼びたがっているだけだがね。その役目とは〈鏡〉を管理すること。魔女と呼ばれる人間は、一目の付かない場所に鏡を保管し、必要に応じてのみ〈鏡〉を使用する」

「人目の付かない場所……」夕は頭の中で朝撒高校の地図を描き、しらみ潰しに考え、ふいに思いついて声を出した。「——ここ、ですか。二十七年に屋上の鍵が紛失した、という話も聞きましたし、魔女が屋上で〈鏡〉を保管するためと考えれば、辻褄は合います」

「残念だが違う。風雨にさらされる以上、ここは物を置くのに適さないだろう。だが着眼点は悪くない。屋上のような、よほどのことがない限り誰も入ることがなくて、そもそも存在すら知られていない空間に〈鏡〉は保管されていた。……児玉夕も、そこの児玉夕の友人も、そこに足を踏み入れているはずだ」

「一つだけ、思い当たる節がある。……アルバムを保管しとったあの部屋、か?」

 湯浅が恐ろしい言葉でも口にするかのように呟く。

 彼女は笑みを浮かべ、嫌味ったらしく拍手をした。

「正解だ。優秀な助手を持ったじゃないか、児玉夕。名探偵ホームズのように一人では上手くいかないようだ。そう、あの部屋だ」

「ちょ、ちょっと待ってください。じゃあ、司書の人って」

「グル……と言うと聞こえが悪いね。別に罪を犯しているわけではないのだから。司書は魔女のことを知っているよ。私が何者かまでは知らないだろうが、少なくとも魔女ではないことは知っていたのではないかな」

 夕の脳裏に司書の大城おおしろとの会話が思い出される。

 彼はあの口振りや語彙ごいからして、かなりのミステリー好きだった。彼女は魔女ではないと言った時も、まるで添削をする教師のように、論理立てて話さないとみんなに分かり辛いだろうとでも言いたげな注意をしていた。

 あの人はわざと全てを言わなかったのだ。単に探偵のような推理をしている場面が見たいがために。

「じゃあ、大城はそれを知ってて隠してたっちゅうことか?」

 湯浅も同じ結論に至ったようで、非難するような口調で訊ねた。

「それは違う。おそらく、今の司書は魔女を知らないだろう。今から約二十三年前、〈鏡〉が学校から消え失せたのだからね。そのせいで魔女という役職は実質的に消え失せた。のだよ。そして、今ではその『魔女』という耽美たんびな響きだけが生徒間に広まり、私という物理的領域の因果的閉包性から外れたような存在も相まって、ここまで大きな噂になった。噂は老いもしないし死にもしない。魔女は噂となってただこの世に残り続けるのみだ」

 夕は驚くことすらできなかった。様々なものが嚙み合って、朝撒高校を支配する魔女の噂が生まれたのだ。その事実を前にして、ただ呆然と、かつて魔女と呼ばれていた彼女の顔を見つめ続けていた。

「いや、ちょっと待ってください。じゃあ結局、あなたは何者なんですか? それがまだ分かってないんですけど」

 彼女は真顔のまま、じっと夕を見つめている。彼女の思考が全く読めない。

「……私のことがそんなに気になるか?」

「はい」

「知りたい?」

「はい」

 このやり取りも二度目だと、夕は自分を半ば俯瞰して考えられていた。怒涛の情報量が流れ込んで来たのでかなり混乱しているが、思考だけはクリアなままだった。

「そうか」彼女は柵の上に座ったまま、ランタンを両腕で抱える。「それはまた後で話そう。それよりまず、私を祝ってくれないか? 今日は私の生誕祭だ。私は今日、初めて生まれた意味を持つ。今からこの世に生まれると言っても過言ではない。時間稼ぎも、もう十分だろう」


 その時。

 それは同じタイミングで起こった。

 湯浅が「児玉!」と叫び、夕の腕を引っ張る。

 湯浅の予想に反して、彼女はランタンを抱えたまま屋上から落下していく。


 彼女は奇麗で、それでいて下卑た笑みを浮かべていた。

 そして、その表情で。

「魔女裁判だ!」

 辺りにこだまするような声量で叫び、そのまま落下していった。

「……なんなんや、あいつ。てっきり、また児玉殺すんか思たのに。よう分からんこと言うて落ちていったな」

 湯浅は険しい表情を浮かべつつも、どこか安堵していた。そしてそのまま視線を彼女が元いた場所から夕へ移す。

「急に引っ張ってすまへんな。立てるか?」

「うん、大丈夫」夕は湯浅の手を借りて立ち上がり、彼女が落ちていった方を見た。「とにかく、彼女を追おう」

 夕は早足で屋上の扉を開け、三階の廊下へ戻る。

「なんや、これ……さっき来た時はこんなのなかったやろ」

 屋上から廊下に出てすぐ目の前の壁に、恐らく彼女の協力者である菅原が書いたであろう落書きがされていた。

 ”10-35”という文字。

 夕はそれを見て、ほぼ反射的に自分のメモ帳を取り出していた。

「——ヤバい」

 夕の顔がみるみる青ざめていく。震えた手で頭を抱え、延々と「どうしよう」と呟いている。

「どないした、児玉。しっかりしろ」

「早く、早く行かないと」

「どこへ」

 夕は湯浅の問いに答えず、なんの説明もなしに廊下を駆け出した。


     4


「なあ、説明、してくれ! 何があったんや?」

 湯浅は息を切らしながら夕に訊ねる。それもそのはず、湯浅は夕と並走しているのだ。二人はどこかへ向かっていた。

「さっきの落書き、たぶん菅原先生が書いたんだけど」夕の脳裏には”10-35”という落書きが焼き付いていた。「あれ、テン・コードで重大犯罪警報って意味」

「それで、どこ向かってるん? これ」

「家。僕の家」

「なんでまた……」

 恐らく、彼女は諒路を殺しに行っている。最初は侵入されることはないだろうと思い朝撒高校に来たが、今の彼女には協力者がいるのだ。

 夕の担任の菅原だ。彼女が来れば、諒路も家の鍵を開けて応対に出てしまうだろう。

 もしかしたら、最初から彼女は夕を殺すつもりはなかったのかもしれない。夕を殺すことをおとりにして、諒路を殺すのが本命であった可能性が高い。その疑念は先ほどの魔女の話でより強まった。

「彼女は、お父さんを殺すつもりだ」

「は……? なんで、そんな——」

「お父さんが彼女を、あの鉱山跡に閉じ込めたから」

「え? いやちょ、ちょっと待て。情報が多すぎる」

 湯浅は走りながら思考を巡らす。しかし、どうにも集中できなかったのか諦めたような顔をして「とにかく、児玉の父ちゃんがヤバいんやな?」とだけ訊ね、夕は小さく頷いた。

 彼女の話からして〈鏡〉を持ち出せるのはその在りかを知る魔女か当時の司書だけだ。一見すれば、当時の司書が魔女である可能性の方が高く見える。魔女が〈鏡〉を持ち出すことは、言うなれば職務放棄だ。

 だが、夕は確信していた。〈鏡〉を持ち出したのは魔女で間違いない。

 そもそも、魔女という名称自体がミスリードだった。

 加えて、彼女が発した『魔女裁判だ!』という言葉。

 魔女裁判とは、その名の通り魔女を裁くための裁判手続きだ。それをこのタイミングで言うということは、そういうことなのだろう。

 諒路は、魔女と契約してあの影の中で姿を消す腕時計を手に入れたわけじゃない。

 〈鏡〉を外へ持ち出した朝撒高校の、最後の魔女は――。

「あなたが魔女だったとしても、僕は決してあなたを裁けない……」

 自宅に辿り着いた時、夕はそう苦々しく呟いた。

 夕は靴も脱がずに玄関から上がり、二階へ向かった。湯浅もついていくのが必至というような這う這うの体で夕についていく。

「——お父さん」

 夕は扉を音を立てて開いた。

 まず目に入るのは正面の本棚だ。上から荒縄が垂れており、その先は輪っか状に結ばれている。

 次に目に入るのは、かなり大きい姿見のような形状の鏡だった。その中に二人はすっぽりと収まりそうだ。その鏡の下には見覚えのある黒い布が落ちている。それを見て、夕が時計を探している時に見つけた本棚の裏に置かれていた黒い布で覆われた板とは、これだったのだとようやく気が付いた。

 次に目に入ったのは。

 鏡にその姿が映らないが、確かにそこに立っている江洲花織の姿をした存在と。

 腹部に包丁を突きつけられている諒路だった。

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