第14話
——三つ目。彼女は神出鬼没であるということ。
——ある日の下校時刻を過ぎたとき、まだ教室に残っている生徒がいないか確認するために巡回をしていた教師は、魔女が屋上の扉を開けてちょうど侵入していく瞬間を目撃した。注意しようと追いかけて屋上に出たが、そこに彼女の姿はなかったそうだ。一説によれば、彼女は幽霊だという話もあるという。
夕は二〇一一年の新聞にあった記事の内容を思い出していた。
菅原もまた、不審な生徒を目撃して屋上へ出た。しかし、その生徒は屋上から姿を消していた。
魔女は正確には神出鬼没ではない。だが、魔女にしかできない芸当があるのだ。それが結果として神出鬼没という特性を生み出している。それは夕だけが知っている。
——『私は生物ではないからだ』。
これはSの言葉だ。つまり、彼女の体は死んでいるのと同じ状態ということ。
どんなに飛び降りても死ぬことがない。生理的反応が見られないと言っていたことから、血液も噴き出ない。
それが結果的に、屋上から突如消失するというギミックを作り上げている。
つまり。
彼女は正確には不老不死だと言うべきなのだろう。
屋上の端に立っていた生徒。あれは魔女で確定だ。菅原に後をつけられたために、二〇一一年の記事にあった目撃情報と同じように逃げる必要があった。しかし今回は屋上から落下して逃げる瞬間を見られてしまった。
こうなったらもう直接訊くべきだ。これ以上手段を選ぶことも、佐藤がいなくなる可能性を恐れることもできない。彼女の秘密と真正面から向き合うべきだ。
3
解放されたのは、既に夕方の五時を過ぎたあたりだった。まるで警察の事情聴取のように何度も同じ質問を繰り返され、そのたびに夕はありのままのことを話した。
それを四回以上は繰り返し、ようやく適当にでっち上げた作り話ではないと判断したのか、単に
夕は真っ先に新聞部の作業室へ向かった。目的は一つ。佐藤についてもっと知ることだ。
夕は今までずっと恐れていた。もし佐藤がSであるという仮説が証明されてしまったら、彼女は恐らく新聞部どころか学校にすら来れなくなるだろう。Sの言葉を信じれば、彼女はそもそもここの生徒ではないらしい。見つかればまず追い出される。夕が魔女の記事を書く以上、隠し通すこともできない。
佐藤は本当にSなのだろうか。Sの出現するタイミングで考えれば、佐藤はかなり怪しい人物ということになる。ペストマスクをつけていることも、自分が魔女であるという証拠を見せたくないがためだろうという推測くらいなら誰にでもできる。彼女の言動や行動も、直結するわけではないがかなり怪しい。
だが、もし佐藤がSなのだとしたら、少なくとも日常生活に馴染むなんてことはできないだろう。ペストマスクをつけたまま授業を受けるなんてまず不可能だ。Sの身体は死んでいるに等しい。仮にペストマスクを外して生活しているのならその血色などから明らかに浮いた存在になっているはずだ。
新聞部の作業室と屋上のみを行ったり来たりしている、という説がやはり正しいだろう。
夕は白い扉をスライドさせ、作業室に入る。
「さと――」
「おや、児玉くん。ようやく解放されましたか」
そこにいたのは西川だった。夕は思わず後ろに一歩下がり、どこか
もし佐藤が新聞部の作業室と屋上のみを行ったり来たりしているという仮説が正しいとしたら、協力者が必ずいるはずだ。最も佐藤が在籍する新聞部に身近で、なおかつ魔女を屋上に入れることができる協力者が。
加えて、Sは自分のことを知ってほしそうにしていた。それが何の目的かは分からないが、西川もまた魔女へ取材できるように
「西川先生だけ、ですか。ここにいるのは」
「はい。佐藤さんならつい先ほど鎌田さんの所へ行きましたよ。記事が書き終わったから確認してもらうようで」
「早いですね」
「彼女は新聞部のエースですから」
それも佐藤を疑う材料の一つだった。彼女があれほどまでに記事が書けるのも不思議でならない。どんなに才能があれど、授業をすべて受けているとしたら放課後に残された作業時間は四時間程度だ。加えて取材や校正なども含めると相当の時間を要することになるはずである。それなのに佐藤は既にほとんどの記事作成を終わらせている。まるで授業は受けずにずっと新聞作成に注力してきたかのように。
「先生は、どこまで知っているんですか?」
「……何の話ですか?」
「魔女についてです」
「ああ……残念ですが、私はさほど知らないんです。他の生徒と同じようにあくまで噂程度でして」
「佐藤先輩は、魔女ですか?」
西川の表情が固まった。眼鏡の奥の瞳は絶えず夕の顔を捉え続けている。
「……何を言ってるんですか。そんなわけがないでしょう?」
「だとしたら、どうしてペストマスクなんか被ってるんですか。どうして肝心な時にいなくなるんですか。僕が初めて魔女と会った時、佐藤先輩はいませんでした。そういうことなんじゃないんですか?」
「落ち着いてください、児玉くん。君はなにか——」
西川が何かを言い終わる前に、夕は作業室を飛び出した。取り残された西川は決して彼を追うことはなく、ただ座ったまま夕が向かっただろうかまた心療内科醫院の方を向き、
「あれが魔女の……ですか……」
とだけ呟いた。
先週の金曜に訪れた際には、この診療所もさほど不気味には見えなかった。今の夕にはこの建物がさながら
「すみません、朝撒高校新聞部の児玉です。鎌田先生に呼ばれて来ました」
この前と同じように受付の女性へ声をかけると彼女は、
「鎌田先生なら応接室で佐藤さんとお話ししてますよ」
と手のひらを上に向けて指し示した。
「分かりました。ありがとうございます」
夕は半ば早歩きで応接室へ向かった。これでこの診療所の応接室に向かうのは三度目だ。
夕は勢いよく扉を開けた。
先ほどの会話は止み、鎌田がこちらを困惑と驚きを織り交ぜた複雑な表情を浮かべて見つめている。佐藤も——表情こそ分からないが——明らかに動揺を隠せていない雰囲気だ。
「どうしたんだい? 児玉くん」鎌田はすぐに笑みを取り戻し、いつもの調子で夕に話しかける。「部長さんに用事かな?」
「はい」
夕の深刻そうな表情を見た鎌田はただごとではないと察し、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「そうか。それじゃあ老人は退出するから、若い者たちだけで話しなさい。僕がお邪魔になっちゃ悪いからね。大丈夫。ここの部屋の壁は厚いから外には声も聞こえないはずだよ」
鎌田がそう言い残して部屋を出て行くと、応接室は完全な沈黙に包まれた。
佐藤はペストマスクの
そんな佐藤を前にして、夕は途端に訊く勇気を失った。先ほどまでの熱意はしなびた風船のようにしぼみ、追いつめられているのは自分の方なのではないかとさえ錯覚してしまうほどだった。
「佐藤、先輩」
喉がからからに乾いてだみ声が出てしまう。
「どうしたの?」
佐藤はいつも通りの、あまり抑揚のない調子で返答する。夕は喉の引っかかりを取るために小さく咳払いをしてから口を開いた。
「最近の調子とか、どうですか」
「え?」
いざ佐藤を目の前にすると、どうしても踏み切れなくなる。頭の中ではそんなことじゃなくて本題を話せと思ってはいるものの、緊張して上手く言葉が出せない。
「まあ、悪くはないよ。児玉くんが来てくれたおかげで、新聞作りもいくらか楽になったしね」
「それは良かったです」
しばらく沈黙が続く。扉の外からは、看護師の慌ただしい足音や電話の着信音、様々な話し声が聞こえる。無音なのは恐らくこの部屋だけだ。
「用事って、私のご機嫌取り?」
彼女は小さく笑う。
「ちが……違います」
夕は少し赤面しながら慌てて否定し、それを見た佐藤は再びおかしそうに笑った。
「じゃあ、どんな用事かな? わざわざここまで来るってことは、かなり重要なことなんだろうけど」
「これを言ったら、僕は後悔しそうなんです」
「後悔?」
「はい」
佐藤は顎の下に右手を当ててしばらく悩む様子を見せたあと、ふいに顔を上げ、それからふふ、と笑った。
「なるほどね」
「多分ですけど、佐藤先輩の考えてること、合ってると思います」
「私の行動を振り返ってみたよ。確かに、そうだ。私が魔女だね」
心臓がぎゅっと潰されるような心地がした。
ぼやけた視界がぐらりと揺れる。
「やっぱり——」
「ああ、いや。そうじゃなくてね」佐藤は胸の前で右手を左右に振る。「そう見えちゃうよねって話。それが児玉くんの出した結論だったのかな?」
「……はい。そうです」
「そっか」
そこで佐藤は再び悩む様子を見せて、それから頭の後ろに両手をやった。どうやらペストマスクの留め具をいじっているようだ。
「これはあまり私も見せたくないんだけどね。私の誤解を解くためと、それから、同じ新聞部としていつか見ることになるだろうから」
かちゃり、と無機質な音を立てて留め具が外れる。夕は何か悪いことをやらせてしまっているような心地がして、どうにも居た
「子供の頃、私の家が火事に遭ってね。私たちは二階で寝ていて、気づいたら火の手が寝室にまで広がってきてたんだ。どうにか母が私を連れて逃げ出してくれたんだけど、父は亡くなっちゃってね。……形見なんてのも全て灰になったから、これが父の形見のようなものなんだ」
ペストマスクが剥がれ、佐藤はその素顔をさらした。
夕は佐藤の顔を見た時、思わず息を呑んだ。なにしろ、間近でそれを見たのは初めての経験だった。
「きっと児玉くんも見たくないと思う」
彼女の顔の、ちょうど左半分。
それは放射状のみみず腫れのようにも見えた。薄い赤色の、ケロイド状の火傷痕が広がっていた。グロテスクな模様を描くように顔の肉や皮膚が隆起している。
それがあるからこそ、顔の右半分のきめ細かな白い肌がより際立って見えた。火傷痕がなければ、彼女はさぞ端正な顔立ちに見えただろう。
そして、それを見て同時に確信した。これは到底、メイクなどでも隠しきれない。
佐藤は魔女ではない。
夕は気が抜けたように、佐藤とは反対側にあるソファにそっと座り込んだ。
佐藤の呼吸はかなり乱れていた。視線はずっと床に向いていて、ペストマスクを持つ手が震えていた。さっきも言っていたが、彼女自身、あまり見せたいものではないのだろう。過去に彼女が診療所に通っていた理由が分かったような気がした。万が一何かあっても、ここはかまた心療内科醫院だから大丈夫だとは思うが、その場には確かな緊張感が漂っていた。
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