第13話
2
「やっぱしあかんか」
昼休み。話し声でざわついている教室で、夕と湯浅は一つの机に向かい合って座り、揃って難しい顔をしていた。
湯浅はいつも自分で作った弁当を持って来ており、以前食べさせてもらったが、ジャーマンポテトもポテトサラダも美味しかった覚えがある。なんでジャガイモの料理ばかりなのかと訊いたら、「安いし美味しいし、何よりバリエーションが豊富やから」と言っていた。だが、今日の湯浅は全く弁当の味に顔をほころばせることなく、表情はいたって真剣そのものだった。
「そもそも今では目撃情報も少ないしね」
「どないすんの? 児玉の話やと、このままじゃ期限に間に合わへんくなりそうやけど」
湯浅の言う通りだった。今日は四月二十三日。発行は六月十一日であり、その前に何度か校正や印刷会社の人との打ち合わせもある。単に発行日までに記事ができていれば良いという話ではないのだ。
「そうだね……申し訳ないけど」
そこまで言ったところで、湯浅の表情が明らかに変わっているのが分かった。なんて分かりやすいのだろう。
「湯浅くんにも情報収集を手伝ってほ——」
「よしきた。任せてや」
湯浅は食い気味にそう言ってから親指を立て、混ぜ込みご飯を口に運んだ。夕は小さく笑ってから、購買で買って来たパンを取り出して一口食べた。甘過ぎず無味というわけでもないはちみつパンは夕のお気に入りだった。
こうして誰かの協力をあおぐようにあったのは、やはり鎌田から受けたあの言葉の影響が大きかった。自分一人でできることは少ないということを身に染みて実感し始めていたところだった。
「それで、俺はどないしたらええの?」
「うん、僕もいまそれを考えてたとこ。明らかに一人で得られる情報は少ないんだけど、いざどうするかって考えたらあまり思いつかないなんだよね」
「そやなあ」
二人は再び長考する
「とりあえず、何か協力してほしいことがあったらすぐに連絡するよ」
「分かった。遠慮せず、何でも言ってや。犯罪以外は何でもするさかい」
「うん、ありがとう」
正直に言えば、まだ分からないことはあった。ただしそれは単に湯浅には調査できない内容であり、また、言ったところで信じてもらえない内容でもある。
数日前の深夜一時過ぎ、夕は暗闇の中でのみ姿を消す不思議な腕時計を見つけた。それは夕がまだ幼い頃から既に諒路が使っていたものだった。
夕は後日に諒路へ腕時計について尋ねたが——やはりというべきか——彼は「寝ぼけてたんじゃないのか」や「見間違いだろう」といった月並みなことしか言わなかった。加えて、今までは習慣的にあの腕時計を机に置いていたのだが、それすらもやめてしまい、再び確かめることができなかった。
なにより、これ以上
「どないした、児玉」
湯浅が夕の顔を覗き込むようにして見つめる。
「え?」
「えらいややこしい顔……っちゅうより、寂しそうな顔しとったけど」
「あ、いや」夕はごまかすようにはにかんだ。「何でもないよ。ただ、どうにかならないもんかなって」
「そうやんな。これは難題や」
結局、それ以降は魔女について話し合うことはなかった。
つかの間の昼休みも終わり、午後の授業に入った。月曜日というのも相まって半数ほどの生徒が今にも眠りそうな教室に、チョークを叩く音と教師の声だけが響いている。夕は心の中で先生に同情しつつも、居眠りをする生徒の仲間入りを果たしそうになっていた。どうにか寝ずに済んでいるのは隣の湯浅が肩を叩いて起こしてくれるおかげだ。
ぼうっとしていると、再び湯浅に肩を叩かれた。何度目のやり取りか分からないが、夕は謝意を表すように左手を小さく上げた。
「いや、ちゃうくて」
そこで夕はようやく、教室が妙にざわついているのに気が付いた。最初は先生が何かミスをしてしまったのかと思っていたが、どちらかと言えばその声色は恐怖や驚きにも近かった。古典を教えていた教師も全くそれをたしなめることなく、ただ呆然と廊下の方を向いていた。
隣の教室のドアが大きな音を立てて開き、別の教師が走り去っていく。
「なに、何があったの?」
湯浅の方を見たところで、彼もまた廊下の方に視線をやっているのに気が付いた。
「あそこ」
湯浅は夕の方を見ず、信じられないといった表情のまま廊下側の壁にはめられている窓の方を指差した。夕はその指の差し示す先を目で追う。
心臓がどくん、という音を立てて大きく跳ねた。
眩暈を起こすような感覚が夕を襲った。
北校舎の屋上の端、誰かが立っている。かなり小さい人影で顔はよく分からない。
恐らく、ほとんどの生徒が「あれは魔女だ」と考えていただろう。
だが、夕の頭の中には少し違う単語が浮かんでいた。それはおもむろに彼の口から漏れた。
「佐藤先輩」
「……やとしたらやばいやろ。柵の外に立ってんで」
——『私、ずっとカラスになりたかったんだ』。
ああ、そういうことか。
「ちょ、児玉!」
「ごめん!」
気づけば、身体が無意識に動いていた。教室を抜け、上履きを鳴らしながら板張りの廊下を無我夢中で走り抜けた。途中で数人の先生に声をかけられたが、全て無視した。
ひたすらに走る。肺も心臓も痛い。呼吸のペースを乱さぬよう意識する。曲がり角でもできるだけ減速しないように上手く壁を使って走る。
不思議なことに頭の中は佐藤のことだけでなく「授業中だったけど抜け出して大丈夫だったか」や「なぜか分からないけど湯浅くんに『ごめん』って言ってたな」といったことも考えていた。パニックになりそうな状況に陥ると、人は一周回って頭が冴えるらしいというメタ認知をする余裕さえあった。
あの日、佐藤が口にしたカラスという単語はメタファーだったのだろう。
屋上から落ちる自分をカラスに見立てた発言だった。去年の佐藤の目に見えた情緒不安定さや鎌田の反応からも、察することはできた。
——『私がいなくなったあとも児玉くんが引き継げるように、ね』。
分かっていたのに。いくつもの違和感に気付けていたはずなのに。
怖かったのだ。いつか佐藤もいなくなってしまうような気がして。それを皮切りに、どんどん周囲の人たちが自分から離れてしまうような気がして。だから深いことも訊けなかった。
彼女の言葉をきちんと受け止められなかった。無視すれば佐藤の心の闇に触れることもないと思ったから。
「本当に、カラスの真似事する人が、どこにいるんですか……」
夕は息を切らせながら呟いた。
廊下の奥。相変わらずの暗がりの中に、屋上へ続く白い扉が開きっぱなしになっているのが見えた。
おかしい。いつもの魔女なら自分の存在を周囲に知らせるようなミスはしないはずだ。
夕は階段を上り、春らしい陽気に包まれた屋上へ躍り出た。
「菅原、先生……? なんで、ここに」
屋上で、菅原がこちらを向いていた。
「児玉くん……」
生徒の手前、できるだけ平静を装うとしているのだろうが、その表情には恐怖が
「屋上にいた生徒——」
「違う! 私は、やってないわよ!」
菅原は半ばヒステリックになってそう叫んだ。彼女の目には何かに対する怯えのようなものを感じる。
「ただ不審な生徒がいたから注意しようとして……それで……」
そこで夕は、屋上の端にいた生徒が既に姿を消していることに気が付いた。
「まさか」夕は柵のそばへ駆け寄り、下を見た。「いや、いない」
死体どころか、血液さえ見当たらない。何の痕跡も残っていない。まるで幽霊だ。
「嘘よ! 私、見たもの……」
夕は柵から離れて振り向いた。いつもの菅原の面影はそこにはなく、ただ初老の女が背中を丸め小さくなっているだけだった。心なしか体も震えている。
「落ちていく姿を、ですか?」
菅原は夕と視線を合わせずに何度も小さく頷いた。ふと、彼女の背後から更に数人の教師が屋上へ入ってきたのが見えた。その中には新聞部顧問の
「菅原先生、こんな所で何を」その中のガタイのいい
稲垣は
「ち、違います!」
夕は慌てて事情を説明した。細かい説明の甲斐あって、どうにかついさっき来ただけで屋上の端にいた生徒とは別人であるという点については納得してもらえた。
「じゃあ、その生徒は今どこに?」
夕は菅原の方を見た。先ほどより幾分か落ち着いてはいるものの、あまり話したくないようだった。
「僕から話します。とはいえ信じられないとは思うのですが」
夕は菅原の話と自分が見たことを総合して話した。新聞部として魔女を追っており、屋上の端に立っていた生徒が魔女だという話が教室で上がっていたため思わず出てきてしまったこと。着いた時は菅原以外は誰もいなかったこと。それらを話すたび、教師陣の表情はころころと変わっていった。
菅原が屋上から落ちていく生徒を目の前で目撃したことを話したところで、その場にいたほとんどの教師が柵に駆け寄り地面を見下ろした。
「……菅原先生。本当に見たんですか?」
そう声を発したのは西川だった。菅原は相変わらず言葉を発さずに頷くのみだった。
魔女の正体について話していた時から分かっていたことだが、西川はいたって普通の
「ひとまず、授業に戻りましょう。生徒たちには生徒の安全は確保できたと言っておいてください」
稲垣がそう鶴の一声を上げると、教師は一様に肯定した。それから彼は夕の方に視線を向ける。
「菅原先生と君は——」
「もしも、ですよ」夕は稲垣の言葉を
「それは……けど、もし多くの生徒がその光景を見ていたんだったら、我々は釈明のしようもないからな。現実問題として当該の生徒は見当たらなかった。これは揺るがない事実だろう。生徒の死体はなかったと、ただ正直に言う他ないだろうな」
「……そうですか」
夕は未だに納得がいかなかった。ただ、まず佐藤の死体が見つかっていないこと。これには安堵した。しかし、それと同時に「なぜ自殺を図ったのか?」「本当に落ちていたとしたら、どうして何の痕跡もないのか?」と、次第に疑問が浮かび始めた。
その時。
「あ」
ふと、口から言葉が漏れた。それはほとんど無意識で、反射的な発声だった。
夕は気が付いた。
彼はこの状況を知っている。どこかで見た覚えがある。
魔女は自殺をしたかったわけではないのだ。
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