第二章:深更

第12話


     1


  七千人弱の人口と多くの山河を有する町、朝撒あさまきまち。北に隣接する市との間には流域面積が日本で四番目に大きい一級河川の日垂ひたるがわが流れており、西側の太平洋まで流れ込んでいる。南側と東側は標高二百メートルほどの山々に囲まれており、土砂災害や洪水の危険性があることから街中には砂防事務所も設置されている。高度経済成長期に河川の暗渠化あんきょかが進められた現代において、未だに古くからの自然風景を残しているこの町はかなり珍しい方だろう。

 しかし、朝撒町の面積は約十三平方キロメートルであり人が住める場所は少なく、規模としては小さな町である。これといった観光資源もなく、かろうじてゴマサバがよく獲れるといったような触れ込みを町のどこかで見かけたことがある程度だ。単に他の市に見向きもされていないのか、あるいは住民の激しい反抗があるのかは分からないが、いずれにせよ未だに吸収合併されていないのは奇跡だと言えるだろう。

 この町には高校が一つだけある。朝撒町は交通の便がかなり悪く、中学からこの高校に進学を決める生徒がほとんどである。

 旧称は私立朝撒高校。創設者かつ初代校長は東雲しののめ源太郎げんたろうであり、彼の死後、高校は町へ移管いかんされて朝撒町立朝撒高校へと改称した。

 この高校には、異常な噂が多く存在する。生徒はそれらの噂に心酔しんすいし、半ば中毒気味にもなっていた。それはもはや生徒間の与太話よたばなしに留まらず、多くの弊害を生み出していた。その結果、教師はこれ以上風紀を乱すまいと徹底的に取り締まるようにした。

 禁止されるとやりたくなるのが人間のさがである。カリギュラ効果とも呼称されるように、教師による噂への弾圧はただの燃料となった。跳ね返りを持った噂は更に広く伝播でんぱし、もはや手に負えなくなってしまった。

 児玉こだまゆうもまた、そんな噂を耳にしてこの朝撒高校に進学してきた生徒の一人だった。彼は魔女の噂に固執し、魔女だと自称するSエスとの接触に成功。友人である湯浅ゆあさ伍貴いつきの協力もあって、彼女の写真を手に入れることもできた。

 夕はプリントした写真の裏にメールアドレスを載せて、知り合いや一部の教師へ「朝撒高校の魔女の顔写真です。少し見づらいですが、心当たりがあればすぐにメールしてください」と言って半ば押し付けるように渡していた。

 もちろん、佐藤さとうへは渡さなかった。夕にとって彼女は容疑者の一人だからだ。

 しかし、音沙汰は全くなかった。夕自身もSに会えずにいたので、記事作成は再び頓挫とんざしてしまった。仕方なく夕は原稿を進められるところまで進め、レイアウトを考えることに注力した。

 佐藤にアドバイスをいくつか貰うたび、彼女が魔女でなければいいのにと願ってしまった。

「まあ、腹切りとか飛び降りとか、その辺のタブー関係は印刷会社の人と西川にしかわ先生と私の方で確認するから」

「腹切り、飛び降り……なんか物騒な名前ですね」

 夕は机の上のほぼ白紙の記事を見下ろしつつ、苦笑いをした。

「他にも泣き別れとか戒名かいみょうとかあるよ。確かに、なんでこんな名前なんだろう。新聞作りのタブーの名称だからそれなりにネガティブな言葉にしとこう、みたいな感じかもね」

「とにかく、僕がやることはレイアウトについての知識を増やすことと原稿を書くことですかね」

「そうだね。あと、それなりに写真も要るかな。コラムとか小さな別企画を含めても腹切りが起こりそうな所は写真で誤魔化すしかないからね。ほら、こことか」

 佐藤が記事の左端を指差す。そもそも腹切りがよく分かっていないが、夕はとりあえず頷いた。

「思ったより考えることが多いんですね」

「大丈夫、慣れれば楽しいよ。色んなことを知れるからね」

 その時、夕はふと頭に浮かんだ疑問を口に出した。

「そういえば、佐藤先輩って菅原先生と何か因縁みたいなのってあったりしますか?」

「因縁?」

 佐藤は夕の方を向きながら訊き返した。

 取材をした時、夕は菅原が佐藤へ鋭い視線を向けていたのを目撃していた。最初は佐藤を魔女だと疑っているのだと推測していたが、今思えば、魔女という風紀を乱す存在に対する正義感というよりも、どちらかといえば憎悪のこもった瞳であったような気がしていた。

 佐藤は天井を仰ぎ少し悩む様子を見せ、それから「ああ」と声を上げ、棚から今までの新聞を保存してあるファイルを取り出した。

「去年の……夏頃かな」

 佐藤はその中から一枚の新聞を抜き出し、夕に見せた。今まで作ってきた新聞とは異なり、四ページあるブランケット版ではなく、一枚のタブロイド版の新聞だった。

「さすがにこれは発行できないということで中断になったんだけどね」

 大見出しには大きく「朝撒高校のS先生 過去に生徒へ性的暴行か」と書かれていた。

「何、ですか……これ」

「見出しの通りだよ。S先生っていうのは菅原先生のこと」

 その内容は、佐藤の人柄の人間が取り上げるとは到底考えられないほどに生々しいものだった。菅原への陰湿とでも言うべき徹底的な聞き込みも行われている。

 ——『以前はかなり荒れてましたからね』。

 夕は西川の言葉を思い出していた。途端に今目の前にいる佐藤が、得体の知れない誰かに見えて仕方なかった。元から得体は知れなかったが、佐藤の異常性を垣間見たような気がして、夕は今すぐにでも帰るべきだという衝動に駆られていた。

「どうして、こんな記事を?」

「……去年は色々あってね。まあ、一番それらしい回答は、ただの興味本位かな。菅原先生がそういうことをしてるって話を聞いたから、つい調べたくなったんだ。今の児玉くんが魔女の噂に興味津々なのと同じ」

 佐藤の声には抑揚がない。これは出会った時からそうだった。確かに、言葉も態度も優しいのだが、まるで人間味を感じないのだ。

「あ、そういえば」佐藤はブレザーのポケットから一枚の丁寧に折り畳まれた紙を取り出した。夕はそれを受け取り、開いてみると、誰かの携帯の電話番号が書いてあった。

「誰のですか?」

鎌田かまた先生。児玉くんと話がしたいって」

「鎌田先生が? 何の用事でしょう」

「それは分からないけど、鎌田先生らしくない、少し重い雰囲気と口調だったよ」

 当然と言えば当然だが、彼にはSの写真を渡していない。恐らく魔女の噂とはまた別の用事だろう。

「じゃあ、ちょっと鎌田先生と電話してきてもいいですかね?」

「うん。いいよ」

「すみません、失礼します」

 夕は佐藤に断りを入れてから廊下に出て少し背伸びをしてから携帯を取り出した。

 鎌田先生とはあの日、佐藤と一緒に取材に向かった診療所で会っただけの関係だ。これといって仲良くなったり何かの約束を取り付けていたわけでもない。

「児玉くんかな?」

「あ、もしもし。はい、児玉です」

「電話が来なかったらどうしようと悩んでいたところだったよ」

 鎌田は相変わらずのしゃがれ声で笑う。

「話ってなんですか?」

「ああ、いやね……今、児玉くんはどこにいる?」

「学校の廊下から電話してます」

「できれば直接会って話がしたい。今からこっちにに来れるかな?」

「大丈夫です。ひと段落ついたので」

「ありがとう。別に急いでるわけではないんだけど、早いに越したことはない話だからね。それじゃあ、待ってるよ」

「はい。失礼します」

 確かに佐藤の言う通り、鎌田の口調や雰囲気には少し違和感があった。夕はわずかな不安を胸に抱えながら作業室に戻り、鎌田の所へ行くむねを伝えた。

 佐藤はこころよく了承した。


     *


 その診療所は、相変わらず薄暗い雑木林の奥にぼうっとたたずんでいる。外観が現代的だからこそ余計に違和感を覚える。大きなモノリスだと紹介されても違和感はないだろう。

 中に入ると病院特有の医薬品のようなにおいが鼻の奥を突く。白と黒で構成された待合室にはほとんど人もいなかった。一瞬、入っても大丈夫だったのだろうかとも疑った。

「あの、鎌田先生に用事があって」

 少し緊張した面持ちで受付に座る壮年の女性にそう伝えたところで、廊下の奥から鎌田が右手を上げながらこっちに歩いて来るのが見えた。

「どうも、児玉くん。来てくれてありがとね」

「いえ、僕も時間が空いてたので。話って何です?」

「あー……ここだと少し話しづらいから、応接室に行こうか」

 鎌田は白衣をひるがえし歩き始めた。夕は看護師から奇異の目で見られていることを少し気にしつつ、肩身が狭そうに後をついていく。

「ここならあまり聞かれる心配もない。児玉くん。君は最近、何か悩みごとや困ったことはないかな?」

 前とは別の待合室に通された夕は、おずおずとソファに座り込んだ。窓から日光は差し込んでいるものの、全体的に部屋は薄暗かった。

「ないわけではないですが」

「……神経症傾向というのは遺伝する傾向にあるんだ。簡単に言えばストレスへの耐性が低い、というものでね。君のお母さん——児玉花織かおりさんも昔はここに通っていたんだ。僕が彼女のかかりつけ医だったんだよ」

「あ、だから初めて会った時にあんな反応を」

「うん。子供ができたという報告は聞いていたけど、まさかここで会うとは思ってもいなくて思わず驚いちゃったよ」

 夕は父の諒路りょうじ以上に花織のことをよく知らなかった。彼女は夕がまだ保育園児だった頃——約十一年前に肺がんで死んでしまったので無理もないだろう。

「花織さんの母親は代理ミュンヒハウゼン症候群だった」

 鎌田は昔を思い出し、少し悲し気な目で机を見つめていた。

「代理、ミュン……聞いたことないですね」

「代理ミュンヒハウゼン症候群とは、他者を利用して同情を買いたがってしまう精神疾患だ。症例としては、母親が子供を虐待して病気や怪我を負わせ、それを治療することで健気な子育てをする母親をアピールし、同情を買うというものが多い」

 鎌田は目を伏せながら言う。

「そうだったんですか」

 正直に言えば、祖母とも母親とも関わりの薄かった夕はあまり身近には感じられない話だった。ただ、もしかして母が死んだのもその代理ミュンヒハウゼン症候群による虐待で免疫が下がっていたからではないか。そんな嫌な想像はしてしまった。

「当時の彼女はかなり精神的に疲弊していてね。諒路くんという精神的支柱を見つけたことでようやく安定したようだが、子供である君にもその傾向が見られてしまう可能性は高い」

「じゃあ、今日は注意喚起みたいな」

「そうだね。……この歳になると、その人の話し方や雰囲気で分かるんだ。児玉くんはもっと適当になるべきだよ。全てを諦めるわけじゃないが、全てを真正面から受け止める必要もない。たまには逃げてもいいんだ。逃げることはあらゆる生物に備わってる生存本能なんだから」

「……はい」

 逃げることはあらゆる生物に備わってる生存本能。それは佐藤の言葉とまったく同じだった。

 自分もいつかはこうして達観できる日が来るのだろうか。自分のやるべきことを取捨選択できるような、そんな人間になれるだろうか。

「大丈夫。既に君は十分過ぎるほどいい人間だよ。僕も児玉くんを見習うべきだと思ってるほどにね」

 まるで夕の心中が全て聞こえているかのように鎌田はそう言い切った。そのくしゃっとした笑顔を見て、夕も自然に笑みがこぼれた。

「あ、そうだ。鎌田先生に訊きたいことがあったんです。去年の佐藤さんについて」

 夕がそう言った時、ほんの一瞬だけ鎌田は険しい表情を浮かべ、すぐに笑みを浮かべた。

「去年の佐藤さんは……僕からはあまり言えないかな。彼女のかなりプライベートで繊細な部分だからね。かなり精神的に不安定だった、としか」

 それ以上は鎌田も何も答えなかった。ただ夕に残されたのは消化不良のような気持ちの悪い感覚と、佐藤へのそこはかとない恐怖だった。

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