第11話
これで三回目だ。そう思いながら、夕は今日も屋上の扉のドアノブに手をかけた。
一回目は会えなかった。あの日は雨で、恐らくランタンの火が消える可能性を危惧したのだろう。
二回目はそれから一週間が立った昨日だ。鎌田への取材が終わったあとに向かった屋上で、夕は魔女――Sに出会った。彼女にはずっと調子を狂わされてしまう。ずっと雲を相手にしているような気分だった。
そして、今日が三回目。今日は本格的な取材の日だ。メモには既にいくつかの項目を書いておいてある。これで記事の作成が大幅に進む。もしかしたら、これで終わりかもしれない――はずなのに。
どうしてだろうか。ずっと違和感が残り、寒気を覚える。それが何かは分からないが「学校に不老の、または襲名をしている魔女がいました」で収まる話ではないような気がする。
確かに世の中には不老に近い動物もいくらか存在する。ベニクラゲやヒドラがその例だ。だが、人間が不老になるというのは普通に考えてあり得ない。代謝をする以上、人間はいつか老いて死ぬものだ。極端に代謝が遅ければ長生きはするだろうが、生活においていくつもの弊害が生じる。それに、同じ姿を保てるとは思えない。
この悪い予感は、昨夜の諒路の言動に対する不安と似たようなものだと思う。自分の知らないところで大きく何かが動いている。もしかしたら知らない方が幸せなのかもしれないとさえ思わせるような、そんな悪寒が背筋に走っている。
階段を上り切ったとき、扉の向こうから小さな歌声が聞こえてきた。夕はこの歌を知っている。『
夕は扉を開けた。白色の太陽はかなり水平線に近づいているものの、まだ空は青く澄み渡っていた。呼吸を一つするたびに肺が洗われるような爽快感を覚える。
Sはそんな空を背景に、フェンスに腕を置いて歌っていた。子守唄のような、どこか優しさや懐かしさを感じさせる歌い方だった。もしこれがグリム童話だったら、たちまち色とりどりの小鳥たちが寄って来たことだろう。
「来たね」
Sは歌うのを止めてこちらを振り向き、ゆったりとした足取りで夕に一歩ずつ近づく。彼女は相変わらず病的な肌の白さと愁いを帯びた目つきを備えており、このまま日の光の中に溶け込んで消えてしまいそうな、そんな存在の曖昧さを感じる。
「取材しに来ました」
「知っている。始めようか」
Sは目の前で火の灯っていないランタンを地面に置き、その場に座り込んだ。一つ一つの所作にさえついつい目を奪われてしまう。
「始めます。一応ですが、自己紹介もしておきますね。一年二組の児玉夕です。新聞部に所属しています」
「朝撒高校の魔女、Sだ。よろしく」
「今日はいくつかの質問をさせていただきます。そのために録音をしたいのですが、よろしいですか?」
「録音……録音ねえ」
Sは言葉にこそ出さなかったが、難色を示した。
「いえ、別に強制ではないんです。Sさんの言葉を僕がまるごとメモすればいい話なので」
「そうか。申し訳ないが、それで頼むよ」
「分かりました。少し時間がかかるかもしれませんが、ご了承ください」
「随分と手慣れているように見えるが」
Sがからかうようにそう言った。
「未だに慣れませんよ。どうにか
「そうか。その地頭の良さは、両親の教育の
「……そうだと、いいんですがね」
夕は手元のメモ帳に視線を落としたまま、半ば自嘲するように呟いた。Sはその様子を見て笑みを止め、代わりに神妙な表情を浮かべた。
「訳ありのようだね」
「その……そうですね。実は——」
「無理に話せとは言わないさ。人は誰にも話せない事情の一つや二つくらいは抱えて生きるべきだ。さあ、何でも質問をするといい」
「ありがとうございます。では早速。ランタンを使うにはオイルや芯などが必要ですが、それは自分で調達しているのですか?」
どれもこれも、本来であればホームセンターなどで買う物ばかりだ。西川の話によれば魔女は学校外では目撃されていないのだという。となれば、Sには協力者がいることになる。そこからSの正体を知る糸口が掴めるかもしれない。
しかし。
「答えは『はい』だ。オイルは各教室に設置された石油ファンヒーターを使うための灯油を使えばいいし、芯はポリエステルと綿の混じったカーテンや、裁縫室にある綿の生地を切って使えばいい」
淡々と語るSを見て、夕は思わず笑ってしまった。彼女は学校で生活する
「凄いですね。……次に。昔も今も、魔女は一人ですか?」
これはつい先ほど西川から聞いた仮説の検証だ。仮に魔女が襲名制度であるならば、それだけでほとんどの謎が解決する。
「なるほど、次はそういう質問か」彼女は興味深そうに笑みを浮かべる。「答えは『いいえ』だ。過去も今も、そして未来も、魔女はこの私一人だけだろうね」
ここでほとんどの謎が謎のまま宙ぶらりんになってしまった。もちろん、彼女が嘘をついている可能性だって十分にあり得るだろう。何年も同じ姿を保てるわけがないのだから。
「ということは……あなたは不老であると考えていいのですね?」
「そうなるね。信じられない話かもしれないが」
Sはさも当たり前かのようなすまし顔を浮かべていたので、夕は唖然とした。かなり踏み込んだつもりだったが、こうもあっさり答えられるとは思ってもいなかった。
「それって証明できますか?」
Sは小難しい表情を浮かべ、何かを考えるように視線を夕から外す。
「証明は……不可能だ。昔の私の写真でもあればいいのだが」
夕は新聞以外で昔の写真が保存されていないだろうかと考え——ふと、卒業アルバムであれば過去の写真も残っているのではないかと思いついた。
「Sさんは授業を受けているのですか?」
「当然、受けていない。いつまでも姿の変わらない人間が教室にいたら騒がれてしまうだろう?」
そうなると話は変わってくる。朝撒高校のような全日制の高校において、基本的に留年できる期間は最長六年であり、それを超過すると除籍となる。仮にSが本当に何十年も前からいるのだとしたら既に除籍されているはずだ。卒業アルバムにも載らないだろう。
「もし昔からこの学校にいるのであれば、留年か、あるいはとっくに除籍になるはずですが」
「そもそも、私はこの高校に在籍していない。妖怪のようにひっそりと住み着き、妖怪のようにその存在だけが語られている」
「……なぜ、そんなことを?」
「そこまでは教える必要もないだろう。本当に、単なる私的な理由だよ」
「分かりました。では不老になった原因とは、一体何なのでしょうか?」
その質問を受けて明らかにSの表情が変わった。彼女はじっと夕を見つめ、長くなるから端的に言うが、と前置きを置いて話し始めた。
「私が生物ではないからだ」
一瞬、時が止まったかのような心地がした。今のSの発言は、普通であれば笑い飛ばせるようなものだが、今までの奇妙な出来事や事実が前提にある今、夕は彼女の言葉を半ば信じざるを得なかった。
「生物でない……というのは」
「説明が難しい。確かに私の体組織は観察すれば人間のものと同一であることが分かるだろう。だが、生物ではない。生理的反応が見られない。かといって、生きていないわけでもない。私は人間だ。そう信じている」
夕の頭は徐々に混雑し始めた。Sの言っていることが明確な
「児玉夕。『生きている』とは、果たしてどういう状態を指しているだろうか? 心臓が動いていて、代謝を行っていれば生きていることになるだろうか? 私はそうは思わない。心の問題だ。クオリアがあって、欲があって、行動しようという確かな意志があって、そこで初めて人は『生きている』ということになる。君はどう思う?」
夕はしばらくSの問いを頭の中心に置き、じっと考え込んだ。彼女は何も言わず、ただ夕の返答を待っているようだった。
しばらく完璧な無音が場を包み込み、そして夕は口を開いた。
「……僕も、そう思います。生命が維持できているのと『生きている』ということは、あくまで哲学的な視点ですが、違うと思います」
「であれば、私は尊重されるべき存在に値するだろうか? 人権というものは、私にもあるだろうか?」
「それは……はい。あると思います。誰であれ、尊重されるべきです」
「私が生物でなくてもか?」
「それでも、です。あなたが自分は人間だと主張するのだったら」
Sはその言葉を受けて、
「そうか。君からその言葉が聞けて、いくらか解放された気分になったよ」
Sは空を仰いだ。空は少しずつ黄色がかった白色に染まり始め、夕暮れの到来を知らせていた。
「ありがとう、児玉夕。どうやら私は少し、君を見誤っていたようだ。人は変わるものだね。……やはり、友達になって正解だった」
Sが感慨深そうな表情を浮かべながら夕の横に歩み寄る。一方、夕は彼女の発言に困惑していた。
人は変わるものだね、というのは少し文脈的には違和感を覚える言葉だ。
「また会おう」
彼女はそう
夕はSの足音を注意深く聞き、それが完全に聞こえなくなったところで、ズボンのポケットからおもむろに携帯を取り出して耳に当てた。
「もしもし」
電話をかけると、すぐに返答があった。
「もしもし? ばっちり撮れたで。いや、にしても……まさかほんまに魔女がおるとは思わへんかったわ」電話越しにも彼の興奮が伝わってくる。「あ、あとでSDカード渡すなあ」
「ありがとう。今度なんか奢るね」
「別にええで。こないなことしてるだけで楽しいから」
夕は南校舎の方を見た。南校舎の屋上には、同じく携帯で電話をしながらこちらに大きく手を振る人影が見えた。
夕もそれを見て、笑みをこぼしながら手を振り返した。
約束を破ってしまいすみません、Sさん。
ですが、あなたの正体は暴きます。
僕は暴かなくてはならないんです。
僕が無価値ではないことを証明するために。
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