第19話
「誰かがここに来て落としてもうたみたいやな。……裏にあるのは持ち主のイニシャルか?」
「そうかも。それにしてもこれ、相当古いね。落としてから少なくとも十年は経ってそう。……もしかして魔女を閉じ込めた人の落とし物だったりする?」
「そうかもしれへんな。どないする?」
「んー……念のために持って帰ろうかな。どこかで持ち主が見つかるかもしれないし」
「そうやな」
夕はリュックにその腕時計を入れ、他にも何かないか手がかり探しを再開した。しかし、腕時計以外には特に何も見当たらず、これ以上は何も見つからないだろうと判断し、ひとまず帰るべきだろうと引き返し始めた。時刻は既に十八時を過ぎようとしていた。
外に出ると、ちょうど夕日が今にも水平線の向こうへ落ちていこうとしていた。海が青と茜色を混ぜたような形容しがたい奇麗な色を見せていた。
ふと、夕の携帯が震えた。ポケットから取り出して画面を見ると、メールが来たことを告げる通知が表示されていた。メールアドレスに見覚えはなかったが、件名と本文から送り主が分かった。
「菅原先生からメールだ」
「え? 児玉、菅原先生とメアド交換しとったのか?」
「いや、この前湯浅に撮ってもらった魔女の写真あったでしょ? あれの裏に僕のメールアドレスを書いて『見覚えがあったらメールしてください』って何人かの先生に頼んでおいたんだよ」
「なるほど。それで、メールの内容は?」
「ちょっと待ってね」
夕はメールを開き、その文面を声に出して読んだ。
「『突然メールしてごめんなさい。菅原です。魔女の写真の裏にメールアドレスがあったので送りました。正直に言えばあの写真は偽物だと思っていました。ずっと迷ってたんですけど、あまりにも一人では恐ろしくて児玉くんに共有しようと思います。明後日の放課後に図書室に来てください。司書の
「集合場所は図書室か。あんま行ったことないから分からへんけど、そこに魔女に関連する何かがあるっぽいなあ」
「とにかく、明後日行ってみるよ」
夕はそのメールに「ご連絡ありがとうございます。放課後十七時半ごろに向かわせていただきます」と返信した。
菅原の話も気になるが、それよりも確かめるべきことは山ほどあった。鉱山跡に落ちていた時計の所有者や、何よりS本人に訊かなくてはならないことばかりだ。
「そうだ。少し話があるんだけど、いいかな?」
「お、ええよ」
「菅原先生と会う日にさ――」
夕と湯浅は笑みを浮かべて会話をしながら「朱浦」と書かれたバス停に向かった。
7
次の日も、菅原は学校へ来なかった。一時間目の前も六時間目の後も、西川がショートホームルームを取り仕切った。クラスの適応も存外早く、西川を平然と受け入れていた。
放課後になり、夕はまず新聞部の作業室へ足を運んだ。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。児玉くん、昨日は部活来なかったけど、どうしたの?」
池木が壁際のパソコンが置かれている席に座り、こちらを振り向いた。一昨日のこともあって何か変化があるのではないかと少し期待をしていたが、相変わらず彼女はペストマスクで顔を覆っていた。
「あ、昨日は魔女の情報を集めに行っていて……すみません、休みますって連絡をしてませんでした」
「そうだったんだ。何か急用で来れない事情でもあったのかと思って心配したんだけど、大丈夫そうだね」
「はい。すみません」
「別に大丈夫だよ」
夕は池木の席の隣に置かれている棚を開き、一眼レフを取り出した。新聞部にも慣れつつあった彼は、既に取材に必要なものはどこにあるのか全て把握しつつあった。
「あの、池木先輩」
池木のタイピングする音が止まる。
「……本当にわがままで申し訳ないんだけど、ここでは佐藤って呼んでほしいかな」
夕は顔から血の気が引いていくのを感じた。
そうだ。あの時の池木はペストマスクを外していたから池木と呼んでも大丈夫だったが、今の彼女は自分をカラスに投影することで精神を守っているのだ。
「あ、す、すみません……あの、佐藤先輩」
「どうしたの?」
「魔女に会いたいんですけど、屋上の鍵がどこにあるのか知らなくて」
池木はその言葉を受けて小さく笑った。
「もしかして、盗み出す気なの?」
「盗むとまでは言いませんよ。ただ……西川先生の言葉を借りるなら、『拝借』するだけです」
夕もうっすらと笑みを浮かべた。自分も、仮面を被り続けながら取材する生徒と校則を平気で破る顧問が所属している、常軌を逸した朝撒高校新聞部に染まってしまったのだなと実感した。
「児玉くんもいい新聞部員になれそうで良かったよ」
ペストマスクの下でどんな表情を浮かべているのか、想像に
ふと、作業室の扉がガラガラと音を立てて開き、足早に誰かが入って来た。
「お、今日は児玉くんも来てますか。それは良かったです。君にこれを。今回は楽でしたね」
西川が電灯の光を反射して輝く銀の鍵を持ってきたので、思わず夕と池木はお腹を抱えて笑ってしまった。西川は少し引くような表情でそれを見つめている。
「何かあったんですか?」
「いや、このタイミングで、来ます? 普通」
「しかもまた鍵持って来てるよ」
西川はなぜ笑われているのか理解できない様子を見せていて、それがまた夕と池木の笑いを誘った。
しばらく笑った後、夕は西川の鍵を受け取った。
「ありがとうございます。なんだか、僕は本当に新聞部に入れたんだなって感じました」
「……何を言っているんですか? 前から入っていたじゃないですか」
「いえ。本当の意味で、ですよ。形式上じゃなくて」
西川は少し不思議そうな顔をした後、ようやくそれを理解して「ああ、なるほど」と微笑んだ。
夕が西川の笑顔を見るのはこれで二回目だが、菅原の代理として一年二組の教室に来た西川を見て思ったことがある。彼の笑顔はかなり珍しい方だ。だからこそ、西川は本当に新聞部の顧問を楽しんでくれているようで、夕はそれがとても嬉しかった。
「次の『朝撒新聞』、絶対にいいものにしたいです」
夕の言葉に二人は頷いた。なんだか心で通じているような、そんな感覚を覚えた。
廊下に出て、夕は深呼吸を一つした。これからSにする質問の項目をメモ帳でしっかりと確認し、それから屋上に続く扉がある三階へと歩みを進めた。
この取材で全てを終わらせる。夕は覚悟を決めて屋上へ足を踏み入れた。
Sはこちらに背を向け、屋上の柵の向こう側に立ち群青の空に浮かぶ月を見ていた。すぐ隣には火の灯っていないランタンが置かれている。映画のワンシーンのような構図だった。
「調子はどうかな? 児玉夕」
Sは振り返らずに夕に声をかけた。
「まあ、悪くはないですよ」
「そうか。それで、ここに何しに来た?」
「取材です」
Sはわざとらしく大きなため息をついた。
「君は相変わらずだね。お互いのことはある程度知ったはずだ。たまには友人らしく、一緒に何かを語りたいとは思わないのか?」
「いえ、まだ——」
「そばに来てくれ。ほら、一緒に昼の月を見よう」
Sは何を言われても曲がらないことを悟った夕は、仕方なく一歩目をざらりと鳴らしてSの方へおずおずと近づき、柵に寄りかかって月を見上げた。
いつもであればしっかりと見ることもない昼間の月は、改めてしっかり見ると中々に奇麗に見えた。クレーターがこうもしっかりと見えるのか、と少し驚いた。
「昼の月は奇麗だろう。月は俳諧においては一般的に秋の季語だが、どの季節でも美しく見える。屋上で見える景色の中で、私はこれが一番好きだ」
ふとSの方を見ると、まるで有名な芸術家のアトリエを訪問した熱狂的なファンのような、
「Sさん」
「どうした?」
Sは月から視線を逸らさずに口を開いた。
「四月の最初の頃、屋上の扉に落書きがありましたよね? あれって誰が書いたんですか?」
「ああ。あれは私が書いた」
その点について、夕の予想は的中していた。これまで何度もSへの取材を試みていたが、落書きをしていそうな怪しい人物は一人も見かけなかったからだった。
「どうしてあの落書きを?」
「習慣になっていたのさ。何年も生きてると年数の感覚も分からなくなってくるから、そのために」
「テン・コードを書いたのはなぜです?」
「君は分かっていたのか。さすがだね」
Sはなぜか誇らしげにそう言った。
「ごまかさないでください。どうして去年と今年で違うテン・コードを書き記したんですか?」
「ただの気まぐれだよ。何となく、今年はそういう気分だった」
Sはのらりくらりと答える。これでは埒が明かないと判断した夕は、質問を変える。
「……じゃあ、次に」
そこで夕は口ごもった。これを言ってしまっていいのかと、心の中にためらいが生じた。緊張で心臓が張り裂けそうとはまさにこういうことを言うのだろうと、身に染みて感じた。
「あなたは、魔女じゃありませんよね。魔女はまた別にいるはずです」
勇気を振り絞って口に出したその言葉を受けても、Sの表情はほとんど変わらなかった。むしろ、「ようやくそこに辿り着いたのか」とでも言いたげな顔をしていた。
「どうしてそう思った?」
「昨日、思い出したんです。九年前、僕はあなたと朱浦鉱山跡で会いました。その時、あなたは確かに『閉じ込められていた』と言ってましたよね? しかもその後、『あれから十五年か』と呟いてるのも聞き逃しませんでした」
Sは小さく頷いた。
「でも、魔女の噂は少なくとも二十七年前から既にありました。これは明らかに矛盾してますよね」
「そうだね。君の言う通りだ」
「説明してください」
Sは閉口し、沈黙がその場を包んだ。風に吹かれた電線が出すびゅうびゅうという音がいやに耳につく。
「……魔女とは。朝撒高校の魔女とは君の言う通り、私ではない。では、なぜ私は魔女を
「何を言って——」
そこで。
Sの手が、自分の右腕を掴んでいることに。
そして。
Sがあの日と同じ、奇麗で下卑た笑みを見せていることに。
夕はようやく気が付いた。
「忘れてくれ。本当に、単なる私的な理由さ」
Sは夕の右腕を掴みながら、既に落下を始めている。
右腕が柵の外に引っ張られる。
あまりの突然の出来事に抵抗できず、上半身が柵を乗り越える。
「児玉!」
ふいに、左腕に強い力がかかり、夕は屋上へ引き戻された。
「あ」
右腕に絡みついていた、雪のように冷たく、雪のように白い手が離れていく。
Sは、一人で屋上から落ちた。
鳥肌が立つような視線を夕に向けながら。
「お前、何してんねん!」
夕の腕を引っ張ったのは、湯浅だった。
「ゆ、あさ……」
夕は湯浅の顔を見て、そこでようやく恐怖が腹の底から湧き上がり、涙がこぼれた。安心と恐怖が胸の中でぐるぐると入り混じり、今にも吐きそうだった。呼吸と心拍が異常なほど速く、手足も痺れ、震えている。
「ほんまに落ちるとこやったぞ! 何しとんねん、ほんまに……!」
湯浅も夕が落ちずに済んで安心したのか、その目に涙を浮かべていた。
「Sが……僕の、腕を……一緒に……」
湯浅はそれを聞いて顔色を変え、柵から身を乗り出し下を見た。
「確認するで、児玉。……ほんまに落とされそうになったんやな?」
夕は頷いた。湯浅が何を言うのか、心の中で察していた。
「死体なんか、どこにもあらへん」
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