第20話
8
「大丈夫か、夕」
「……うん」
夕は完全に食欲を失っていた。それもそのはずで、ほんの数時間前に彼はSによって殺されそうになったのだ。当然といえば当然のことだろう。
幸いにも湯浅に助けてもらえたことで生き延びたが、次に命を狙われたときも同じように上手くいくとは限らない。「なんかあったら絶対に連絡するんやで。分かったか?」と湯浅に言われたものの、もはや連絡する間もなく殺されてしまうのではないだろうか。
「学校で、何かあったのか」
「うん、まあ……色々あって」
夕はかたくなに諒路と目を合わせようとしなかった。かといって食事に専念しているわけでもなく、ずっと心ここにあらずといった様子で、夕はずっと目の前にある諒路が作った肉じゃがを箸でただいじっているだけだった。
「お父さんであれば話聞くぞ」
「大丈夫、大丈夫だから」
夕は、一昨日に諒路と新聞部を辞めるという口約束をしていたのもあって、詮索されることを嫌った。魔女に殺されかけたなどと言ったら「夕は学校に行くな」と外出禁止を言い渡されるだろうと予想していた。
Sが殺したがっていた相手とは、夕であった。彼女は夕が朝撒高校へ進学するのをずっと待っていたのだ。
屋上の扉にあったテン・コードの落書きは、恐らく自分が入学してきたか入学してこなかったかを記録するというメモ代わりだったのだろう。最初こそテン・コード”10-14”が意味する不審者報告の不審者とは、魔女のことだと考えていた。しかし、自分以外に魔女を追いかけている人物が見当たらないことや、去年とはテン・コードの内容が違うこと、そしてSの言動と行動から、不審者が指す人物とは自分のことだと気が付いた。
Sはなぜ友達になろうと提案したのか。夕はこれについて、恐らく油断を与えるためだと考えていた。彼女は殺人の手段として転落死が最適だと考え、不老不死であることを利用し、絶対に逃げられないよう心中するような形で殺すことを画策していた。そうすれば、はたから見ても夕がただ一人で自殺をしたようにしか見えなくなる。これはSにしかできない完全犯罪だ。
ただ、それでも疑問は残ってしまう。Sが夕を殺そうとしていたのは確かだが、その動機がいまだに不透明だった。
Sは鉱山跡を出た後、自分を閉じ込めた人間を殺すという目的を夕に告げていた。彼女がどんな名前を口に出したのかは忘れてしまっているが、少なくとも閉じ込めた人間が誰なのか分かっている口ぶりだった。
もし夕が過去にSをあの鉱山跡に閉じ込めていたのなら、夕が名前を告げた時点で殺すことができたはずである。しかしそれをしなかったということは、Sを閉じ込めた犯人は夕ではなく、また別にいるのだろう。
それは誰なのか。全く見当がついていないわけではなかった。
「ごちそうさまでした」
夕は食卓に並ぶ肉じゃがにもあさりの味噌汁にもほとんど手を付けずに席を立った。諒路が作ってくれたことは嬉しかったが、それどころではなかった。夕は無言でダイニングを出て、そのまま二階へ上がった。
諒路は部屋を出て行く息子の背中を、ただ寂しげな目で見つめることしかできなかった。
夕はまず自室へ向かい、机の引き出しから古びた腕時計を取り出した。そして、それを持って、物音を立てないように諒路の部屋へゆっくり足を踏み入れた。
諒路の部屋を見るのは数年ぶりだったが、最後に見た記憶から全く変化していなかった。部屋に入って正面と右の壁を覆うように本棚が置かれており、そこには数えきれないほどの本が整然と並べられている。左側の壁際にはモノトーン調の机と椅子が置かれており、机の上にノートパソコンが置かれていることから、そこが諒路の仕事をする空間なのだろうと分かる。無駄なものはほとんどなく、良く言えば機能美を追求したような、悪く言えば殺風景な部屋だった。
夕が持っている腕時計は、湯浅と朱浦鉱山跡に行った時に見つけたものである。夕と湯浅は、この腕時計の持ち主がSを閉じ込めた人物だと予想していた。
恐らくこの予想は合っている。夕はそう確信していた。そして、もし今の夕の頭にある仮説が正しければ、別にSを閉じ込めてわけでもない夕が命を狙われる理由も多少は納得のいくものになるのだった。
夕は諒路の部屋にある、ありとあらゆる引き出しを開け始めた。机の中、棚の中、挙句には壁際に並べられている四つの本棚に仕舞われた大量の本の間さえも調べ始めた。様々な心理学の本が諒路らしく几帳面に並べられているのは、見ていても壮観だった。しかし、夕の目的のものは見当たらなかった。
絶対にあるはずだった。なぜなら、約一週間前、あのどうやっても説明のつかない不思議な現象と共に見たのだから。
ふと、本棚と壁の隙間に黒い布を被せられた大きな板が挟まっているのを見つけた。夕はそれを引っ張り出し、隙間を覗いた。
「あ」
壁と本棚の間に平たい白の箱が見えた。恐らく、大きな板と壁の間に隠すようにしまわれていたのだろう。
夕は手を伸ばし、その箱を手に取った瞬間に中に何か入っているのが分かった。
板を元あった位置に戻し、そっと箱のふたを取る。
中に入っていたのは、鉱山跡で拾ったものとまったく同じ腕時計だった。文字盤の裏を見ると、両方とも同じように「E, K」と彫られている。その手彫りの印字は、寸分狂わず全く同じに見えた。
同じ腕時計が二つ。なぜこんな状況になっているのか分からないが、とにかくほとんど確定したと言ってもいいだろう。
Sを朱浦鉱山跡に閉じ込めたのは諒路だ。
Sは「閉じこめた奴を殺す」という目的を告げていた。彼女の真の目的は、諒路の殺害だ。
夕は諒路の本棚から『心理学用語辞典』と背表紙にある本を取り出し、記憶に関する部分を開いてしばらく眺めていた。なぜ自分がSに出会ったことを忘れ、彼女が殺そうとした人間の名前すら思い出せずにいたのか。
「
——『忘れてくれ。本当に、単なる私的な理由さ』。
今度はSに殺されかけた時の彼女の言葉が、夕の頭の中に、フラッシュバックするように響いていた。
恐らく夕が命を狙われる理由は血縁だからという、単なる
しかし。
「でも、だとしたら何か変だ……」
夕の頭にはいまだにもやのようなものがかかっていた。
もし本当に、単なる私怨だけがSの胸中にあるのだとしたら。
ただただ夕を、自分を閉じ込めた諒路の息子だからという理由で憎んでいるのだとしたら。
——『そうか。君からその言葉が聞けて、いくらか解放された気分になったよ』。
あの時にSと交わした会話は、ただ友達を装うためのものだったのだろうか。
夕はそう思えなかった。あの日、彼が見たSの表情は、彼に向けられたSの言葉は、間違いなく本心からのものだった。
それに、まだ判明していない謎は多く残っている。なぜSは家に来て殺すのではなく、わざわざ朝撒高校で夕を待っていたのか。少なくとも「児玉」と書かれている表札を探すのは数年の間にできそうなものだ。また、Sが魔女でないのなら、本当の魔女はいったい誰なのか。そしてなにより——なぜSという無生物の存在がこの世に現れたのか。
夕は大きく深呼吸した。一度思考を整理して落ち着くべきだというのは、池木の件で十分に学んだ。
ふと窓の外に目をやった。日は完全に沈み、のっぺりとした闇が広がる夜が家を飲み込んでいる。
夜——そういえば。
夕は腕時計が入っている白の箱を机に置き、それを上から手で覆って影を作った。
「何、これ……?」
思ったことがそのまま口から出ていた。理解ができなかった。
ただ一つ。あの夜見た、闇の中で姿形も消える腕時計は、夢でも疲労による幻覚でもなく、現実の現象であることが分かった。
夕がかざしている手のひらの下には、白い箱が置かれている。
その中に、腕時計の姿は見当たらなかった。
夕は思わず箱を閉じ、震える手で元あった場所に戻した。
今見ている現実の全てがおとぎ話のように思えてならなかった。
これでは、まるで。
諒路が魔女と契約して、魔法の道具でも手に入れたかのようだ。
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