第三章:未明

第21話


     1


 次の日。学校には菅原も西川も来ず、代わりに稲垣いながきという体育教師が来た。彼の話によると、どうやら西川は今日は出張に行っているようだ。夕は稲垣と一悶着あったこともあって、少し気まずかった。しかし、幸いにもこれといって何か起きるようなことはなく、いつものように一日が終わった。

 放課後。ゆう湯浅ゆあさと共に図書室へ向かっていた。一昨日、菅原とメールで約束した時間が迫ってきていたからだ。

 最初は夕一人で行こうとしていたのだが、湯浅が「児玉一人だけやとなんか不安さかい」と言われてしまい、昨日のこともあって夕はその言葉を否定しきれず、一緒に行くことになっていた。

「でも、図書室が集合場所ってなんか変やんな」

「変?」

「あそこって基本的には会話禁止やん? 魔女についての話するのに向いてへんのになって」

 それは夕も同様に考えていた。確かに人は少ない分会話を聞かれるリスクは減るだろうが、それでもあの空間で会話をするのは真面目な菅原らしくない選択だった。

「図書室にある本を使って説明するとか?」

 夕はそう言ったが、自分でも納得のいく仮説ではなかった。それは湯浅も同じようで、難しい顔をしていた。

「うーん……どうなんやろ」

「まあ、行けば分かるよ」

「そうやな」

 夕が図書室の扉を開けると、すぐ目の前に緑のエプロンを着た身長が百八十センチは優にありそうな大柄な中年の男が立っていた。口周りに無精ひげをたくわえ、少し雑にセットされた灰色の七三分けのような髪型をしている。

 男は当惑する夕をなかば見下ろすようにして見つめていた。

「どなたですか……?」

「お前が児玉夕か?」

 そこでようやく、夕は男の首にぶら下がっている名札に目がいった。そこには大城という名前が印字されていた。目の前に立っているこの男は、どうやら司書のようだ。

「そ、そうです。菅原先生に呼ばれて来ました」

「そうか」大城は湯浅に視線を移した。「お前は、児玉夕の友人か?」

「は、はい。そうです」

 湯浅の完璧な敬語を聞いたのはこれが初めてだった。どことない緊張感が場を包んでいたが、いつもの湯浅らしくないので心の中で「湯浅も全く訛らない敬語って話せるんだ」とおもしろがった。

「そうか。菅原先生が呼んだのは児玉夕ただ一人だが、お前も入る気か?」

「はい」

「二人組か。ホームズとワトスン。コニーとキャサリン。ポワロとヘイスティングス。トミーとタペンス」大城は何かをぶつぶつと呟いていた。「……なしではないな。お前も図書室に一緒に入れ」

「あ、ありがとうございます」

 いったいどういう基準で選ばれたのかよく分からないが、どうやら認められたようだ。

 大城は背後の図書室を親指で指差し、「念のために他の生徒はいないようにしてある」と言った。

「今から菅原がお前らに話す内容は、正直、俺もなぜなのかあまり理解できない代物だ。期待してるぞ、まだ幼い灰色の脳細胞」

 そう言われて、夕はようやく大城が口にしていた謎の横文字の羅列を理解した。どうやら大城はミステリーが大好きなようだ。

 大城が図書室の中を振り向きどこかへ歩いていくのを見て、一拍置いてから夕と湯浅も図書室に足を踏み入れた。

 しかし、図書室の中に菅原の姿は見当たらなかった。大城の方を見ると、本棚が並んでいる方へ向かうのではなく、カウンターに入ろうとしている。

「何をぼさっとしてる。用があるのは本じゃないぞ」

 大城はそのままカウンターの裏にある木製の扉の奥へと入っていった。慌てて追いかけると、そこには部屋も床も真っ白な空間が広がっていた。壁際にステンレスのメタルラックがいくつも置かれており、その半分以上を占めるように装丁そうていが紺色をした布地の本がいくつも並べられていた。

 菅原は、その内の一つを見ながら棚のそばに立っていた。

「菅原先生」大城の声に菅原が顔を上げる。「児玉夕を呼びました。それと、入りたがっていたのでその友人も」

「え、湯浅くん?」

「どうも。湯浅です」

 湯浅は困惑する菅原を面白がるかのような笑みを浮かべている。菅原はわざとらしくため息をついて持っていた本を閉じ、メタルラックへ戻した。

「最近やけに児玉くんと仲いいなとは思ってたけど……本当に来ちゃったのね」

「俺が光なら児玉は影ですから。切っても切れませんよ」

「……そういう時って普通、僕が光に例えられるんじゃないの?」

 夕は思わず口を開いたが、湯浅はそれを聞いて聞かぬふりをした。

「それで、菅原先生。話したいことって何ですか?」

「……そうね。本題に入りましょうか」

 菅原は近くの棚に整然と並ぶ本の背表紙を指でなぞり、そのうちの一つに指を止めた。少し昔のものなのか、少し劣化して色褪いろあせている。

「これを見てほしいの」

 夕と湯浅は菅原の方へ近寄り、その本を見た。

 中身を見てようやく分かったが、それは本ではなくアルバムだった。今ではあまり見かけないような髪型の生徒が朝撒高校の校舎の前に並び、カメラに向かって笑顔を見せている。

「これは平成六年度、今から二十三年前の三月に卒業した生徒たちの卒業アルバムなんだけどね。このアルバムに、大城先生と湯浅くんは見たことがなくて、私と児玉くんだけが見覚えのある人が載っているのよ」

 菅原はそっとページをめくった。そこには、三年一組の生徒の個人写真が五十音順に並べられていた。夕は一人一人の顔を視線でなぞっていく。

「——あ」

 その人は無表情でカメラを見つめていた。笑顔の写真に囲まれているからこそ、それは明らかに浮いて見えた。

「元々、私は二年二組の担任をしていてね。この三年一組は別の先生が担任をやってたのよ。でも、その先生は執拗しつような嫌がらせを受けてたの。嫌がらせと言うとイタズラ程度に聞こえるけど、それはもう酷くてね。しかも証拠一つ残さないで、完璧にやり遂げるの。ついには『あのクラスの担任から外させてください』って学年主任に相談したらしくてね。二学期の途中で私とその先生で、担任をするクラスを交換したのよ。だから、顔もよく覚えてるわ。……あの無機質な目。白い肌。それを、まさかもう一回見ることになるとは思わなくて、私、もう怖くて……」

 湯浅は少し青ざめていた。これは単に見覚えがあるから、という理由であった。

 一方、夕は。

 湯浅とはまた異なる理由のために、言葉を失っていた。

 夕の視線は、Sに釘付け――になっていなかった。

 彼の視線はさらにその下、その人の名前が書かれている部分に向けられていた。

 なぜ彼女がSと名乗っていたのか。ようやく理解することができた。

 それは至ってシンプルで、なおかつ盲点となっていた。あまりにも関係性が薄かったために気づけなかった。


 写真の下には、「江洲えす 花織かおり」と書かれていた。

 夕は母・花織の旧姓が江洲であるということを、このアルバムを見てようやく思い出した。それほどまでに夕と花織の関係とは希薄なものだったのだ。

 だから夕は、彼女が自身を「えす」と名乗っているのを聞いて、それが名字であるという可能性を無意識に排除してしまっていた。Sはイニシャルでもなんでもなく、彼女自身の正しい名字を名乗っていただけだった。

 これで、鉱山跡に落ちていた時計の裏に彫られていた「E, K」という文字の意味がに落ちた。最初はイニシャルだと思っていたが、それであれば普通はピリオドを使うはずだ。カンマが使われているということは、イニシャルではなく「EとK」という意味だ。

 Eは江洲を指し、Kは児玉を指す。あれは花織の形見なのだろう。

「この人……例の魔女、やんな?」

 湯浅がおもむろに呟き、それに呼応するように夕と菅原が頷いた。

「児玉くんは知っていると思うけど、私は屋上で彼女に出会い、顔を見てしまったのよ。それで確信したの。児玉くんが撮ったあの魔女の写真は本物だって」

 その菅原の言葉が、夕の心にわずかに引っかかった。

「これが僕に見せたかったものですか?」

「ええ。これで恐らく終わりだと思うわ。朝撒高校の魔女は江洲花織という生徒の……幽霊とかになるのかしら? みんな屋上から落下する瞬間を見たのに死体がないなんて、そういうことよね」

 確かに、もしこの世に人間の幽霊というものが本当に存在するのなら、彼女の存在は全て説明がつくだろう。不老不死なのも、神出鬼没なのも、「幽霊だから」の一言で全て強引に納得させることはできるだろう。

 だが、それでは話は収まらない。

「やったな、児玉! 情報収集はこれで終わりで、あとは原稿を書くだけや」

「——これで終わりじゃない」

 白日の下にさらすべきことはまだある。なぜ彼女は朝撒高校に留まっているのか? 花織が死んだ時の年齢は三十二歳だが、花織の幽霊(混同するのでこちらは便宜上、花織の幽霊と呼ぶことにする)はなぜ卒業した時の十八歳の姿のままなのか。一般的なイメージでは、幽霊は死んだ時の姿で現れる。それなのに高校生の時の姿で出てくるということは、花織自身、朝撒高校に深い未練があるとしか考えられない。

「どうしてや? もう魔女の正体も分かったし、後は記事書くだけやろ? それに、話したやん。期限に間に合わへんのとちがうかって」

「……じゃあ期限にも間に合わせる。もっと詳しく調査もする。それで大団円でしょ?」

「それは」湯浅は夕の珍しい強気な口調に少し気圧けおされる。「……そうやけど」

「新聞部という部活の性質上、あまり詳しいことは言えませんが」夕は街頭演説をするように一人一人の方を向く。「その写真にある江洲花織という人物と同じ顔を持つ、この学校に住みついている魔女。彼女は、魔女じゃありません」

「え?」

 湯浅は信じられないといった表情を浮かべる。

「探偵は好きだが、探偵ごっこは嫌いだ。結論を先に話した以上、なぜそういう結論に至ったのかはっきりと納得のいくように話すべきだろう」

 大城は少し怒るような口調で言う。

「本当に申し訳ないんですけど、詳しくは言えません。ただ、本人に訊きましたし、僕が今までに得ている情報から判断しても、彼女が魔女だというのはあり得ないんです」

「児玉くんは、それでいいの?」

 ずっと黙っていた菅原はおもむろに口を開く。

「どういうことでしょうか」

「彼女は江洲花織よ。これ以上追求しようものなら、何をされるか分かったものじゃないわ」

 その瞬間。

 夕の背中に花織の幽霊の視線が刺さるような感覚がして、背中にぶわっと鳥肌が立った。彼女の白い手が夕の腕を掴む光景が脳裏をかすめる。

「そうやぞ、児玉。もうここらで終わりにしといた方がええ。次はほんまに……」

 。それは頭で分かっていた。夕は湯浅の気持ちも痛いほど理解できた。

 ただ、それ以上にあの魔女だと疑っていた何者かが自分の母親である、という事実に夕は強い興味——というより、知らなくてはならないという義務感が芽生えつつあった。二度と逃すことができないと、直感で理解していた。

 夕がまだ四歳——物心がついて少しした後に花織の肺がんが発覚し、それから彼女は入院した。月日をかけて治療をしたが、それも虚しく肺がんの全身への転移が進行し、末期の症状が現れ始めた。彼女は倦怠感けんたいかん疼痛とうつうを訴え始め、次第に一人で歩くことさえ困難になった。みるみるせ細り、意思疎通すら難しくなり始めた。余命がもう近いことは誰の目にも明らかだった。

 夕が最後に花織と会ったのは、本当に亡くなる一時間前ほどだった。その時には既に体がほとんど動かず、白の羽毛布団が小さく上下に動いているだけだった。夕はただそれをじっと見つめていた。

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