第22話

 本当に何も知れぬまま、花織は逝ってしまった。夕にはそれがいやに現実味がなく見えて、葬式の時もまだ夢の中にいるような感覚だった。涙を流したのは、出棺の時だった。その棺桶には本当に母親が眠っているのだと意識し、どこかへ連れ出されていくのを見て寂しさを覚え、声を上げて泣いた。

 夕は、この先も花織のことを知らないまま生きるのではないかと、幼い頃から考えていた。母の全てが遠くにあるように見えた。

 今、Sが過去の母親の姿をした、幽霊のような存在だということが分かった。しかし夕は、花織の幽霊は、姿こそ高校生の頃の花織だが中身はまるで違うと信じていた。話している時も、顔を見ている時も、彼女は母親には見えなかった。

 ただ。

 彼女が屋上で口ずさんでいた、イングランドの民謡、『Greensleevesグリーンスリーブス』。あれにはいやに懐かしさを感じてしまう。記憶の死角になっている部分をつつかれるような心地がする。

 もしかしたら、自分が魔女の噂を暴くことにあれほど躍起になっていたのは、これを心のどこかで求めてしまっているのが理由なのかもしれないとさえ思い始めていた。

「……本当にごめん」

 夕はアルバムの保管室から抜けだした。背後から誰かの制止の声が聞こえたような気がしたが、もはや止まってはいられなかった。今動かなければ全てを後悔することになる、という予感が夕の全身を支配していた。

 西川は今日は出張でいないので、屋上には入れない。それでも花織の幽霊について知ることはできる。

 父の諒路だ。彼なら何か知っているに違いない。なぜ諒路は花織の幽霊を鉱山跡に閉じ込めていたのか、ということも含めて訊ねる必要がある。

 遅くならないうちに。後悔のないように。


     2


 時刻は二十時近く。夕はダイニングの椅子にじっと座り、諒路の帰りを待っていた。一秒一秒が永遠のように感じられた。壁にかけられた時計の秒針をじっと見つめていると、なんだか時計が止まっているような錯覚におちいる。

 廊下の奥から玄関の扉が開く音がした。足音が徐々に近づいてくるとともに心臓の鼓動が早くなり、体がこわばっていくのが分かった。

「……どうした、夕」

 諒路はいつもの声の調子で、しかし顔には明らかな動揺の色を見せながら訊ねる。

「話したいことがあって」

 夕が座ってほしいとでも言いたげな目で見るので、諒路は二階の自室にバッグを置きに行きたかったが、ただごとではないと察知し席についた。

「朝撒高校の魔女に、会ったのか?」

「魔女と呼ばれてたあの人、高校生の頃のお母さんだった」

 諒路の表情にあまり変化は見られなかった。かといって、何かを言うわけでもなかった。

 秒針がカチカチと音を立てて進む。沈黙も続いている。

「……お父さん、知ってたでしょ。何で隠してたの?」

 夕は少し怖気おじけづいてしまいそうになったが、どうにか持ちこたえて訊ね続けた。

「……夕が『朝撒新聞』を持って帰って来た日、あるだろう」

 夕は頷いた。確かに、あの日から諒路の様子はどこか不自然だった。唐突に謝り始めたり、夕飯を率先して作ったり、「海を見たい」と言い始めたりと、挙げればきりがない。

「彼女が朝撒高校にいると知ったのは、その記事を見た時だ。おれは彼女を閉じ込めた。……閉じ込めたから大丈夫だって、そう思いたかったんだろうな」

 諒路の視線は夕の方ではなく、机の上に向けられていた。彼の頭には何が浮かんでいるのか、いまいち掴めずにいた。

 ただ、夕の予測はおおよそ合っていた。諒路は花織の幽霊の何かに恐れ、あの朱浦あけうら鉱山跡に閉じ込めた。それは確かなようだ。

「なんで閉じ込めたの?」

「……当時は分からなかったが、今ならよく分かる」諒路は自分の心を落ち着けるために大きく深呼吸をした。「怖かった。ずっと逃げ出してたまらなかった。やりようは他にもあったのに、過去のおれは一番楽な手段を取ってしまった」

 諒路はテーブルに肘をつき、右手で両目を覆った。わずかに鼻をすすっている。

「彼女に、何をされたの?」

 夕はできるだけ優しく、刺激をしないような口調で訊ねた。今の諒路が精神的に不安定なのは目に見えて分かっていた。

 諒路は口を閉ざしたままだった。口の端がわずかに震えており、何かを口に出そうとするのだが上手く声が出ないといった様子だった。

「分かった。話してくれてありがとう、お父さん」夕はおもむろに立ち上がった。「——あとは全部あの人に直接訊くことにするよ」

 夕は早足でダイニングを後にし、玄関へ向かった。

「待て、夕! 殺されるかもしれないん――」

 諒路の震えた声は玄関の扉を開く音にかき消されていった。当てを失くした夕への言葉は、

「頼むから、夕までおれを置いていかないでくれ……」

 という独り言に変わり、悲しみと後悔が収まるまで声を上げて泣いた。


 静かすぎるダイニングに取り残された諒路の元に残されたのは、喪失感だけだった。

 しばらくして諒路の激情もどうにか収まり、彼は何も持たずふらふらと立ち上がって二階の自室へ向かった。

 諒路の部屋には今にも天井に届いてしまいそうな、高さ二メートル以上の本棚がいくつも並んでいる。もしこれらが倒れてきたら諒路は、なす術もなく押しつぶされてしまうだろう。

 諒路は作業机の上を整理し始めた。やはり書類や紀要論文のコピーがそのまま放置されているのは、どうせ無意味だと分かっていてもどうしても気になってしまう。

 片付けながら、諒路は夕に思いを馳せていた。

 夕は彼女に殺される。それが諒路の見解だった。もはや夕は聞く耳を持っていなかった。

 。諒路はそう思った。

 これで、自分で自分に決着をつけることができる。

 夕の死を知る前に。

 諒路は自分の思いをつづった紙をデスクの上に置き、本棚の近くに歩み寄って。

 本棚の上から垂らしてある、輪っか状に結ばれた縄をじっと見つめていた。


     3


 夕は夜道をなかば急ぎ足で歩いていた。花織の幽霊の目的が分かった今、あまり時間は残されていない。殺されるか、彼女を知るかだ。

 寒さが夕方よりもずっと増しており、夕の肌はわずかに粟立あわだっていた。

「先に言うとくけど、おれがおっても児玉の命助かるとは限らへんで。夜だから人目にもつき辛い。死ぬ確率はうんと上がってるぞ。引き返すなら今のうちや」

 夕の隣には、精いっぱい友人の身を守ろうと説得を繰り返す湯浅がいた。彼は夕から「今日、もう一回学校に行ってあの人と話してみる」という連絡が来たのを見て、急いで家の前までやって来ていた。湯浅の表情は明らかに怯えの色を見せていた。

「学校に侵入するの手伝ってくれたでしょ。それに、ほら。こうしてついて来てくれてるし」

 夕は湯浅と一緒に朱浦あけうらへ行った時、帰り際に「菅原先生に図書室まで会いに行く日に、一階の北校舎の東側にある自習室の窓の鍵を開けといてほしい」と頼み込んでいた。あの辺りは位置的に日がほとんど当たらずずっと暗がりになってしまうことは菅原への取材で知っていた。あの部屋の窓だったらしっかりと確認しない限りは鍵が開いていてもバレないだろうと予想したうえでの行動だった。

「そら、あん時は手伝ったけど、今はもう事情が変わったやろ? 児玉が命を狙われてるっていうなら話は別や」

「いや、逆に考えてみてよ。僕を殺す計画が失敗した今、この行動は意表がつけると思わない? 少なくともあっちはいつでもすぐに殺せるよう準備してないと思うよ」

「それは……でも、あくまで希望的観測やろ。危険は危険や」

 湯浅の言葉は、その全てが正論だった。普通であれば一ミリたりとも反論できるはずがない。

「じゃあ、約束するよ。もし一階の自習室にある窓の鍵が閉められたらすぐに家に帰るし、仮に入れたとしても絶対に彼女には近づかない」

「アホ。当たり前のことは言わんでええ」

 湯浅は夕の背中を手のひらで軽く叩いた。背中がわずかにひりひりと痛む。

「ごめん」

 沈黙が流れる。二人分の足音だけが夜の朝撒町に響き、二人分の影が街灯の下に流れていく。

「……なあ、夕。なんでここまでするんや?」

 思わず口から漏れ出たような、率直な疑問だった。

「思い直したんだ。僕も『生きている』ってことを実感したくて」

 湯浅は夕が何を言っているのか分からないといった様子で夕を見た。夕は決して湯浅の方を見ることはなく、どこか達観したような目をしていた。

 花織の幽霊の言葉を受けて、夕は今までの自分の人生を軽く振り返ることが何度かあった。たった十六年間弱の人生だが、体感としては既に人生の半分は経過したのではないかと思えるほどだった。

 だが、その中でも自分が確かに『生きている』と堂々と言えるか分からなかった。実際、夕は母親のことも父親のことも、朝撒高校の魔女のことも何も知らなかった。それどころか自分が過去に何をやっていたのかさえ忘れてしまっていた。

 花織の幽霊の言い分が正しければ、これは『死んでいる』のと同じだ。まるでゾンビだ。これから彼女に会いに行って例え殺されたとしても、彼女を知ることができたのなら後悔などなかった。非日常という状況に半ばハイになっているのかもしれないが、それでも夕は正しく生きていたかった。

「大丈夫やって。児玉の心臓が動いてる限りお前はちゃんと生きてるんやさかい」

「……それだと、彼女を否定することになるから」

 湯浅はそれ以上何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいのかもしれない。もう夕に説得は通じないと、湯浅は既に諦めていた。

 ふいに二人は立ち止まった。

「夜の学校って初めて来たんやけどさ。案外怖いもんやな。漫画とか小説の中の描写って、普通に誇張してるものや思うとった」

「昼の光景を知ってるから、なおさらだね」

 夕はそびえ立つ灰色の校舎を見上げていた。緑の非常灯だけが頼りなのだが、それが余計に不気味さを助長していた。

 広葉樹の葉が風に当てられ、ざわざわと音を立てている。カラスの鳴き声すら聞こえない。遠くで走る車やバイクのエンジン音だけがぼんやりと聞こえる。今この場所だけ世界から隔絶されたような、異世界に立っているような錯覚を起こす。

「……夕。無駄やって分かっとるけどもう一回訊くで。ほんまに行くんか?」

「うん」

 夕は即答した。ここに花織の幽霊は確実にいるのだ。

 姿こそ見えないが、北校舎の屋上がほんのりと明るくなっていた。

 あれはランタンの明かりだ。彼女は屋上にいる。

「行こう」

 夕は校門をよじ登り、そのまま生徒玄関へ向かった。湯浅もワンテンポ遅れてから夕の後についていく。

 今まで夕は健全な青少年として生きてきた。健全過ぎるからこそ『生きている』ということがよく分からなくなっていた。

 それは今だった。今こそ、夕が人生で最も『生きている』瞬間だった。

 レンガの花壇に囲まれた校舎の周りを歩き、自習室の窓の前まで来る。思惑通り、鍵は開いたままになっていた。夕と湯浅は暗闇にまぎれてそっと侵入した。

「で、屋上に行くんやろ?」

「うん」

「鍵は?」

「今から職員室に盗みに行くよ」

「思ったんやけどさ。職員室、電気点いてへんかったやろ? てことは、先生誰もいーひんってことやんな」

「うん」

「普通、職員室って鍵かけへんか?」

「ん……? あ」

 その通りだった。湯浅はあまり大きな声にならないよう口を抑えながら笑い始めた。

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