第18話

 入り口から真っ暗な坑道を覗く。波や風の影響で、坑道内にもいくつかの漂流物が散乱していた。

「暗いな」

 湯浅は携帯を取り出してライトを点けた。すると、まるで無限にも感じられるほどに道がまっすぐ続いていた。上下左右、どこを見ても無骨な岩肌が露出している。

「行こか」

 心なしか湯浅の声も震えているような気がした。恐怖か、あるいは単に寒さのせいかもしれない。全く日が当たらない鉱山跡の中は外よりずっと空気が冷えているのだ。

 二人は湯浅の携帯のライトを頼りにして、お化け屋敷を進むかのように慎重に歩みを進める。途中、何度か漂流物につまずきそうになりながらも歩き続け、そして。

 ふいに、先ほどまでの道とは違う、広い空間に出た。

「なんや、この空間……?」

 湯浅は携帯のライトであちらこちらを照らす。広さとしてだいたい十畳ほどの広さの空間だった。夕も携帯を取り出しライトを点ける。

「なんだろ……採った鉱石をいったん集めておく場所とか? もしくは作業員の休憩所だったとか」

「確かに、そないな感じするな」

 その瞬間だった。

 諒路と海を見に行った時と同じように、夕の頭の中に映像が流れ始めた。水の中で見ているようなぼやけたその映像が、じんわりと輪郭を取り戻していく。


     5


 小学生になったばかりの夕を連れ、諒路は二人きりで海へ来ていた。戦後間もない頃こそ栄えていたという昔話だけが存在するこの朱浦の海岸沿いは、今や見る影もなく、潮風に当てられて錆びた看板やシャッターを締め切った店が立ち並ぶばかりだった。夏だというのに、旅行客のような人影も全くない。蝉時雨せみしぐれだけが響く、寂しい海だった。

 諒路が海を見に来た理由は、彼自身も分からなかった。ただ、なんとなく見ようと思い立ったのだった。もしかしたら、花織の死でぐずぐずに崩れた心を直さなきゃ駄目だぞと、生存本能が警鐘を鳴らしてくれたのかもしれない。

 諒路はまばゆく輝く夏の海を見つめながら、過去に思いをせていた。

 花織が亡くなったのはちょうど去年。まだ夕が小学校にも上がっていない頃だった。花織の葬式が行われている間、夕はいったい何が行われているのか分からないようだった。ただ、母親がいなくなるということはしっかりと理解していたようで、慟哭どうこくとでも言うべき泣きじゃくり方をしていた。疲れ果てて眠るまでそれは続いた。

 花織の肺がんが判明したのは、彼女が死ぬちょうど一年くらい前だった。咳と胸の痛みが酷いと言うので病院に連れて行ったところ、レントゲン撮影を経て発見された。それから肺がんは、まるで「見つかったなら仕方ない」と開き直るかのように花織の体を急速に蝕んでいった。彼女は目に見えて日に日にやつれていった。

 享年きょうねんわずか三十二歳という若さで、彼女はこの世を去った。最期を看取ることができたのがせめてもの救いだった。

 諒路は、花織が本当に幸せだったのか分からなかった。確かに彼女は諒路を愛しているようには見えたし、諒路もそれに応じて愛した。だが、それ以上に彼女は多くの苦しみを背負っていた。その最たる例が花織の母親による虐待だ。彼女はそれから逃げるように諒路を求めたが、彼はそれを真っ向から受け止められる自信がなかった。花織の人生に責任を持つという行為が、まだ高校三年生だった頃の諒路にはそれはあまりにも重かった。

 しかし、結果として、花織は諒路と駆け落ちするようにして家を抜け出した。彼女は真剣だった。これは結婚後に知ったが、当時のかかりつけの精神科医にも駆け落ちのことは黙っていたらしい。

 それから二人で過ごして、社会人になって二〇〇三年に夕が産まれた。名前は花織がつけた。なぜかは教えてくれなかったが、児玉夕という語呂が心地良かったので賛成した。

 ずっと三人で生きていけると思っていたが、思ったよりも早い幕切れだった。それから時が経つのはあっという間だった。様々な手続きを済ませているうちに葬式の日がやってきて、そこで諒路は初めて泣いた。苦しくて、夕が見ている手前だからと我慢することすらままならなかった。

 ここに来ると、どうしても考えてしまう。もっと花織を幸せにできたのではないだろうかと、他にしてあげられることなどいくらでもあっただろうと、後悔の波が絶え間なく押し寄せた。

 あの日も、同じようにここへ来て——。

 そこで、諒路はふと辺りを見渡し、夕がいないことに気が付いた。


 夕は、鉱山跡の入口に立ってその暗闇を見つめていた。しかし彼の瞳に恐怖の色はなく、どちらかといえば輝いていた。今の夕は飽くなき好奇心で満ち満ちていた。

 しかしこの暗闇の中では進めない……と悩んでいたところで、夕は塾帰り用に持たされているが、一度も使ったことがない懐中電灯がリュックに入っていることを思い出した。夕は懐中電灯を点け、それがきちんと機能しているか確認してから行動の奥へと進んでいった。奥に進むにつれて、蝉の声が薄れていく。

 しばらく歩いて、広い空間に足を踏み入れたことに気が付いた。夕は一度立ち止まり、辺りを懐中電灯で照らした。

「え」

 一目見た瞬間、夕はから目を離せなくなった。呼吸も忘れ、今にも懐中電灯を落としそうになっていた。

 広い空間の隅に、どこの学校か分からないが、奇麗な制服を着て佇んでいる女がいた。今にも逃げ出したかったが、不思議なことに「もっと彼女を知りたい」という感情が恐怖を上回り、夕は彼女を懐中電灯で照らし続けた。

 懐中電灯に照らされているからなのか分からないが、彼女の肌は病的なまでに白かった。坑道内の暗闇にその肌が良く映えて見えた。

 彼女は何も言わずゆったりとした足取りで夕に近づき、それから足元の何かを拾った。

 それはランタンだった。銅色の塗装が懐中電灯の光を反射し、にぶく光っている。

「ありがとう、少年。おかげでここから出られそうだ」

 風鈴を鳴らしたような、凛と透き通る声だった。夕は何も言えず、ただ頷いた。

「ついでに訊いておきたいことがある。何か火を点けられるものは持ってないかな?」

「も、持ってない……」

 夕は今にも泣きそうな震えた声でそう呟き、首を横に振った。

「ふむ、そうか。君はどうしてここに来た?」

「えっと……ごめん、なさい……」

 怒られると思った夕は頭を下げて謝り、やがて泣きじゃくり始めた。ランタンを持った彼女は少し困ったような表情を浮かべながらしゃがみ込み、夕の頭をでた。

「安心してくれ。私は君を怒ったりしないさ。約束しよう」

 彼女は夕が何度も頷き、徐々にその泣き声が収まっていくのを優しい瞳で見つめていた。そして、完全に泣き止んだのを確認してから立ち上がった。

「さて。ここから出るとしよう。私についてきなさい。迷わないよう、しっかり私をその懐中電灯で照らすといい」

 そうして、彼女は夕の三歩先を歩きながら質問を何個か彼に投げかけた。

「それで、君はどうしてここに? この先は本当に何もないが」

「えっとね、パパと一緒に来たんだけど……暇だったから」

「そうか。君のような年齢じゃ泳がないと海はつまらないだろうね」

「うん」

「君の名前は?」

「夕だよ」

「夕か。いい名前だ」

「……あ、知らない人に教えちゃ駄目なんだった」

 夕は少し震えた声で呟いた。

「感心するよ。防犯意識もしっかりしているとは。さぞ君のご両親は聡明そうめいなようだ。であれば、私が君にとって知っている人になればいいということだ。そうだね? ——私の名前はS。よろしく」

「えす?」

「ああ。いい名前だろう?」

 磯の匂いだけが立ち込める坑道に、二人分の足音と話し声が絶えず響く。Sは相変わらず夕に背を向けたまま歩き続ける。

「君にとっては意味不明だということを承知の上で、訊いてみたいことがある。『生きている』とは、どういうことだと思う?」

「『生きている』……」

 夕は頭の中でその言葉を何度か反すうした。歩きながらその意味をしばらく考えていたものの、結果的に何も答えが浮かばず、次第に蝉の声が聞こえ始めた。

「どうやら、君の答えを聞く前にここを出てしまいそうだ」

「ご、ごめんなさい」

「謝る必要はないさ」

 セミの鳴き声は次第に強まっていく。やがて周囲が徐々に明るくなり、二人は鉱山跡を出た。先ほどまでのひんやりとした空気から一転して、外は異様に蒸し暑い。天高く昇る太陽が煌々と輝き、二人を見下ろしていた。

「いい天気だね。夕」

「うん」夕は勇気を振り絞り、Sに訊ねた。「なんであんな所にいたの?」

「閉じ込められていた」

 彼女はその質問に少しの動揺も見せず、毅然きぜんとした態度で答えた。

「閉じ込められてた?」

「そうだ」

「なんで?」

「……そうだ、夕。今年は何年かな?」

「二〇〇九年だけど……忘れちゃったの?」

 Sは少し目を見開き、波の音にかき消されそうな声量で「あれから十五年か」と呟いた。夕はそれを聞き逃さなかった。

「いやなに。実は最近、忘れっぽくてね。それで、なんであんな場所に閉じ込められてたのか、だったな。……人間のエゴに、してやられたんだ」

 Sの使う言葉は時折難しく、まだ六年しか生きていない夕は首を傾げた。

「これからおうちに帰るの?」

「家はない」

「え、じゃあどうするの?」

「——私は、私を閉じ込めた奴を殺す。それまで家など必要ない」

「ころ、す……?」

 聞き慣れない言葉だった。

 夕はSの顔を見上げた。日光を受けて、Sの白い肌はより一層強調されて見えた。彼女は今にも白い日光と同化してしまいそうだった。

 そして、彼女の表情は。

 奇麗で、下卑た笑みだった。それでいて、何かを覚悟した瞳をしていた。

「……その閉じ込めた人って?」

「いつか君も、奴が死んだという報道を新聞やテレビで見ることになるだろうな。その名前は——」


     6


「思い出した……けど、いや、でもこれ、思い出して良かったのかな」

 夕は確かに朱浦鉱山跡で魔女に会っていた。それどころか、魔女が朝撒高校に現れたのは夕自身が原因だった。

「ここで何があったんや?」

 夕は思い出したことを全て話した。父・諒路と一緒にここへ来ていたこと。興味本位で鉱山跡を進んだら魔女に出会ったこと。魔女は何者かによって鉱山跡に閉じ込められていたこと。魔女はその閉じ込めた人物を殺そうとしていたこと。

「誰かに閉じ込められてたって……でも、児玉の話を聞く限りでは、別に鍵を開けたりとか何かを切ったりとか、そんなんは何もしてへんでな?」

夕は頷いた。確かに、『閉じ込められていた』というのには違和感を覚える。記憶の限りでは、Sは特に檻に入れられていたわけでもなく、佇んでいるだけだった。逃げようと思えば別にいつでも逃げられるはずだ。

「もしかしたら、魔女がいたこの場所を調べれば何か分かるかも……」

「閉じ込めた人の名前とかは訊けなかったんか?」

「いや、訊いたんだけど……でも、思い出せなくて」

「そうか。とにかく、少しでも手がかりになりそうなものがあれば報告しよか」

 二人はその空間をちょうど半分に分け、分担して何かないか調べ始めた。

 しばらくして、夕の背後で湯浅が「お」と声を上げた。

「これ、見てみ」

 湯浅のライトが照らす先には、ボロボロの、既に針が止まっている腕時計が落ちていた。状態から見るに、恐らく革製のベルトの穴が広がり過ぎて簡単に取れるようになってしまっていたのだろう。夕はそれを手に取ってみる。文字盤の裏には「E, K」と彫られていた。かなり乱雑なので、恐らく持ち主自身が彫ったのだろう。

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