第9話

「トモ、ダチ?」

 夕は一瞬、彼女が何を言っているのか全く分からなかった。すぐに「トモダチ」という音が脳内で「友達」に変換され、それと同時に疑問が湧いた。

「ずっと退屈で、そろそろ外部とのつながりが欲しいと思っていた頃だ」

「……いや、友達になるのは別にいいんですけど」

 夕は快諾した。実際のところ、この提案は彼にとってむしろ好都合だった。

 彼女はまるでその答えを予測していたかのようにうっすらと笑い、「それは良かった」と頷いた。

「でも、なんで僕なんです? その……あなたのような人であれば誰とでも仲良くなれそうですが」

「君じゃなきゃ駄目、なんてワガママは通らないか?」

 彼女は不敵に笑う。その笑顔は、他の何よりも美しいのではないかと思わせるほどの魅力をもって夕の視線を奪った。

「……いえ」

 夕は自身の顔が熱くなっているのを感じ、思わず顔を背ける。

「なんて。からかってすまないね。なにせ人と話すのは久しぶりだから、少し気分が高揚していて」

「いや、大丈夫です……取材、してもいいですか?」

「そういう交渉だからね。いいよ」

 夕は手間取りながらズボンのポケットからメモ帳を、ワイシャツの胸ポケットからシャーペンを取り出した。

 しかし、ふと彼女の顔を見て、自分が今どうするべきなのか分からなくなってしまった。

 魔女と呼ばれる理由を訊ねる? 二〇一一年の新聞に書いてあることは全て事実かどうか確かめる? 魔女が存在しているという証拠を確保する?

 いや、そもそも彼女が魔女だと決まったわけですらないのだ。全て早まった考えのように思えてならない。

 夕の様子を見かねた彼女が、おもむろに口を開く。

「そうだね、自己紹介をしようか。私の名前はSエス。見て分かる通り朝撒高校の生徒で、基本的に屋上で一日のほとんどを過ごしている。私自身が魔女だと名乗った覚えはないが、まあ――噂にある魔女とは、私のことだ」

「……魔女」

 改めてそう言われ、夕は少し身の引き締まる思いがした。

 目の前に魔女がいる。

 そして魔女はSと名乗っている。

「驚い……いや、君はそれを予想してここに来たんだったね。そう。私が魔女だ」

 Sはそう言いながら夕から少しずつ離れていき、屋上の端にあるフェンスに寄りかかる。ランタンが金属製の柵に当たりカン、と軽い音を鳴らす。

 既に日は落ちて周囲は暗くなり始めている。遠くの山が暗闇の中で佇んでいるのがうっすらと見える。

 しかし、Sの持つランタンだけは明るく輝いており、彼女の異様さがより強調されている。彼女はまるで特異点のような存在だ。

「自分でこう名乗るのは、少し不思議な気分だな」

「どうして魔女なんて呼ばれてるんです?」

 Sは首を傾げた。

「さあね。これといって魔法や呪術が使えるわけではないんだけども」

「二〇一一年の新聞にも魔女の話が載っているのはなぜですか? あなたが魔女なら、既に七年はこの学校に在籍してることになります。しかも、当時とまったく同じ姿のままで。……あなたは何者なんですか?」

 Sは、先ほどまでの表情のまま、しかし口をかたく結んだ。何か悩む様子を見せるわけでもなく、ただ相変わらずの薄い笑みを浮かべていた。

怒涛どとうの質問攻めだな。私のことがそんなに気になるか?」

「はい」

「知りたい?」

「はい」

「そうか。……だが、今日は終わりにしよう。日が落ちて、夜が来てしまった。恥ずかしい話だが、私は夜が苦手でね」

「そうですか。それなら取材を無理にすることもしませんが、でも――」

「分かってる。ただし、来るのは君一人だけだ。明日の放課後、五時くらいがいい。また私に会いに来て、そして――もっと私のことを知りたがってくれ。私たちはもう友達なんだから」


     5


 夕は少しそわそわとした様子で、その時を待っていた。

 夕の手には伊坂いさか幸太郎こうたろうの『重力ピエロ』があるが、視線は同じ文章を繰り返しなぞるばかりで、内容は頭に全く入らずにいた。

 初めて、とまではいかない。だが、あまりにも珍しいことが起こったのだ。

 夕は――もう何度目か分からないが——キッチンの方を向く。

 諒路がカレーを作っている。

 他の家庭の事情を知らない以上確信を持って言うことはできないが、父親がカレーを作るという事象はきっとさほど珍しくないのだろう。

 だが、ここは児玉家だ。互いに完全に独立した生活を送り続ける寂しい父子、という構図を今までずっと取ってきていたのだ。

 一体、どういう風の吹き回しなのだろう。ただの気まぐれか、それとも何かしらの要因があってのことなのか。

 そんなことを悶々もんもんと考えながら、夕は本を読むふりを続けていた。

「できたぞ」

 どこかぎこちない動きで諒路がなみなみとカレーの入った器を夕の前に置く。

「……いただきます」

「いただきます」

 スプーンが皿に当たる金属音が部屋に響き、それが返って静けさを強調する。

 やはり料理に慣れていないのか、ニンジンもジャガイモも中が硬く、反対に玉ねぎは原形を留めているものが少ない。食材を全部まとめて同じタイミングで煮込み始めてしまったのだろう。

「夕」

 無言の食卓に会話を持ち出したのは、意外にも諒路の方からだった。

「ん?」

「学校は楽しいか?」

「うん、まあね」

 この返事は半分正解で、半分嘘だった。確かに新聞部としての活動は楽しい。自分の知れなかったことが知れるし、時には自分どころか他の誰も知らないことを知れたりする。

 その反面、普段の生活があまりにも退屈だった。自分の愛想がないことは確かに自覚しているが、未だに友人らしいクラスメイトはおらず、知り合いも、授業中にクラスメイトと話し合いをするためにランダムに分けられたグループで、たまたま話した湯浅ゆあさという生徒がいるだけだ。

「それは良かった」

 諒路はそれだけ言ってまたカレーを白飯と一緒に口へ運んだ。

 またしばらくの沈黙が続いた。

「……お父さんさ」

 今度は夕が口を開くと、諒路のスプーンを持つ手が止まった。

「ん?」

「あの、これ本当に推測なんだけど、再婚考えてたりする?」

「いいや、全く。どうして急にそんなことを?」

「いや、なんか今日はやけに料理してくれるから、何かあったのかなって。本当になとなくだけど」

 再婚相手にいい顔をするために料理でも始めたのではないか、と夕はそう勘繰っていた。だとしたら再婚相手は相当に男を見る目がない。

「ああ」諒路は少し悩む様子を見せる。「心変わりっていう理由じゃ駄目か?」

 夕は思わず押し黙ってしまい、それから、少しの間を置いて口を開いた。

「多分、いいと思う。僕は心理学のことよく分かんないけど」

「そうか」

 気まずい。今まで感じたことのない妙な空気がこの食卓を支配している。

「――すまない、夕」


「え? なに、何が?」

 予想外の言葉に戸惑ってしまった。これといって何かされたわけでもないのに、急に謝罪が出てくるとは思ってもいなかった。最初はカレーの野菜のことかと思ったが、どうやらそれも違うようだった。諒路は少し寂しそうな、悲しそうな表情を浮かべていた。

「今まで色々と迷惑をかけてしまったし、不自由な思いもさせてしまったかもしれない」

「別に、大丈夫だけど」

「多分これからも迷惑をかけるかもしれない」

「大丈夫だって」

 言葉とは裏腹に、夕の背中を冷や汗が伝う。

 そこでようやく気が付いた。恐怖しているのだ。

 いつもと違う行動をする父に。いつもと違う発言をする父に。

 具体的にそれが何なのかは全く予想できないが、何か悪いことの予兆ではないかと、本能的に感じているのだ。

 違和感は諒路が夜中に新聞を読んでいた頃から夕の胸中にあった。それが時限爆弾のように息を潜め、今ここで小規模な爆発を起こしたのだ。

「あの、僕がいるから。その……大丈夫。大丈夫だから」

 我ながら臭い台詞せりふだとは思ったが、こんな言葉でも吐かない限り気持ちが落ち着きそうになかった。これは自分に言い聞かせるような言葉でもあった。

「ありがとう」

 そう呟く諒路の顔からは先ほどまでの悲哀ひあいの色が薄れ、どこかすっきりしたような顔つきになっていた。

 それでも夕の心の不安は振り払えなかった。

 それはずっと心にべっとりと貼り付いまま離れず、深夜一時になっても剥がれることはなかった。きっと明日も引きずってしまうだろうなと思いながら、夕はただベッドに横になっていた。

 どうしても眠れない。約一週間ぶりの不眠だ。もしかしたら、あの日寝れなかったのも魔女のせいじゃなくて、この不安が募り始めていたからなのかもしれない。

 夕は階段を下りて一階のダイニングへ来た。この前は電気が点いていて、諒路が新聞を読んでいた。そういえば、結局どうして父があの新聞を読んでいたのか分からずじまいだ。

 そんなことを思いながら夕はレバーハンドルを下げ扉を開く。

 まだ四月なので部屋は肌寒かった。水を飲んで早めに戻ろうと電気を点けたとき——ふと、違和感を覚えた。

 何かの気配があるわけではない。しかし、変なのだ。あるはずのものがないような、あるいはなかったはずのものがあるような、とにかく説明はつかないが、妙な感覚が夕を襲っていた。

 少し考えて、その違和感は電気を点けたり消したりすることがトリガーになっていることが分かった。

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 誰もいない部屋にスイッチを切り替える音だけが響く。

「――あ」

 そこでようやく気が付いた。


 音だ。諒路の腕時計は機械式なので音が鳴る。いつもであれば気にならないほどに小さいが、夜中の静まり返った部屋ではよく聞こえるのだ。

 それが電気を消している間は消え、電気を点けると再び鳴り始めている。諒路はいつもテーブルの上に自分の腕時計を置いておく習慣がある。きっと秒針が動くたびに中の歯車などが音を立てているのだろう。

 納得した夕は棚からコップを取り出し、水を一口飲んだ。冷たい水が食道を通っていくのを感じる。少し落ち着いたような気がした。

 暗い所では機能しない腕時計なんてどうして買ったのだろうなどと思いながら再び電気を消してみる。

 夕は、自分の目を疑った。

 これは暗順応あんじゅんのうという至極当たり前な現象だが、暗闇の中でもいずれはテーブルの上に置かれた腕時計は見えるようになるのである。

 見えるはずなのに。

 ぱち。

 電気を点けると、確かに腕時計はそこにあった。かなり昔から使いこまれた、革の部分がボロボロの腕時計だ。はたから見ても分かるくらいに古いので、一度修理の人にメンテナンスを頼んでみたらどうかと提案してみたが、やんわりと断られた。彼にとってこの時計はひと時でも他人に渡すのが嫌なほどに大切らしい。

 ぱち。

 その腕時計が——目の錯覚か、はたまた寝ぼけているのか。

 暗闇の中で形を失うのだ。それは決して比喩表現などではなく、文字通り闇の中に溶け込んでいた。

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