第8話

「え、児玉くんは知らなかったのか。いやいや、君もなかなかに手厳しいことをするんだなあ」

 鎌田はそう言って笑った。

「ごめんね、児玉くん。本当は別のトピックを使う予定だったんだけど…児玉くんを試してみたくなって」

「いや、えっと」

 夕は何と言っていいか分からなかった。

 自分の記事に直接関係があるわけではないが、もし魔女が見つからなかったら。二〇〇七年の記事と同じような結論に落ち着いてしまったら。

 四面の記事は何の価値も持たないものになってしまう。

 そして、そんな記事を書いた自分自身も――。

「これはある種の戦いだよ」佐藤の言葉で夕は思考の世界から連れ戻される。「もし児玉くんが魔女の真実に辿り着けたのなら、私の記事は何の価値も持たなくなる。魔女の存在が単なる噂ではなく真実になってしまうわけだからね。魔女の真実に辿り着けないのなら、君の記事は無価値になる。……児玉くんにはね、私の記事を無価値にしてほしいの」

「なんでそんな――」

「期待の裏返しだよ。私は本当に児玉くんに可能性を感じてるんだ」

 佐藤の表情が全く分からない以上、その言葉の真意が測れない。彼女は本当に期待しているのだろうか、それとも、自分が魔女であることを隠蔽いんぺいするためにこんな選択をしたのだろうか。

 駄目だ。また思考が前のめりになってしまっている。佐藤が魔女だと決まったわけではないのに。

「私がいなくなったあとも児玉くんが引き継げるように、ね」

 佐藤のペストマスクが笑みを浮かべたように見えた。

 それからの取材の内容はほとんど覚えていない。わずかに記憶にあるのは記事に使うからと、手ぶりを混ぜつつ話す鎌田の写真を撮らされたことだけだった。

「お疲れさま」

 診療所の入口でぼうっと立っている夕に、微糖の缶コーヒーを持った佐藤が声をかける。

「お疲れさま、でした」

夕はそれを受け取り、一瞬のうちに飲み干してしまう。

「変な提案しちゃってごめんね。前から別のテーマで鎌田先生に取材すること自体は決まってたんだけど、急に変えたくなっちゃって」

「いえ……どっちにしろ、魔女を見つけられなかったら僕の記事は無価値になりますから」

「……児玉くんは強いね。私があんなこと言われたらきっとショックで寝込んじゃうよ」

「ははっ、まあ」夕は少し言葉に詰まった。「今の僕には、これしかないんで」

 夕の言葉に佐藤は少し首をかしげていた。

「帰りましょうか」

「そうだね」

 二人は雑木林の中を歩き始めた。いつの間にかかなり時間が経っていたようで、日は陰り、空はいつの間にか茜色に染まっていた。風が林の木をざあざあと鳴らす。

「鎌田さんは本当にいいお医者さんでね。ちょっとした相談事でも平気で受けてくれるんだ。私も過去にお世話になったことがあるんだよ」

「なるほど。だから『ご無沙汰しております』って言ってたんですね」

「そう」

「……どうして通ってたんです?」

 そう言ったあとで、夕は自分の発言を激しく後悔した。

 そんなもの、最も繊細で他人に話したくない話題に決まっている。

「児玉くんの行動力には私もお手上げだね」

「す、すみません! 凄い失礼なことを――」

 夕が慌てて謝罪をしようとしたところで、佐藤が口を挟む。

「一口で言うのなら……もう耐えれなかったから、かな。あそこに通院してる他の人たちもそうなのかもしれないけど」

「……耐えられなかった」

「うん」

 夕はその言葉を聞いて、すぐに中学の陸上部のことを思い出していた。

 あの時の夕もまた耐えられなかった。重い抑圧に。多くの期待に。

 そして、ずっと耐えられなかった自分を責めていた。優しくされるたび、手を差し伸べられるたび、彼は余計に苦しんだ。

 全て自分のせいなのに、それを認めさせてくれない優しさが辛かった。

「耐えれなくても、いいんでしょうか」

「もちろん」

「……逃げ出しても」

「逃げることはあらゆる生物に備わってる生存本能だよ」

「泣いても」

「一度も泣いたことのない人なんて、見たことないね」

 しばらくの沈黙が続いた。

 ふと電線を見上げると、カラスが何羽か止まっていた。彼らは鳴くでも慌ただしく頭を動かすこともなく、じっと遠くを見つめていた。何かを待っているのだろうか。

「私、ずっとカラスになりたかったんだ」

 佐藤もそれを見ていたようで、独り言のようにふつと呟いた。

「どうしてですか?」

「みんな同じに見えるし、空も飛べるから」

 少し間を置いて、夕は「いいですね」とだけ呟いた。二人はしばらくそのまま、夕日とは真反対の真っ黒なカラスを見つめていた。

「僕も空を飛んでみたいです。歩いたり走ったりするのは、もう、疲れました」

「そうだね。私もそう思うよ」

 夕は佐藤の方を見た。

 ふと、このペストマスクもカラスみたいだと思った。

 ほどなくして彼らは何の合図もなく再び歩き始め、生徒玄関に着いた。体感ではかなり時間をかけて戻ってきた気分だったが、時計を見るとあの診療所を出てからまだ五分ほどしか経っていないことに気が付いた。

「さて、私はまだやることがあるから学校に残ることにするよ。児玉くんはどうする? もういい時間だし、帰ってもいいけれど」

「僕は……もう少し魔女の情報を増やしたいんで、まだ学校に残ります」

 佐藤は夕の言葉に頷いた。

「応援してるからね」

 夕は歩く佐藤を見送り、上履きに履き替えて作業室に戻った。

 佐藤がいない作業室は、いつも以上に広く感じた。窓の右手側から差し込む夕日がその物寂しさを際立たせる。

 ふと、背後の扉がガラガラと音を立てて開いた。

 振り向くと、相変わらずこちらが心配になるほど頼りない様相ようそうで西川が立っていた。

「児玉くん、佐藤さん……ああ、児玉くんだけのようですね。一緒に取材しに行くと言ってたはずですが、彼女は今どこに?」

「あ、佐藤さんは用事があると言ってどこかに行きました。……先生、それ」

 夕の視線は西川の右手に握られているにぶく光る鍵に向いていた。

「ああ、屋上の鍵です。折角だから二人で取材に行った方がいいと思ったのですが」

「……僕一人で行きます。使わせてください」

 西川は夕の言葉に少し驚いたような表情を見せたあと、微笑した。

「もちろんですよ。そのために盗んできましたから」

「今、盗んだって言いました?」

「言ってません」

「ああ、はい」

 夕は少し笑いながら西川から鍵を受け取った。緊張が少し緩和された気がした。

 この人も鎌田と同じように飄々ひょうひょうとしていてつかみどころのない人間だが、決して悪い人じゃない。

「今度は魔女に会えるといいですね」

「……きっと、会えます。今度こそは」

 鍵を制服のポケットに入れ、夕は足早に屋上へ急いだ。

 夕は未だに佐藤が魔女であるという線を捨ててはいなかった。むしろ、それは今日の鎌田への取材でより疑念が強まったと言える。

 今日の取材に夕を連れて行った理由が曖昧である、というのが理由の一つだった。

 佐藤は「人手が足りない」と言っていたが、実際のところ夕がやったのは鎌田の写真を撮ったことくらいでしかない。それならば一人でもできるはずだ。

 佐藤はそんな非生産的なことをするような人ではない。きっと何かしらの意図があって連れて行ったのだ。

 それを踏まえた上での夕の予想は、佐藤が帰りにしていた話を聞かせるためではないか、というものであった。

 彼女があの診療所に通っていたという話を。

 ――『鎌田さんは本当にいいお医者さんでね。ちょっとした相談事でも平気で受けてくれるんだ。私も過去にお世話になったことがあるんだよ』。

 ――『一口で言うのなら……もう耐えれなかったから、かな』。

 そして、初めて新聞部を訪ねたときに聞こえた佐藤の独り言。

 彼女は、解離性かいりせい同一性どういつせい障害しょうがいなのではないだろうか。

 今の佐藤である主人格と、もう一つ。

 それが魔女としての人格。

 そこで、夕は鼻の先でせせら笑った。

 なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。普通であればそんなことを考える人間はいない。それこそ「心療内科にかかってみては?」と言われるに違いない。

 だが、幸いというべきか、夕はいたって正常な精神と思考を持ち合わせている。新聞部とは、あらゆる可能性を模索もさくするべきなのだ。どんなわずかな可能性でも、真相を暴くためには必要な過程だ。

 だが、同時に夕は思った。

 もし佐藤が魔女であるという確証が得られて、それを新聞に載せたら、彼女はこの学校からいなくなるだろう。そうなると、新聞部の活動は夕一人で行うことになる。

 —―『私がいなくなったあとも児玉くんが引き継げるように、ね』。

 これは果たして、本当に正しい行動なのだろうか。自分が選んだ道は奈落に続いてやしないだろうか。

 夕は屋上に続く扉の前に立ち、ポケットから鍵を取り出した。

 今日は雨音もしない。雨の匂いもしない。風が電線をただただ強く吹きつけ、びゅうびゅうと地鳴りのような音を鳴らしている。

 夕は階段を上り切り、銀色の扉を開いた。


 緑のチェックのスカート、ワイシャツの上にオフホワイトのベスト。その上に濃紺のブレザーを着て、首元にはスカートよりも少し明るい緑のリボンが結ばれている。

 風にその黒くたおやかな長髪が波打っており、手には火のともった銅色のフェアーハンドランタンが握られている。

 どこかでカラスが鳴いている。強風にあおられた電線と給水塔近くに高く背を伸ばす避雷針が、びゅうびゅうと低い地響きのような音を鳴らしている。車が道路を走る音が聞こえる。グラウンドで生徒が元気よく声を上げている。

 だが、それら全て、白昼夢のようにぼやけて曖昧になっていった。

 何も聞こえないほどに、夕はただ目の前の光景にのみ意識を集中させていた。

 彼女はこちらを見つめていた。どんな感情も感じさせない、無機質な瞳だった。

 肌は病的なまでに白く、まるで彼女だけ色が消えてしまっているかのような、そんな様相だった。

 彼女の背後にある空は、既にオレンジと紺を混ぜたような色合いになっていた。

 夕闇がゆっくりとこの町に忍び寄っている。そう実感した。

「ようやく、会いに来た」

 彼女はそう言って笑みを浮かべた。

 そして。

 やはり、とでも言うべきか。

 夕は過去に彼女に会ったことがあるような、そんな予感を覚えていた。

「あなたは」夕は一瞬、訊くのをためらった。「あなたが、魔女ですか?」

「そうだね……私が本当に魔女だったら、どうする?」

 彼女はからかうように言う。

 どうにか取材しなくてはと考えた夕は、ポケットからおもむろに携帯を取り出した。

「僕は今、魔女に関する新聞を書いてるんです。書かなくちゃいけないんです」

「そうか。まあ、取材くらいなら受けるよ」

 それは確かに嬉しい返事のはずだった。しかし、夕はどうも心の底から喜べなかった。口を開いたまま、緊張した面持ちを浮かべている。

「ただし。写真は禁止だ。朝撒高校の魔女は噂の中に生きる存在。実証があるべきではない。それに、ただ取材を受けるだけじゃ私に何の利益もない」彼女は演技がかったような動作で肩をすくめた。「交渉は公平であるべき。そうだね?」

「……何でも言ってください」

「何でも? それなら……だ。児玉夕」

 どうして名前を知っているのかという疑問が今にも口から飛び出そうだったが、彼女の雰囲気に気圧され何も言えなかった。

 彼女はこちらへゆっくりと歩み寄り、ランタンを夕に近づける。ランタンの中の火は揺らめきながら彼の顔を照らす。


「君には、私と友達になってほしい」

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