第7話
「おや、児玉くん」
ふいに背後から声を掛けられた。
「あ、西川先生」
「さっそく魔女の隠れ家に突入ですか?」
西川は眼鏡のブリッジ部分を中指で押し上げながら訊ねる。
「やっぱり魔女は屋上にいるんですね」
「というより、消去法なのでしょう」
「消去法?」
「魔女はこの朝撒高校の中でしか目撃されていません。つまり、馬鹿みたいな話ですが……魔女はこの高校に住みついている、と。少なくとも生徒の間ではそう噂されているんです。ですが、そんな隠れ場所は存在しないんですよ」西川は夕の背後にある扉に視線を向けた。「鍵がかかっているこの屋上を除けば。ここは教師ですら入ることはありませんからね」
「なるほど。僕のような生徒は尚更、ということですね」
「そうですね」そう言って、西川はおもむろにスーツのポケットから鍵を取り出した。「生徒であれば、の話ですが」
「え」
夕は西川の行動に喜んだが、同時に困惑もした。正直に言えば、彼の見た目や言動からして
それと同時に、あの佐藤だけしかいない新聞部の顧問をやっているような教師なのだから、少しくらい頭のネジが外れていても変ではないと納得もした。
「何か変なことでも?」
「いや……その、軽々と生徒を屋上に連れて行ってもいいのかな、と」
「どこにも問題はありません。スマホは今持ってますか?」
「え? あ、はい」
夕はズボンのポケットからスマホを取り出した。
「少し質は落ちますが、それで撮影と録音を行ってください。これは取材です。屋上の鍵を拝借したのも、あくまで新聞部顧問として取材の仲介をするためですからね」
「なるほど。『取材のため』っていう理由であれば屋上に入る許可も取れるんですね」
そこで西川は押し黙った。夕はその態度に一抹の不安を覚える。
何も言わないということは、そういうことだろうか。
「西川先生って、女性と付き合ったら『思ってた性格と違う』って言われて振られたりしません?」
「女性と付き合ったことがありません」
「……すみません」
「大丈夫です。では、これを」
夕が屋上の鍵を受け取ると、西川は小さく微笑んだ。
「佐藤さん、児玉くんが来てから少し楽しそうに活動をするようになりました。どうやら先輩と呼ばれたり児玉くんが分からないことを訊かれるのが楽しいそうで。取材、頑張ってくださいね」
夕も微笑みながら頷き、視線を屋上に続く扉へ向けた。
白く無骨な扉。落書きは消され、既にそれは日常に溶け込んでいる。
この奥に、日常の対義語のような存在――魔女がいるかもしれない。
「よし」
夕は自身を勇気づけるかのようにそう呟き、鍵を開けた。ガチャリ、と音が鳴る。
少し軋んだ音を立てて扉が開くと、雨特有の匂いがわずかに鼻の奥を突いた。目の前には階段があり、それを上った先に扉がもう一枚ある。
階段を一段一段、ゆっくりと噛み締めるように上って行く間、夕の頭にはとある考えが過ぎっていた。
それは、魔女の正体について。
あくまでも直感程度だ。何か証拠や根拠があるわけではない。それでも、怪しい人間はどうしても疑ってしまう。
まず、鍵のかかっている屋上に入れることから、少なくとも魔女は学校の関係者であることは間違いない。
それと、菅原先生が向けたあの視線。
それを踏まえたうえで、もし夕の予想が正しければ、いま屋上に魔女はいない。
深呼吸してから、夕は扉のドアノブに触れた。いやに冷たく感じる。
この屋上の先は、一体どこへ繋がっているのだろうか。
夕は思い切って屋上の扉を開けた。
雨が激しく降っている。
雨音が聴覚を遮断する。
雨の匂いが嗅覚を遮断する。
そして。
残された夕の視覚が捉えたものは。
――雨と鈍色の空だけだった。
誰もいない。
人影がどこにも見当たらない。ただ霧のように激しい雨が降っているだけ。
これでまた一歩、夕の考えが確信に近づいた。
「……佐藤先輩」
夕の呟きは雨音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
4
あれから一週間ほど経過した。あれ以降屋上に行く機会は得られず、単純に学校生活が忙しくなってきたというのもあって、夕の魔女探しは難航していた。
佐藤は相変わらず作業室に入り浸って原稿を書いたり、新聞のレイアウトや見出しの内容について考えこんだりしているそうだ。
ようやく慣れてきて少し学校での生活にも落ち着きが出てきた頃、夕は久々に新聞部の作業室に行くことにした。これといって取材の予定もないが、部活である以上は行くべきだろう。
「あ、児玉くん。丁度いいところに」
キャノンの一眼レフを手に持った佐藤が手招きをしている。
「ごめんね。本当は一人で行くつもりだったんだけど、人手が必要になっちゃってね。もし暇だったらでいいんだけど、私と一緒に取材に来てくれない?」
「え」夕は佐藤のペストマスクを
さすがに取材をするときはペストマスクを外すだろうと推測した夕は、単純にどんな顔をしているのか気になるという個人的な興味もあったために快諾した。
「じゃあ、もう行こうか。歩いてすぐの場所だし」
「分かりました。あ、カメラは僕が持ちますよ」
「ありがとう。やっぱり児玉くんは優しいね」
一週間前のこともあってかどうも落ち着かない夕は佐藤のカメラを代わりに持ち、どこか緊張したような面持ちで作業室を後にした。
「魔女の調査は進んでるかな?」
佐藤がローファーに履き替えながら訊ねる。彼女の言葉に夕は一瞬どきりとした。
「いや……正直、微妙ですね」
「そっか。……私、少し思うんだ」
夕と佐藤は生徒用玄関を出た。白い太陽といやみなほどに奇麗な青空が二人を見下ろしている。ヒヨドリの軽快な鳴き声がいやに耳につく。
「何がですか?」
「魔女なんて本当にいるのかな、なんて」
佐藤は少し呆れたような口調で笑いながら言った。
「それは」
夕はそこで返事が詰まった。当然といえば当然だが、佐藤の言葉を否定しきれなかった。
屋上に向かいながら考えていたあの可能性も、あくまで憶測に過ぎない。第一、佐藤が魔女であったとしても、過去の新聞に書かれていた魔女が神出鬼没であるという話に説明がつかない。
「魔女って、どんなに多くの目撃情報があっても客観的な証拠がない限りは七不思議と同じだよね。話には出てくるけど、誰も見たことがない。でも存在は確かに信じられてる。児玉くんみたいに、魔女の存在を信じて会いたがってる人も大勢いる」
校門を抜け、佐藤が先導して近くの雑木林の方へ向かって歩いていく。遠目から見た限りでは、人が住んでいるとは到底思えない場所だ。
「噂っていうのはね、集団内の誰かが自分の地位を高めるために意図的に操作する情報であることが多いの」
佐藤は話を続ける。夕は未だに彼女が言いたいことが上手く掴めず、ただ曖昧に頷いていた。
雑木林の中は、街灯はあるものの時間帯がまだ昼なので点いておらず、不気味なほどに暗かった。
「噂の真偽よりも、その噂を知っているということ自体がステータスの一つになり得る。噂があれば話の種にもなる」
二人が獣道のような細い道を歩き雑木林の奥へと進んでいくと、ふいに夕の視界の端に一つの白い四角形の建物が入り込んできた。
「目撃情報だって操作された偽物の情報の可能性が高いんだ。私たちは新聞部なのだから、その辺りのリテラシーが試されるね。だから――あ、着いたね。ここが今回の取材先」
それは灰色のコンクリートで構成されたほぼ四角形の建物だった。小さな窓が何個もあり、そこから淡い光が漏れている。
その建物の前に、「かまた心療内科醫院」と彫られた直方体の大理石が鎮座していた。
「ちょっと待っててね。今からカマタ先生に来たよって伝えてくるから」
「え、あ」
「ん? 何かある?」
「あ、いや……何でもないです」
ペストマスクは取らないのかと訊いてみたかったが、佐藤はその点についてかなり神経質であるために夕は口を固く閉じ、診療所内へ入って行く彼女の背中を見つめていた。
「入っていいって」
数分してから入り口に姿を現した佐藤はそう言いながらこちらに手招きをしていた。夕はそれに誘われるように病院内へ入って行く。
応接間のような場所に通された夕と佐藤は、しばらくダークブラウン色のソファに座っていた。ここまでくる間、佐藤を見て驚くようなそぶりを見せる看護師は誰もいなかった。
そのペストマスクは夕にしか見えていないような、そんな錯覚さえ起こさせた。
「ああ、どうも」
しばらくして、愛想の良さそうな白衣姿の老人が部屋に入ってきた。六十歳は過ぎていそうな見た目で、首からぶら下げている名札には「
鎌田が入ってきたのとほぼ同時に佐藤も立ち上がったのを見て、夕も一緒に立ち上がり頭を下げた。
「ご
「ご無沙汰なのはいいことだよ。ここは病院なんだから」
鎌田はしゃがれた声でそう言って笑う。どうやら二人は初対面というわけではなさそうだ。
「先日もお電話させていただいた通り、今日は取材に参りました」
「はいはい、いいよ。きちんと話すことも決めてきたから。忘れてるかもだけどね」
なんとも
「児玉くん。この方が今回取材する鎌田先生だよ。ここの院長さん」
「初めまして。児玉夕です。新聞部に新しく入った一年生です」
一瞬、鎌田の表情が硬くなった。笑顔で夕のことを見ているものの、頭の中では何か別のことに思考を巡らしているような、そんな違和感のある表情だった。
「児玉くん……いや、よろしくね」
「僕たち会ったことがありますか?」
「いや、そうじゃなくて。新聞部はずっと部員が少なかったから、新入生が入ったことに驚いたというか、こう、少し嬉しくなっただけだよ。場所が近いっていうのもあってうちと新聞部はかなり関わりが深かったからね」
「さて、鎌田先生もお忙しいと思うので、手早く取材を済ませようと思います」
佐藤は鎌田に座ることを促すように向かいの椅子へ手を差し出し、それからソファに座りメモ帳を開いた。
「取材なんて久しぶりだから年甲斐もなく緊張しちゃうなあ」
鎌田はその言葉とは裏腹に楽しそうな声色で言う。
「大丈夫ですよ。すぐ終わりますから。では、今回の取材の目的について、まず改めて明示しておきます。私が担当する新聞の二面は普段、社会現象にまつわるトピックを取り上げています。そして、今回の二面では」佐藤は少し深く息をして、再び口を開いた。「魔女という非科学的な噂に生徒が心酔してしまう理由について書きます」
「え」
夕は思わずといった様子で声を漏らし、佐藤の方を見た。
「児玉くんは初耳だよね。今回の二面はね」佐藤はシャーペンの先を夕に向ける。「児玉くんの記事のアンチテーゼだよ」
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