第15話
佐藤は震える唇で、ゆっくりと独白を始める。
「ずっと黒いカラスが羨ましかった。誰もが同じ見た目で、ただ生きるために生きていて。私は赤色を塗られたカラスだったから、攻撃されて、
佐藤はそこで言葉を切り、一度大きく深呼吸をした。声も震えてきており、その目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「あの、無理に話さなくても——」
「いいの。これは私が話したいだけだから。私も、いつかはこんな仮面を取って歩くべきだと分かってるから。……それで、恥ずかしい話だけど、留年もしちゃってね。本当は、私は児玉くんの先輩じゃないんだ。——児玉くんのクラスにずっと休んでる生徒が一人、いるよね?」
夕は頷いた。この後に彼女が言うことを何となく理解していた。
そして、新たな疑問を抱いた。
どうして佐藤という偽名を使っていたのか、と。
「私の本当の名前は、
池木はそう言い切り、すぐに顔を上からペストマスクで覆った。
「これで分かってくれたかな?」
いつものくぐもった声が聞こえる。
「……どうして佐藤という偽名を?」
夕は最初に抱いた素朴な疑問をそのまま口にした。魔女がSだと名乗っている事実とこの偽名が裏目に出て、彼は尚更に池木のことを疑ってしまっていた。
「佐藤っていうのは日本で一番多い名字だから」
池木はただそれだけ言った。それでも、夕は何となく理解していた。彼女は本当にカラスのように群衆に紛れ込むことを目指していたのだ。
「じゃあ、ペストマスクを火傷痕を隠すための覆面に選んだのも……カラスに似ているから、ですか」
「うん。結果的に余計に目立つことにはなったけどね。……これじゃないと落ち着かないの。鎌田先生にも『しばらくはそれつけて生活していいよ』って言われたし」
この辺りは臨床心理学に通ずるものがありそうだ。強迫観念とか、きっとそういった類のものだろう。
夕はまるで取材のように続けて質問をした。
「最初に新聞部の作業室に行って佐……池木さんと会った時に、独り言を話していたじゃないですか。あれはいったい?」
それこそが佐藤が二重人格なのではないか、などと薄い線を考える理由になっていた出来事だった。あの時の池木の冷淡な口調は今でも覚えている。
「……ああ、そんなこともあったね」池木は夕とは反対に、すっかり忘れていた様子だった。「新聞部にはいくつか約束事があったの、覚えているかな?」
夕はその質問を受けて、自分の記憶の中をまさぐった。あの時は緊張していたこともあっていくつか記憶が抜け落ちているが、その中に、念を押して伝えられた約束事があったのを思い出した。
一つは、朝撒高校の生徒のニーズに即した記事を作ること。これは池木が最も重要だと言い切っていたのではっきりと覚えている。
「あ」
それを思い出した時、夕は「なんだ。そんな簡単なことか」と、自分の神経質具合に思わず呆れた。今まで池木を疑っていたのが本当に馬鹿らしく思えた。
——『鉄則として、記事の内容について外部に漏らすことは禁じられてます』。
「もしかして、ただの取材を申し込む電話、ですか?」
「その通り。あの時の児玉くんはまだ仮入部の段階だったから、下手に何か言うことができなくてね。それで、ああやって言ったんだよ」
夕の喉から乾いた笑いが漏れ出た。
「新聞部の約束って、結構厳しいんですね」
「ホームページにも
「……え、でも今年度もまだ一回も教室に来てないですよね」
「今は保健室登校という形を取ってるからね」
「ああ……通りで」
つい最近まで池木の目撃情報が全くなかったのも、放課後にしか見つからないのも、全て納得がいった。
「西川先生が池木さんのことを佐藤と呼んでいたのは?」
「それは私も詳しく知らないけど、鎌田先生からの指示だと思うよ。最大限に配慮してくれてたんだと思う」
「じゃあ、西川先生は全て知ってたんですね」
「うん。あの人、まだ三十一歳だけど、凄い生徒想いの先生だから。児玉くんに全てを話さなかったのも、彼なりの配慮だよ」
屋上の鍵をわざわざ盗んでくれたのも、魔女についての持論を教えてくれたのも、全てただの優しさからくる行動だった。全て勘違いしていただけだった。途端に自分の行動や言動の全てが恥ずかしくてたまらなくなった。西川に合わせる顔がない。
そして、疑問がふつと頭に浮かんだ。
では、Sはいったい何者なのか?
他にSから始まる名前を持つ人物は、夕の知っている限りでは菅原だけだった。だが、Sの顔を知っている以上それはあり得ない。この場合、少なくとも身近な人物ではないと考えるべきだろう。
だとしたら本当に妖怪か、あるいは幽霊の類なのかもしれない。何にせよ、もう一度彼女に会う必要があるだろう。あのテン・コードと
むしろSが佐藤ではないと分かった時点で、ほとんどが振出しに戻ったと言ってもいい。
ふと、外から応接室の扉がノックされた。扉を開けると、そこには鎌田が申し訳なさそうに眉尻を下げて立っていた。
「談笑中、すまないね。来客があったんだ」
「来客ですか」
鎌田は夕の方に視線をやった。
「君のお父さんだよ。どうやら朝撒高校に児玉くんを迎えに来ていたらしく、かまた心療内科醫院に行ったということを西川先生に聞いて来たんだって。優しいお父さんだね」
廊下の、夕からは死角になっている場所に諒路は立っていた。彼は笑顔のような、少し怯えているような、そんな妙な面持ちをしていた。
「夕。帰るぞ」
「あ……うん。すみません。鎌田先生、池木さん。とりあえず帰らせてもらいます。今日は本当にありがとうございました。そして……すみませんでした」
夕は頭を下げた。心の底からの謝罪だった。全て自分の考えが正しいと信じ込んでしまったが故の独善的な行動だった。
「大丈夫。児玉くんに悪意がないことくらい、誰でも分かってるよ」
表情は見えない。それでも、池木がペストマスクの下で笑っているように見えて、夕は目頭が熱くなるのを感じた。
「……すみません」
夕は顔を
薄暗い雑木林の中で、夕と諒路は一言も話さずに歩き続けた。
遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。児玉家よりカラスの方がよっぽどお喋りだ。
そんなことを考えていると。
「夕」
ふいに諒路から声をかけられた。
「何?」
「今日、どうして鎌田さんの所にいたんだ?」
「ああ、取材があって」
諒路が『鎌田さん』と呼んでいるのを聞いて、ふと、鎌田の言葉を思い出した——『子供ができたという報告は聞いていた』。そんな報告をするくらいには諒路と鎌田は親密な関係だったのだろう。
「そうか。そういえば、新聞部に入ったんだったな」
「うん」
「どんな記事を書いてるんだ?」
「あ、えっとね」
その時、自分でも分からないが、思わず魔女について話すのをためらってしまった。あの晩の『朝撒新聞』を読んでいる諒路の姿がフラッシュバックしていた。
「……学校の、ことについてかな」
自分でも驚くほどに下手なごまかし方をして、それから諒路の顔色をうかがった。
彼の表情は相変わらずの仏頂面で、昔に比べ
ふと、彼のもみあげに白髪も混じっているのを見て、それがなんだかいやに物悲しく見えた。
「そうか」
諒路は相変わらずの不愛想な返事をして、その後は無言で歩き続けた。
朝撒高校の駐車場に止めてある黒のハリアーに乗り込み、そこでふと、どうして高校まで迎えに来たのか気になった。
「ねえ、お父さん。どうして迎えに来たの? 講義は?」
諒路は何も返答しなかった。今まで反応は薄いものの何かしら返答はしてくれていたのだが。
窓の外、いくつもの街路樹が通り過ぎていく。景色がどんどんと後ろに進んでいく。そして次第に視界は晴れ、広々とした田園といくつもの鉄塔が建っているのが見えた。その背後にある雲が金色に染まりつつある。
——いつもと、風景が違う。家に向かっていない。
「お父さん?」
諒路は無言だった。脇腹を冷たい汗が伝う。
「ねえ、お父さん!」
夕が少し声を張り上げたところで、諒路は小さく咳払いし、
「海を見に行きたい」
とだけ呟いた。
「……海?」
「ああ」
「いや、いいけど……なんで急に?」
「なんとなく」
車はどんどん朝撒町の西方へと進んでいく。次第に四角形のみで構成されたようなモダンスタイルの家は少なくなり、ずっと前から建てられていたかのような日本家屋がそこらに点々と見え始めた。等間隔で並ぶ電柱が田舎特有の物寂しさを強調している。
しばらくして、諒路は海沿いの駐車場に車を停めた。後部座席のドアを開くと、海特有の磯の匂いが鼻の奥を刺激した。あまり海には来たことがないが、それでもなんだか懐かしい心地がした。
苔の生えた石段を下りて、誰もいない砂浜を歩く。砂を踏むざらざらとした感触が靴越しでも伝わってくる。
さざ波が静かに騒めている。水平線には雲間からいくつもの光が柱のように射し、パルテノン神殿のような神聖さを感じさせる景色を作り上げている。そんな景色を、夕も諒路も、隣に並んだまま見つめていた。会話をするのは無粋な気がした。
「覚えてるか? 夕。あれは……もう九年前になるのか」おもむろに、諒路は夕の方を見ずに口を開いた。「お父さんと夕の二人だけでここに来たことが、一度だけあったんだ。ちょうど花織が……お母さんが死んだその翌年だった」
その時だった。
夕の頭の中に、突如として映像が映し出された。ラジオの混信のように、それは古い記憶独特の暗い雰囲気やノイズを備えてイメージ上に立ち現れた。
わずかながらに思い出したのだ。自分は確かにここへ来たことがある。当時の正確な景色や会話の内容は思い出せないが、それでも昔にここへ来たという感覚だけがあった。
あの時。
暗い場所で、誰かと会ったような気がする。あれは夜の出来事だったのだろうか。
いや、海岸沿いじゃない。確かに磯の匂いはあったが、また違う、もっと閉鎖的な空間だったような気がする。
記憶の中のその人はぼやけた輪郭を持っていて、暗がりの中で笑みを湛えている。奇麗なのに
そこで何をしたのか。その人とどんな会話をしたのか。それは全く分からない。
しかし、あの時の自分は確かに——そう。何かに怯えていた。それだけは覚えている。暗闇に怯えていたのか、それともその出会った誰かに怯えていたのかは分からない。
その顔に、確かに夕は見覚えがあった。一度だけではない。二度か、あるいは三度。少なくともそれくらいは会っている。
最も近しい雰囲気は誰か。夕は諒路の言葉にまるで返答せず、必死になって記憶の中の人物のことだけを考えていた。
そして。
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