第16話
「——魔女」
夕はおもむろに呟いた。自分がそう呟いたことに、彼自身すら驚いていた。ほとんど反射的に出た言葉だった。
ただの記憶違いかもしれない。でも、あの時出会ったその人は、恐らく魔女だ。他のパーツは分からないが、それでもあの愁いを帯びた瞳は、確かに魔女の持っているものとそっくりだ。
夕は諒路の方を見て「しまった」と思った。それすらも声に出してしまいそうだった。
諒路は
町に『夕焼け小焼け』のチャイムが流れ始める。先ほどの雲間から柱のように射す日の光は消え失せ、ただ今にも水平線の下へ沈み切ってしまいそうな赤い夕日だけが不気味に浮かんでいた。頭上に広がる空は、東から西にかけて紺と茜色のグラデーションを形成していた。
東側から、この町に夕闇が忍び寄ってきている。
「夕」
「あ、いや違くて……その——」
「辞めなさい」
「え?」
「新聞部を、辞めなさい」
諒路は先ほどまでの仏頂面とも違う、いたって真剣な表情を浮かべていた。その黒い瞳はじっと夕の困惑する顔を正面から捉えていた。
「いや、でも――」
「『でも』じゃない。西川先生から聞いたんだ。朝撒高校の魔女について調べているんだってな。……魔女の噂は、俺が朝撒高校に通っていた時から流れていた。危ないから、もう辞めてくれ」
『辞めてくれ』という言葉に、諒路の本心の全てが詰まっているような気がした。
夕はどうするべきか分からなくなってしまった。本音を言えば魔女について新聞部という立場を利用して調べたい。それは朝撒高校に入る前からの彼の
だが、ここで本音を言えば衝突しかねない。諒路は本気だ。そういう目をしている。今まで一緒に過ごしてきた——とはいえあまり親子の絆はなかったが——何か強い覚悟を感じるのだ。
「……分かった。辞めるよ」
夕がそう言った時、諒路の顔が幾分かほころんだ。
「そうか。良かった」
諒路に訊きたいことは山ほどあった。魔女について調べることを危ないと言い切るということは、何かしらの事情を知っているということだ。加えて、諒路が学生の頃から魔女の噂が流れていた、という点も気になる。今の諒路は四十三歳なので、少なくとも二十七年以上前には既に朝撒高校で魔女の噂が流れていたということになる。当時の魔女の噂と現在の魔女の噂の差異についても訊いてみたいところではあった。
結局、夕と諒路はその口約束を交わして、暗くなりつつある海を少し見てから帰路に就いた。街灯はほとんどなく車のヘッドライトだけを頼りに暗闇を進んでいたので、また無言でどこか別の場所に行ってしまうのではないか、という一抹の不安が頭をよぎった。
夕の悪い予感は見事に外れ、無事に家に着いた。その後、二人は先ほどの出来事などまるでなかったかのようにいつもの淡白な日常を過ごした。
自室にて、夕は自分のパソコンとメモ帳とを交互に見ながら考え込んでいた。ふと卓上カレンダーを見て、今日がまだ四月の二十三日であることに心底驚いた。あまりにも日常的に色々なことが起こり過ぎていたので、入学してまだ三週間しか経っていないという実感が湧かなかった。
一度、あらゆる情報を分かりやすく時系列順に整理する必要がある。
諒路の話から推測するに、魔女の噂が出現したのは少なくとも二十七年以上前。この時点で魔女は生きていたということになる。そして今から九年前、もし本当にこの記憶が正しいのだとしたら、自分は確かにあの海岸で魔女に出会っている。出会ったという、ただそれだけの記憶だが、メモに留めておく必要はある。
そして七年前。朝撒高校の新聞部が魔女の噂について大々的にまとめ、記事を作成した。この時は魔女への取材こそ叶わなかったが、彼女の特性、特徴、行動など多くの情報をもたらしてくれている。今の夕の取材の根底にもなっている重要な素材だ。
そしてつい三週間ほど前、夕は朝撒高校へ入学。紆余曲折があって新聞部に入部し、西川と佐藤と出会う。そして魔女が住みついているであろう屋上の扉に不審者報告、あるいは通報を意味するテン・コードの落書きが発見された。その際には担任の菅原にも取材をし、過去にも待機を意味するテン・コードの落書きがあったことを知る。きっとこの先もテン・コードを見る可能性があると考えた夕は、念のために他のテン・コードについてもメモをした。
また、諒路の今までと違う行動や言動もこの時から散見され始めた。最初は真夜中にもかかわらずダイニングで魔女について書いてある『朝撒新聞』を読む姿を目撃したところから始まる。この頃から違和感を覚えていた。
それから約一週間が経ち、西川の協力もあって夕はついに朝撒高校の魔女——Sと屋上にて接触。Sの見た目における特徴は二〇一一年の『朝撒新聞』の記事の内容と一致していた。また、この頃からSは佐藤であるという疑念がより一層強まっていった。
その後、クラスメイトの湯浅と接触し、魔女の噂を通じて友人関係となって魔女の記事作成の協力をするという約束を取り付ける。その後のSへの取材においても南校舎の屋上からSの撮影を依頼した。南校舎の屋上の鍵は西川先生に頼んでおいた(「児玉くんも、随分と無茶な注文をしてくれますね」と西川に言われたのはこれが理由だった)。
Sへの取材ではランタンのオイルや芯の補充方法、彼女が生物ではなく、不老であることなどが分かった。いずれも正確な物証があるわけではないが、かといって頭ごなしに否定していては
そして五日後——すなわち今日。Sが大勢の生徒や教師の目に触れることとなった。彼女は前会った時と同じように北校舎の屋上に出現し、突如としてその姿を消した。菅原はSが屋上から落下したという証言を残しており、恐らく魔女は不老不死だろうという推測をした。また、それを踏まえて、二〇一一年の記事にあった屋上からの消失の真相は、単に屋上から落下したためにあたかも姿をくらませたかのように見えた、という仮説が立てられた。
その後、夕は佐藤がSであるという事実を確かめるべきだという考えに囚われ、かまた心療内科醫院で訊ね、その結果、佐藤は池木末明という本名を持ち、魔女ではないことが判明した。これにより西川への疑念も晴れることとなった。
ここまでのおおよその流れを歴史の資料集にある年表のように書き記してみると、かなり様々なことが起きたのだなと実感した。たった三週間で多くのことを知ることができた。朝撒高校が特別に変わっていることも否めないが、新聞部という部活動の凄さを改めて感じた。
これらを踏まえて記事の構成を考える必要がある。
まず最初に書くべきは魔女が確かに存在していた、という事実だろう。これは湯浅の撮ってくれた写真もつけて説得力を持たせる予定だ。問題は、Sが不老不死であるという点だ。これはいくら文字で説得させようともなかなかに難しい。今日、屋上に現れたSが落下する瞬間を生徒が目撃したかどうかで決まるだろう。もし多くの生徒が目撃していたのであれば、魔女が不老不死であるという言説は比較的受け入れやすいものとなる。
とはいえ、あまりにも非科学的な話であることは確かだ。こちらとしては真実をすべて伝えているつもりではあるのだが、読者側がそれをあくまでエンタメとして受け入れる可能性は十分にある。最悪の場合、新聞部の権威というもの自体が
そのためには、よりリアリティを記事に持たせる必要がある。そのために必要なのは、Sの目的だ。なぜ朝撒高校にいるのか。この最大の謎が明かされなければ決してリアリティを持つ新聞とは言えない。
加えて——これは個人的な謎だが——なぜ自分は過去にSと出会ったことがあるという記憶があるのかも気になる。もし本当に過去に会っていれば、Sの不自然な言動も幾分かは納得のいくものになる。例えば屋上で会った時、彼女は『ようやく、会いに来た』と言っていた。また、二回目に会った時も『人は変わるものだね』という発言があった。
過去の自分はSと出会い、何を話したのか。別に記事作成の際には解決する必要もない謎だと割り切りたいところだが、それは思考の中に自然と侵入してくるのだ。無視しようとしてもみぞおちの辺りが妙にもやもやとして落ち着かなくなり、ついつい気になってしまう。
夕は椅子の背もたれに寄りかかって大きく背伸びをした後、カーテンの隙間から覗く夜空を少し見上げて、それからベッドに向かった。
その日はよほど疲れていたようで、夕は一瞬で深い眠りに落ちていった。
目が覚めたのは、カーテンの隙間から新鮮な朝の光が差し込む時間帯だった。久しぶりの熟睡という言葉が最も似合う眠りだったことに満足した夕は、ベッドからいつもより少し機敏に起き上がり一階へ降りた。
諒路は起きていないのか、はたまたとっくに家を出たのか分からないが、その姿は既に家の中にはなかった。夕は昨日のこともあって気まずい思いを抱いていたので、むしろ好都合かもしれないと父の不在に安堵した。
胸に重いもやが乗っているような心地がして妙な不安に駆られつつも、いつものように準備して家を出た。
早朝の教室は、いつもであれば真面目に勉強する生徒が二、三人ほどいるだけで、夕にとって心地の良い静かな空間であった。しかし、今日は違う。いつもよりも人数が多いし、何より騒がしい。
夕は教室の扉の前で少し迷い、それから
どこへ行こうかと悩みながら廊下を歩いていた時、ふと、図書室にでも行こうと思い立った。あそこであれば静かだろう。
朝撒高校の図書室はかなり広い。図書室というよりは、書庫とでも言うべきではないかと思えるほどに様々な本が置いてある。新入生に向けたガイダンスのような集会があった時、ここの図書室は一般の人向けにも開放しているという話を聞いたような気がする。おそらく、高校の図書室兼朝撒町の図書館なのだろう。
入ると、図書室独特の、本の香りとでも形容すべき匂いが漂っていた。自習用の机に数人の生徒がいるものの、「図書室ではお静かに」という決まり文句の
カウンターには中年の男が一人だけ座り、腕を組んで居眠りをしているようだった。首からぶら下がっている名札を見る限り、朝撒高校の司書のようだ。
夕はカウンターの前を通り過ぎ、適当に興味が湧きそうな本を数冊ほど見
そこには笑顔を
「教室のどこにもいーひん思たら、こないな所におったんかいな。教室、凄いことになってるで」
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