第24話 どこまでもマイペースな人だ

 「どうしてここに」だなんて、なんて間抜けで失礼なことを言ってしまったのだろう。救急隊員によって担架に乗せられる田辺先輩の姿を見送りながら、私はそんなことを考えていた。刺されたのは私なんかじゃなかった。目の前に倒れていた、田辺先輩だったのだ。

 サイン会に乱入した例の男は、私に果物包丁を刺そうとした。しかし、直前に田辺先輩が私のことをかばった。この間会ったときも、その後も、田辺先輩には今日のサイン会の話をしたことは無かったのだから、彼はきっとわざわざ私の仕事について調べていたのだろう。

 私のことをかばって、田辺先輩は刺された。――なんだかあのときみたいだ。まだ小説家になる前、田辺先輩が私のことを暴走車から守って亡くなった世界線。そうだ、そのときも彼は私のことを身を挺して守ってくれたのだった。

 どの田辺先輩が本物なのだろう。私はふと、そんなことを考えた。私の記憶の中の田辺先輩は、お調子者なところもあれど、優しくて頼れる先輩だった。田辺先輩と結婚した世界線では、彼は私の命の恩人で、小説家になった世界線では、彼はモラハラ元婚約者で、取材対象で、やはり、私のことを守ろうとして――

 彼は私のことを「誰なんだ」と言ったけれど、同じセリフをそっくりそのまま返したい。






 田辺先輩が刺された件について、警察署にて事情徴収を受けた後、大輝が迎えに来てくれた。外に出ると、私たちは報道陣に囲まれた。


「中村先生! 刃物を持った男は、中村先生のお知り合いですか?」

「中村先生をかばった人は誰ですか?」

「先日SNSに挙がっていた写真との関係は?」

「先生をかばった男性は、先生の恋人でいらっしゃいますか?」


 大輝は私に目配せをする。――「答えなくていいです」、と口パクをした。答えない方が良いのか? それとも、答えたくなければ答えなくていい、という意味なのか。私には判断がつかなかったから黙っていた。


「今回の事件、先生の態度に問題があったんじゃないですか?」

「何とか言ったらどうなんですか? 無責任だとは思いませんか? 人が刺されているんですよ? 命を落としてもおかしくなかったんですよ!」


 無責任? そうかな。ああ、でもそうだわ。そもそも私、この人生にそんなに責任持ったつもりないもん。そりゃそうだ、だって、出身中学も、結婚相手も、それに職業だって違うんだよ? いくらあり得た選択肢だからって、さすがにもう、これは他人じゃん――私はつい、笑みをこぼした。翌朝のニュース番組には、『お騒がせ作家、トラブルについてだんまり』という見出しと共にその瞬間の写真が使われることになるだなんて、これっぽっちも思わなかったが。それは意外にも悪女の笑みそのもので、写真写りとしては最高だった。気に入った。

 その日は大輝があらかじめ予約してくれていたホテルに泊まり、夜を明かした。しばらくは実家にも、大輝の家にも帰ることのできない日々を過ごすことになりそうだ。







 あの日、刃物男の乱入の件で、会場はサイン会どころではなくなった。抽選で選ばれた人たちがせっかくワクワクしながら待っていたはずなのに、と思うと申し訳ないが、大輝曰く別日での開催を行う予定はないとのこと。代わりに今度出る新作の裏表紙に、私のサインを入れたものをサイン会当選者に配布する、という運びになったらしい。

 だから私は、書き続けなければならない。元々憧れていた、そして事ある度に私を守ってくれる、勇気のある田辺先輩――彼をモデルに悪者を描き成敗する、読者を勇気づける小説を。ホテルの一室で、私は大輝に持ってきてもらったノートパソコンを使ってひたすらに書き続けた。大輝は適度に休めと言ってきたけれど、ひとりで過ごすにはやや広すぎるこの一室で、書くこと以外に何をすれば良いのか。それに、書いていれば現実のことは考えなくて済むのだ。ずっと私の妄想の中、私の思い通り。

 幸い、田辺先輩の傷は命に別状なく、すぐに意識も回復したと聞いた。私は直接見舞いに行けていないし、助けてもらった感謝の念を伝えることもできていないのだが、彼の身の回りの人はすでに彼に会い、会話をしていると聞いて、事件から五日ほど経って初めて私は彼に電話をかけた。


「……あ、もしもし、先輩」

「ああ、どうも」


 田辺先輩の、少し緊張した様子が声から伝わった、その瞬間だった。ふと目の前にあのサイン会の光景が広がった。刃物男が、ろれつの回らない様子で何かを叫ぶ声や、田辺先輩が刺された腰を痛がって叫ぶ声が、耳元で聞こえたような気がした。――おそらく、田辺先輩の声を聞いたことで、そういった記憶が誘引されたのだろう。

 景色が灰色の靄に徐々に侵食されるように狭くなる。耳鳴りがする。次の瞬間に、私はその場に倒れこんでいた。それでも自分が電話中であったということだけはしっかりと認識していて、私は取り落としてしまったスマホを慌てて拾った。


「うっせーな、なんかすごい音したんだけど」

「ごめんなさい、ちょっとスマホを落としちゃって」

「まあいいけど」


 平静を装って、私は田辺先輩と会話を続けた。とはいえ、今度は猛烈な吐き気がする。頭まできちんと血液が回っていないような、そういう感じ。こういうときは、頭をなるべく低くすると良いんだっけ。私はやっとの思いでベッドにたどり着き、寝転がる。


「……だよ」

「ごめんなさい、ちょっとお電話遠いようで」


 先輩の声があまりよく聞こえない。早く頭のてっぺんまで血液を回してやろうと思いながら私は足を高く上げ、ぶらぶらと振ってみたが、その揺れがよりいっそう吐き気を増すのであった。


「だから! 何の用だよって……いてて」

「ああ、えっと、怪我の具合とか聞きたくて」

「このタイミングで? 『痛い』くらいしか感想ないけど?」

「ああ、まあ、そうですよね……すみません」


 指先が不自然に冷たく、自分の唇がどういうわけか苦く感じる。これはしばらくダメそうだ、自分から電話しておいて申し訳ないけれど、一旦切ろう。


「あの、本当にごめんなさい。私……」

「こないだのことなら別に、俺が勝手に割って入っただけだから」


 田辺先輩が、いつになく言葉を自分から紡ぐ。


「だから、謝らなくていい」

「……分かりました」

「ふん、こういうときだけは素直だな」


 話を早く終わらせたいとき、私は相手の言葉をただ受け入れることにしている。


「せっかく電話かけてきたから伝えておく。俺たち今後、会うのを辞めよう」


 こんな時に限って、返答に困るような話題をぶっこんでくるのだ、この人は。私が黙っていると、田辺先輩は勝手に話を続けた。


「俺はあんまり本を読まないし、ドラマや映画には興味がないからよくわかっていなかった。遊びみたいな仕事して、半径10mくらいのエリアに居る人間におだてられて、いい気になりやがってって。……学生の頃、あんなに一生懸命勉強してたのもあっさり捨てて、楽な方に流されてバカなんじゃないかって、ずっと思ってた。いずれ売れなくなるのに何やってるんだ? って。でも、偶然お前とまた出くわして、それから少しずつ、お前の仕事や作品なんかも調べてみたりして、そういうんじゃないんだろうなって、最近少しずつ分かってきたつもりだよ、これでも」


 電話の向こうで、田辺先輩が少し息を詰める。おそらく、まだ刺された傷が相当痛いのだろう。


「一緒に居たときのこと……本当に悪かったと思ってる」

「……どうして私に辛く当たるようになったんですか?」

「今更言い訳したって遅いし、許されるわけでもないだろうから割愛。大体想像つくだろ」

「そうですか。それにしたって、勝手にしゃべり始めと思ったら二度と会わないなんて……勝手すぎますけど、どういう経緯で?」

「それも、割愛」

「そんなことが許されるとでも思ってます?」


 結構口調が荒くなってしまった気がする。電話口から、ため息のようなものが聞こえてきた。


「やっぱりさ、合わないんだよ、俺たちは」


 田辺先輩は苦々しい様子で、そう言葉にした。


「俺は俺で、薬学の世界で一生懸命やってきたつもりだし、お前はお前で、作家としてちゃんとやってるだろ? ……もう、世界が違うんだよ」

「嘘です」


 多分、田辺先輩は嘘をついている。


「そんなこと言ったら、違う職業の人たちはもう互いに関われないじゃないですか。私には丸の内OLの友人も、教師になった友人も、専業主婦になった友人もいます。田辺先輩だって、そうでしょう?」


 そんな脆い理由で人間関係を捨てていたら、自分の周りには誰も居なくなってしまうことくらい、分かっているでしょう?


「……本当に、うるせぇなぁ」


 そう言った田辺先輩の声が、少し震えたような気がした。


「ごめん、ちょっと疲れたからそろそろ切るわ。じゃ」

「え、ちょっと待ってくださいよ」

「……頑張れよ」


 通話が切れる音を聞きながら、どこまでもマイペースな人だ、とつくづく思ったのだ。

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