第10話 ハルカC to D

 私が無理やり話題を変えてから、小一時間ほど彼の新刊の話題で盛り上がった。ハッシーはどこか不満げな表情を浮かべていたが、これくらいしかこの気まずい空気を脱する方法を思いつくことができなかったのだ。とはいえ、実はこの『トロピカルデイズ』、まだ途中までしか読めていない。それも、おかしな夢を見るようになってから、一ページたりとも開くことができておらず、私の口から語れることは少ないのである。新島先生に失礼なことをしてしまったのではないか。


「……実はあの物語、これまでの作品で一番の自信作なんです」


 年上のハッシーと結婚するだけあって、年齢の割にかなり落ち着いた雰囲気を醸し出していた新島先生だったが、自信作について熱く語る彼を見ていると、彼もやはりまだ若いのだな、と当たり前のことを感じた。なんて言ったってまだ二十三、一般の企業勤めであれば「新卒の子」と呼ばれているであろう年齢なのだ。


「だからぜひ、最後まで読んでみてくださいね」


 いたずらっ子のようにそう言われて、私はすみませんでしたと頭を下げた。未読であることが、当然ながらバレたようである。







 今夜は楽しかったです、と挨拶をすると新島先生は笑顔を見せてくれた。


「こちらこそ。妻の親友が、僕の作品を読んでくださっていただなんて、不思議なご縁を感じます」

「まあ……でも、新島先生は大人気作家ですから、街で石を投げれば新島ファンに当たる、みたいなところありますけどね」

「めっそうもない」


 例えばハッシーの夫が米作農家だったとして、「遥香さん、毎日お米を食べるんですか? そんな方と妻が親友だったなんて、ご縁を感じます」と言われているようなものである。


「でも、本当にありがたいと思っているんです。――遥香さんのように、僕のことを応援してくださる方々のおかげで、今の僕があるんですから」


 彼は噛み締めるように、そう呟いた。


「……そうだ、今度新刊が出たら、ぜひプレゼントさせてください」

「いいんですか?」

「もちろん。またうちに来てくださっても構いませんし、遥香さんのご自宅に郵送させていただいてもいいですし」

「うれしいです! もしも郵送してくださるのなら、ハッシーが私の実家の住所を知っていると思うので、彼女に訊いてみてください」


 ね、とハッシーに視線をやると、彼女は少し呆れたような顔ではいはい、と呟いた。





 総じていい日だったかな。帰り道、私はちょっと浮かれた気分でいた。小学生の頃の大親友と再会できた。それに、長年大ファンだった作家と、直接お話することができた。シンプルに運が良かったな、と思う。なんとなく仕事の帰りに寄り道をしてみたことで、こんなに楽しい一日になるとは――

 LIN○の通知音が鳴った。画面を照らすと、母からのメッセージが入っていた。


【遅いようだけれど、大丈夫?】


 三十路にもなって、親からの心配LIN○が届くなんて。私は緑色の蛙が「今帰る」と言っているスタンプを押した。

 その瞬間だった。私は後頭部に衝撃を感じ、その場に倒れたのだ。




* * *




 がばっと身を起こした。そこは、私が青春時代を過ごした、実家にある私の部屋だった。どうやら学習机に突っ伏して寝てしまっていたようだ。

 目の前に置いてあるノートPCを開く。ずっと家に置いてあるこのPCには、画面ロックをかけていない。

 画面いっぱいに、小説の編集画面が広がっている。右下には「約5,000字」の表示。私は今、何を書いているんだっけ? 画面をスクロールして、その内容を読み返す。――そして、私はこれがということに気づいた。変えなきゃ。とにかく未来を、変えなきゃ。

 そこに表示されていたのは、『Trivial Matter』のプロット(物語の原案)だったのだ。






 『Trivial Matter』を物語の形に書き起こし始めてから一時間ほど経った頃だろうか、ふいにTwitte○の通知が鳴る。私は一旦小説編集画面を閉じ、Twitte○のタブを開いた。


【杏仁豆腐さん、助けてくださーい】


 それは、当時ネット小説投稿サイトで知り合い、なんとなく馬が合って仲良くしていたネット友だち、「ニージー」さんからのダイレクトメッセージだった。

 後の新島孝弘である。

 なお、杏仁豆腐というのは、私のペンネーム。両者共にちょっとダサい。


【どうしたんです?】

【めちゃくちゃスランプで】

【ああ……前も言ってましたね】


 当時まだ高校生、そしてデビュー前だった新島孝弘は、ニージーというペンネームで小説を投稿していた。おそらく彼の「新島孝弘」という現在のペンネームは本名でもあり、それをもじったものだと思われる。当時、彼はとにかく「書けない」と言って悩んでいた。何を書けばいいのか、そもそも自分が何を書きたいのかすら見失っていた、と言っていたっけ。


【ヤバくないですか? 新人賞の締め切りまであと三週間くらいしかないのに、まだ何も書いていないんです。零文字。ヤバいですよねー】

【なんでですか、時間ならたくさんあったでしょう!】


 少なくとも、薬剤師になるための国家試験を同時に控えていた私よりは時間を有しているはずである。


【書きたいものもないし、何がウケるのかもわからない】


 彼の言葉は、私にとって理解しがたいものであった。私はいつだって、書きたいものに溢れていた。今だってそうだ。合唱コンクール優勝を目指して奮闘する高校生たちの青春ミステリが書きたい。月収手取り十八万のOLが、際限なく買い物中毒になっていくホラー小説が書きたい。海の見える田舎町を舞台にした、ただただ美しい恋愛物語が書きたい――

 ただ、私が趣味の執筆に割くことができる時間は限られているし、文才に溢れているわけでもないので、プロットを上手に小説に落とし込むことができるとは限らない。企画倒れになってしまう物語も多々あるのだ。

 一方で、新島孝弘は私と真逆の質だった。彼は書きたいものが思いつかない代わりに、いざアイディアを絞り出すとそれはもう、大変美しい文章を書くのだ。本当に高校生か? と疑ってしまうほどの語彙力と、流れるようなリズムの文面。説明的な部分は何の引っかかりも与えずに読者に理解を促し、情景描写や登場人物のセリフは、印象的で力強く、美しい言葉の旋律を奏でる。……なんて、新島孝弘っぽい文章を書いてみようとしたけれどダメだ。ぜんぜん足元にも及ばないや。

 そう、『Trivial Matter』――新島孝弘のデビュー作の原案は、私が書いた五千字超のプロットだった。文章はピカイチだけれどアイディアが湧かなかった新島孝弘。そして、アイディアだけは湧くものの、それを作品にする時間も、素敵な作品にするほどの文才もなかった私。私が彼に、自分のとっておきのアイディアをプレゼントしたことで、彼は一躍有名な作家となったのだった。

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