第9話 世間は狭い、マジで

「……そうだよ。私、新島先生の大ファンなんだ! なんならほとんどの作品追ってる。いや正直、私も『Trivial Matter』気になってるんだ。ただ、あまりに人気すぎて、なーんか意地張っちゃって、それだけ読めずにいる」

「ファンだなんて……嬉しい。そうだよね、遥香、小さい頃から小説とか大好きだったもんね。国語の授業で作ったお話、小学生が書いたとは思えない出来だったなあ。読んでて普通に面白かったもん」


 中高で腐女子・オタクとして成長を果たす前から、確かに私は本が大好きだった。休み時間はよく読書をしていたし……そうだ、小学六年生の頃の国語の授業でお話づくりを体験しよう、という単元があって、めちゃくちゃ張り切って書いたんだっけ。


「ねえ遥香、どうして遥香は小説家にならなかったの?」

「え?」


 唐突なハッシーの問いに、私は思わず固まってしまった。


「……私、小さい頃小説家になりたいだなんて言ってたっけ? そんなこと思った記憶、全然無いかも」


 危うくハッシーの言葉に乗りそうになったけれど、私は小説家になりたいだなんて、人前で言ったことは一度たりともない。そんなことを言えば「あんたなんかにはムリだよ」と一蹴されてしまうだろう、と分かっていたから。何の夢も目標もなく、自分の得意分野も分かっていなかったあの頃、将来の夢を訊かれたときには「とにかく安定した大企業に勤める」「学校の先生になる」「都庁か区役所で働く」をランダムで返していた記憶がある。


「ううん、遥香は本が好きそうだったし、国語も得意だったみたいだから、そうなのかなって私が勝手に思っていただけ。そうだよね、よく考えてみたら遥香、結局理系に進んだわけだしね」


 やはりそうか、と私は内心安堵したのだった。ちなみに私は国語は大して得意ではなかった。数学や理科の方がよほどできが良かったと記憶している。


「ねえ遥香。このあと暇?」

「明日も仕事だし、暇なことはないけれど……ちょっと飲みに行くとかそういうのだったら、全然付き合うよ?」


 旧友が再会したらまず最初にすることといえば乾杯に違いない、と思ったのだ。――しかし、実際にハッシーが提案してきたのは、私の予想とは大きく外れたものだった。


「うちに遊びに来なよ」

「え、ハッシーんちに?」


 子どもの頃、ハッシーとは仲が良かったけれど、彼女の家に遊びに行ったことは一度もなかった。よその子を家に入れるとママが怒るの、と毎回断られていたのだ。

 ハッシーも結婚をして、新居に住んでいるのだという。旦那さんに嫌がられないかしら? と訊くと、そういうの全然気にする人じゃないから、と返ってきた。


「ほら、編集者さんもよくうちに来るわけだし。あんまり他人を怖がらないタイプだから大丈夫」







 ハッシーの新居は4LDKの一軒家、都心でこの広さだとどれくらいの値段するのだろう、なんてちょっと下品なことを考える。


「どうぞ、入って。……あ、有馬さん来てるな」


 有馬、という耳なじみの良い名字を聞いてどきりとした。自分が呼ばれたような気がした。――しかしこの世界では、私は「有馬」ではないはずだ。そうすると?

 玄関先から、二人の男性が話す声が聞こえてきた。


「……先生、それでは来週までによろしくお願いしますね」

「了解です。有馬さん、いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」


 男性二人が玄関口に出てきたのに気圧され、私は思わず後ずさる。スーツ姿の男性が家の中に向かって一礼し、踵を返した。

 大輝だった。有馬大輝。私の本来の夫であり、人気作家、新島孝弘の担当編集者。目が合い、彼は一瞬、驚いたような顔をした。私のことがちゃんと分かったらしい。涙が出そうなほどに嬉しかった――私がめちゃくちゃにしたこの世界で、彼はちゃんと生きていた。ちゃんと元気に仕事をしていた。田辺先輩の件があって、人の生死なんて、誰かのほんのちょっとした選択ミスでいくらでも変わってしまうのだということが分かっていたからこそ、大輝との再会は奇跡だと思ったのだ。

 大輝は一瞬私のことを睨みつけると、ハッシーの方へ向き直り、「お邪魔しておりました」と頭を下げて足早に去っていった。どうやら、田辺先輩に乗り換えた私と大輝は、あまり後味よくない別れ方をしたらしいと察する。結婚指輪はしていなかった。私が知っている彼は、いつも嬉しそうにプラチナの指輪を薬指にはめていた。裏側には「H to D」と彫ってあるはずだった。Haruka to Daikiを略したものだ。

 大輝に続いて家から出てきた男性は、ハッシーに向かっておかえりと微笑むと、私の存在に気付き不思議そうな顔をした。


「こちらの方は?」

「私の小中学校の頃の同級生。遥香っていうの」

「有馬……じゃなくて、田辺遥香と申します」


 この期に及んで、復氏届を出した方がいいだろうか、なんて現実的なことを考えてしまった。田辺姓を名乗るのはやはり気まずい。有馬は名乗れないにしても、せめて旧姓の中村でどうにかならないか。


「千里の友だちかな? ぜひおあがりください」


 ハッシーと、その夫に暖かく迎え入れられ、私は笑顔を作った。――この人が、新島孝弘。私が一番好きな作家。






 作家という職業と、線の細い見た目の印象から抱く先入観とは裏腹に、新島孝弘はフレンドリーでよくしゃべる人だった。……なんて言ってみたものの、彼のキャラクターについては元々よく知っている。新島孝弘はSNSをよく使用し、平気でファンと絡むタイプの人間だということは、そもそも周知の事実。それどころか一時期、私は彼とSNS上でしょっちゅう会話を交わしていた。――それは彼がまだ、デビューをする前の話だったけれど。


「千里と遥香さんはずっと仲が良かったんですね。いや、こんなこと言っていいのかどうかわからないんですけど、実は僕も遥香さんのお名前だけはよく千里から聞かされていたんですよ。幼い頃からの大親友がいたって」

「それは嬉しいです」

「とても頭の良い子だったと伺っております。やっぱり千里に勉強を教えたりとか?」

「頭が良いなんてとんでもないです。……ほら、小学校や中学校時代のテストなんて、半分ゲームみたいなところあるし、本当に頭の良い方なんて他に無限にいますから。そんなことより、ハッシーは本当に絵が上手だったんですよ!」


 私が賢かったというよりは、正直に言うと、ハッシーがあまりに勉強不足だったというだけの話だ。彼女を助けようとして失敗したことは何度もある。算数の時間、九九のテストになかなか合格しないハッシーのことをぼんやりと見守っていたところ、最終的にはなぜかハッシーの耳元で私が答えをささやくことで合格、とされた。国語の授業中に、指名されて答えられずにいるハッシーにこっそりノートを見せてあげたこともある。しかし、私の書いた漢字がほぼ読めず、訳のわからない文章を読み上げるハッシーのことを叱るでもなくきょとんと眺めていた担任教師の表情は今でも思い出せる。――私が本当に賢い人間なら、ハッシーにうまく勉強を教えてあげていただろうし、漢字が読めない可能性を考慮してフリガナを打つなど、それらしい配慮ができたはずだ。


「お好きなことも性格もかなり違うようですけど、どうやって仲良くなったんですか? ……ってごめんなさい、あれこれ訊きすぎですよね。最近、女性の友情物語が結構人気じゃないですか。僕は男だから、女性同士の親友の距離感とか空気感とか、そういうの全然ピンとこないのでつい。執筆の材料集めのためにインタビューしているような気持ちになっちゃうんです」

「えー、全然かまいませんよ。好きな作家さんに、私たちのことをモデルにお話を書いていただけたりするのなら本望みたいなところありますし」


 私とハッシーは、小学校二年生の夏に出会った。ハッシーが別の県から引っ越してきたのだ。そのとき偶然隣の席になった私たちは、何となく仲良くなり、気づいたらハッシーは私のことを「親友」だと言うようになった。当時は親友というものがどのようなものであるのか分かっていなかったものの、ハッシーがそういうのならそうなのだろうと思っていた。「親友には独占的な地位が認められるらしい」ということに気づいたのは、小学校三年生の頃、クラス替えがあったときだろうか。私とハッシーはクラスが離れてしまったが、私には新しい友人ができて楽しい毎日を過ごしていた。そして、そのことをハッシーに責められたときに、私は初めて「親友」という立場の重さを知ることとなった。――そういった類の濃くて重めの友情は、男性にはあまり馴染みのないものなのだろうか。以前大輝にハッシーの話を振ったことがある。「新しい友だちを作ったら怒られた」と言ったら、何を言っているのかさっぱりわからん、という表情をされたっけ。


「えー、私たちのことを本にされるなんて絶対やだ! うちらの友情は、うちらの間だけの秘密にしておきたいなぁ」


 ハッシーの言葉に、新島先生は困ったような笑みを向けた。







 ハッシーに夜ご飯までご馳走してもらうことになって、私と新島先生はいよいよ小説談義に花を咲かせていた。ハッシーはただ黙って話を聞いていた。彼女は元来、本が苦手なのだ。


「いやあ、遥香さんが僕の書いた話をこんなにたくさん読んでくれているとは」

「私、大抵の本は文庫版が出てから買うことにしてるんです。でも、新島先生の作品だけはどうしても文庫が出るまで待ちきれなくて、ハードカバーのうちに買っちゃってます」

「えー、嬉しいです。元々僕の活動畑って、ネット小説投稿サイトだったんですよ。だから、元々は無料で公開されている作品も多くて……『どうして無料で読める程度のものに対して、わざわざ金を払わなきゃいけないんだ』って、なかなか買ってくれなかったりするんです」

「それは寂しいですね」


 もちろん、彼の作品はオンラインに載っているものについても読破済みである。しかし、彼のネット上での活動については、自分からは口に出さないように気を付けている。


「逆に、それだけ読んでくださっているのに、『Trivial Matter』を読んでいらっしゃらないってのはかなり意外でした」

「私、『これが人気です!』って強く宣伝されちゃうと、つい意地を張ってしまうタイプで。でも本当に面白いって皆さん口を揃えておっしゃいますし、やっぱり読んでみないと人生半分損してますよね」

「読まなくても大丈夫ですよ、きっと」

「え?」


 新島先生の言葉に驚いたのは、私ではなくハッシーだった。つまらなさそうにスマホをいじりながらご飯を食べていた彼女は少し身を乗り出した。


「そんなに深い意味はないですけど、もしも遥香さんが僕の二作目以降を気に入って読んでくださったのなら、きっと『Trivial Matter』は遥香さんにあんまり刺さらないと思います。……僕って一作目と二作目の間に結構ブランクがあるんですよ。その間に、かなり価値観だとか考え方だとか、そういうのが変わってしまっていて」

「でも、デビュー作と他の作品を書いたあんたは、地続きじゃない」


 ハッシーは新島先生に強く言い返した。


「ってか、そういうの本当にやめたほうがいいよ? いくら『Trivial Matter』が気に入っていないっていったって、わざわざ自分で自分の作品の評価下げることないじゃん」


 ハッシーはおそらく、単純に小説の売り上げを気にしている。新島先生自身が気に入っていようがいまいが、『Trivial Matter』であれ『ユートピア』以降の作品であれ、妻としては売れればそれでいいと考えるのは当然である。――彼女はその物語が誕生した背景を知らないから。

 新島先生はハッシーの叱責を受け、やはり困ったように微笑んだ。


「自分の昔の仕事を振り返ると、後悔したり恥ずかしいなって思ったりするお気持ちは、ほんの少しばかり理解できますよ」


 私の言葉に、新島先生はどこか安心したような表情を見せた。


「理解できるって……遥香はその辺のドラッグストアならどこにでもいる、ただの薬剤師でしょ? 孝弘は作家なのよ、平凡な職業と一緒にしないでよ」

「千里! そういう言い方やめろよ、薬剤師なんてすごいじゃねえか。頭のいい、いっぱい勉強した人しかなれないんだよ。大体、自分はまともに働いたこともないくせに――」

「ああ、えっと……せっかくですし、最新刊についてお話ししましょうよ! つい先週発売されたじゃないですか、『トロピカルデイズ』」


 私は二人の間に割って入った。


「あれ、名言出ましたよね。『一生分の片思いをさせてください』ってやつ」


 新島先生は一瞬ぽかんとした顔をした後、ああ、と笑顔を作った。

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