第8話 Trivial Matter

 葬儀も終わり、日常が戻ってくる。復職した私のことを、職場の皆は遠巻きに眺めつつ、各自の仕事をしていた。今までなら上司は何気なく私に仕事を振るし、後輩は繁忙期であろうが、明らかにこちらの手が空いていない状況であろうが、なんの躊躇いもなく質問しに来るというのに(舐められている自覚はある)、お陰でなんだか暇な復帰初日であった。この居心地の悪さも、あの夢の中で田辺先輩と付き合うことを軽率に選んでしまった私の落ち度であるから仕方がない。

 さて、どうして私がこんなにも落ち着いているかというと、おそらく二度あることは三度ある、と踏んでいるからだ。――もしかすると、今後何度かこういう夢を見るかもしれない。信じられない話だけれど、私はその夢の中で、人生における選択肢をやり直せる。どのような選択肢を提示されるのか分からないが、提示された選択肢を少しずついじっていくことで、元の世界に少しでも近づけることはできるのではないか? 例えば仮に、田辺先輩とケンカして別れるか別れないか迷う夢を見ることがあるかもしれない。そうしたら、迷いなく別れればよい。それで大輝との復縁が叶うかどうかは定かではないが、少なくとも「私を事故から守って田辺先輩が死ぬ」という最悪なこの状況を変えることはできるだろう。よりひどい未来が待っていたら、と思わなくはないけれど、青春を共にした友人も、夫だったはずの大輝も私の元から去り、田辺先輩までもが命を失ったこの世界よりひどい状況なんてあり得るのだろうか。とにかく、何かを変えたい。

 そろそろ大輝に会いたいな。ふと思った。彼は一体どうしているのだろう。あの夢の中で、私は田辺先輩を選んだ。ということは、大輝のことはその直後にフったのか、それとも当面の間二股をかけていて、それがどこかのタイミングでバレたか、ということになっているはずである。私のことだから、浮気なんて器用なことができるとは思えない。――きっと前者だろうな。大輝は、そもそもこの世界で生きているのだろうか。元気にしているのだろうか。





 なんだか今日は帰りたくないな、と思った。わざわざ新居を探す理由もないので、今でも相変わらず実家にお世話になっているが(齧れる脛は齧る主義)、両親から向けられる視線は哀れみに満ちているし、たまに帰省する兄からはちょっと小馬鹿にしたような視線を向けられるし(結婚に関して、私に先を越されたことを良く思っていなかったらしい。改めて兄の器の小ささを目の当たりにしてしまったものだ)、こんなときに私の不幸を笑い飛ばしてくれる女子校時代の友人だっていないし(事情が重すぎるだけに、実際に笑い飛ばしてくれることはないだろうが……)、この世界はマジで八方ふさがりなのだ。

 ――そうだ、せっかく帰省中なのだから、自身の出身の小学校の近辺をうろついてみても良いかもしれない。ふとそんなことを思い立って、この日私はわざと遠回りをしたのだった。この物悲しい、何もない世界でせめてもの癒しというか、昔を懐かしむ機会くらいあったって良い。

 都内某区立の、決して規模の大きくない小学校だった。正直、私の所属したクラスはやや荒れ気味で、授業中に立ち歩く男子児童は六年生になるまで居た。女子の間でもくだらないいさかいが絶えなかったし、良い思い出ばかりかというと、決してそうではない。しかし、六年間通い続けたその場所に思い入れが無いわけではなく、その証拠に、私はその学区から通う生徒の多い中学校を進学先として視野に入れていたのだ。「遥香には、地元の中学校は向いてなかったよ」「共学より女子校って感じだよね、遥香は」――両親からも、高校同期の友人からも、いつも私はそう言われていた。その度に、そんなのわからないじゃないか、と心の中で反論していた。やってみてもいないことを「向いていない」「できない」と決めつけられるのは不愉快だったけれど、期せずして今、周囲の言うことが正しかったと証明されている。私みたいな愚鈍な人間が、何の苦労もなく腐った輝かしい青春を送ることができたのは、シンプルに女子中高という環境があまりにもぬるま湯だったというだけの話だ。

 校門の前まで来てようやく、こんなところに来たってなんの意味もないと気づいた。真っ暗な中、児童も先生もおらず、知り合いがいるわけでもない小学校なんて、ただの建物に過ぎない。どうしてそんなことに気づかなかったのか。かつて学びの場としていた教室の様子を眺めるならまだしも、校門なんて卒業後も何度も見ている。それにこれ以上小学校をじろじろ眺めまわしていたら、不審者として通報されかねない。


「――ねえ、遥香だよね」


 背後から声をかけられ、私は飛び上がる。暗闇で声をかけられるのは、決して治安の良いとはいえないこの地域ではかなり驚かされるのだ。


「ああ、ハッシー」

「久しぶりだね。この度は、……」


 先日電話で話したこともあり、あまり久しぶりな感じがしない。しかし、ハッシーはどことなく気まずそうだった。この子にまで私が未亡人になったことが伝わっているんだ。この度はご愁傷さまでした。この度はお悔やみ申し上げます。いずれにせよ、これらの言葉を口にするとき、人は語尾を聞き取りにくいほど濁す。それがマナーなのか、それとも、「ご愁傷様」「お悔やみ」のどちらが正しいのか分からないからそうなるのか。


「お気遣いありがとう。でも大丈夫だから」


 噂というものは、本人のあずかり知らぬところでどんどん広がっていくものである。これまで長らく連絡を取っていなかったハッシーにまで知れているということは、私が子ども時代を過ごしたこの街に住む、私のかつての同級生の大半が、私が未亡人となったことを知っている可能性もある。


「こんなときに訊きにくいんだけれど、今度の同窓会って」

「大丈夫、参加するよ。だってそう返答しちゃったし」

「うん、ごめんね。――ほら、私幹事だからさ。一応こういうの、ちゃんとしておかなきゃダメなのよ」

「欠席するならちゃんと訂正の連絡入れるよ。そういうタイプだったでしょう、私って。安心してよ」


 先日、ハッシーからの突然の電話があった後、私は同窓会の招待葉書に出席の旨返信をした。幹事の欄には、知らない名前二名分と、ハッシーの名前が記されていた。あのときちょっと感動したのだ。――ハッシーも、幹事とかそういう仕事をするようになったんだ、と。私が知っているハッシーは、少し臆病で引っ込み思案なところがあり、よく泣いてしまうような子だったから。決して、クラスの代表で仕事をしたり、人の前に立ったりするようなタイプではなかった。きっと、中学高校大学、そして仕事をするようになって、人間的にも成長したのだろう。


「ねえ、遥香って今何してるの? なんか、そこそこ羽振りがよさそうだけれど」


 ふいにハッシーが私のことを舐めるように眺めた。彼女には、昔から少し、がある。人の持ち物や恰好、そして肩書に異様なほどに興味があるのだ。小学生だったあのころは、高価な物を持ち歩く子はそう多くはなかったけれど、小学生女子に人気なブランドのペンケースや洋服に強い憧れがあり、そういったものに恵まれた他人と比べては落ち込んだり、一方でそういったものに興味がない私を「そんなの、女子としてヤバいよ」と笑ったりしたこともあった。もっとも、後に私が第二志望の名門女子校に合格し、そこに通うことになったと知った瞬間、私に対する態度がちょっぴり変わったりもしたのもよく覚えている。そういう部分、ちょっとあさましいよね、なんて思ったこともあったけれど、そういった人間らしい部分も含めて、私はやはりハッシーとは友だちだと思っていたし、大人になるまでそれは変わらないはずだと信じていた。

 どうして、私はハッシーと今まで連絡を取らずにいたのだろう?


「薬剤師だよ。そんな、ハッシーが思ってるほど羽振りが良いわけじゃないよ」

「遥香は昔から頭良かったもんね。納得」


 ハッシーはどうしてるの? そう訊こうとして、躊躇してしまった。彼女はお世辞にも勉強ができるタイプではなかったし、だからといってスポーツが得意なわけでも、芸術の秀でた才能があるわけでもなかった。もちろん、小学生の頃のスキルで人生が決まるわけではないことはよく知っているけれど、なんだか遠慮してしまう。

 ……なんて、勝手に案ずる方が逆に失礼だったみたい。


「私はね、今専業主婦してる。実は小説家と結婚したんだ」

「小説家? それは面白いね」


 人様の夫に対して「面白いね」は失礼すぎるな、と、言ってしまってから後悔した。しかしハッシー自身がまんざらでもない様子であったことから、私の意とするところはちゃんと汲んでくれたのだろうと思う。――面白いに決まっているじゃないか。私は、小説家になることの難しさの片鱗くらいは知っている。新人賞で受賞して、デビューする。そこから先こそが長い道のりなのだ。雑誌に寄稿することもあるかもしれないし、編集者からの依頼に応じて書下ろし小説を書くこともあるかもしれない。いずれにせよ、小説で食べていこうと思ったら、「書きたいものを書ける」だけではなくて、世間だとか、出版社だとかが求めているものを的確にとらえ、常に外れなく、面白いものを創り続けなければならない。ハッシーの夫は、そんないくつもの難関を潜り抜け、それを生業とし、ハッシー(と、もしかしたら子どもも?)を養うことができるくらい稼いでいるのだ。尊敬の念しかない。ぜひとも話を聴いてみたい、そういう意味の「面白い」である。

 婚約指輪がハリーウィ○ストンだったとか、結婚してから何回も海外旅行に行っているだとか、ハッシーの自慢話から推察してもかなりの人気作家だ、ということは容易に想像できる。ハッシーののろけ話に相槌を打ちながら、彼女も結婚して名字が変わったのなら、「ハッシー」と呼ぶのもおかしいのかな、なんて考えていた。高橋という名字の「橋」を取って、「ハッシー」。同じクラスにたくさん「高橋」という名字の子がいたし、「ちさと」という名前の女の子も他に居た状況で、苦肉の策として、名字の二番目の文字を使ったあだ名を考えたのは誰だっただろうか。


「あのね。――あんまり人に言うなって夫には言われているんだけど、遥香には特別に教えてあげるね。私の夫、新島にいじま 孝弘たかひろなんだ 」

「新島って……あの『ユートピア』の?」

「もしかしてファンなの? わざわざ『ユートピア』を挙げる人、初めて会った。デビュー作の方が有名だよね、『Trivial Matter』ってやつ」


 実は本人があんまり気に入ってないみたいなんだけどね、とハッシーは笑った。どうやら、有名作家の裏事情を知っているということをほんのりアピールしたいらしい。可愛いやつめ。

 新島孝弘――彼は高校生の頃に小説の新人賞を受賞し、華々しいデビューを飾って以来、ヒット作品を次々と生み出している天才小説家である。一般文芸、中でも現代社会を舞台としたミステリーや恋愛ものがメインだが、それに加えてライトノベルやエッセイなど、幅広い分野で活躍中。私が大学院を卒業するころにまだ高校生だったのだから、かなり年下である。ハッシー、若い子が好みだったんだね。

 さて、私があえて彼の大ヒットしたデビュー作ではなく、その次に発表した作品の名前を挙げたのにはそれなりの理由がある。六年ほど前の私からすれば『Trivial Matter』――日本語で言うと、「些細なこと」だと感じていた。しかし今になって思えば、これは私がOKだと言えばOKになる、といった単純な話では済まないような、そんな気がしているのだ。私は世界で一番大好きな、新島孝弘という作家の書いた、一番大好きな作品――『Trivial Matter』――を、知らないことにして生きていく。いつしかそう決めていたのだ。

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