第7話 ハルカC ~共学出身、田辺先輩と結婚して薬剤師になった私~

 目が覚めると、全身を鈍い痛みが襲う。


「――遥香さん。○○遥香さん、聞こえますか」


 看護師の呼びかけにはい、と返事をしようとしたがうまく声が出ず、咳込む。おそらく、全身麻酔下で呼吸器をつけ外ししたことによって、喉が少し傷ついているのかもしれない。

 そう、大学時代の思い出の夢を見る前に、私はコンビニに行こうとして、歩道に突っ込んできた車に跳ね飛ばされた。その瞬間のことも結構明確に覚えていた。命を落とさずに済んだのだと勝手に安心した。





 両親は見舞いに来たけれど、大輝は一日経っても決して見舞いに来なかった。――どういうこと? 妻が事故に遭っても仕事優先なの? まさか、あの大輝に限ってそんな非常識なことはしないと思うが、ネット動画優先だったらマジでぶん殴る。そう思って私は母に「大輝は?」と尋ねた。それまで悲しそうな、何かを言いたげな表情をしていた母はきょとんとして「ダイキさんって……?」と首を傾げてしまった。娘婿の名前すら忘れるなんて、六十代前半で大丈夫かよ、と呆れかえってしまった私は「なんでもない」と吐き捨てた。


「失礼します、田辺さん――」


 すでに大部屋に移されていた私は、この部屋の他の患者を呼ぶ声だと思い無視していた。


田辺たなべ遥香さん、旦那様のことでお話があります。このあと、診察室へお呼びします。申し訳ないのですが、お母様はこのままこちらでお待ちいただけますでしょうか」

「はい」


 田辺遥香、という名前で事が進んでいることに気づき、一瞬混乱する。旦那様のことでって。――大輝に、何があったの?





「田辺さん。……大変残念ですが、旦那様の秀明さんは、お亡くなりになられました」

「えっと、大輝はどうしているのでしょう? 彼はずっと家にいたはずなんですけれど」

「へっ?」


 私の旦那は、秀明さんとかいう人じゃない。大輝なの! っつか誰だ、秀明さんって。混乱の続く様子の私を、看護師と医師は可哀そうなものを見るような目で見つめる。私はいたたまれず、口を開いた。


「えっと、お世話になっている先生方に大変失礼なのは承知なのですが、カルテの取り違えとか……」

「遥香さん、まだ少々混乱されているようですか」


 医師の落ち着いた声に、私は冷静になるべきだと自分に言い聞かせた。これまでにあったことを整理しなければ。

 自分の腕を触ってみた。細い。この感じ、百六十センチ四十キロって感じだ。髪の毛も、肩の下まで伸ばしている。変な夢を見て、その中で共学を選択したせいで、こんなことになっている。そして、今回も変な夢を見た。大学生の頃、田辺先輩に告白されたときの夢だった。その中で私は――


「もしかして、やっちゃった……?」


 同じ過ちを繰り返してしまったのかもしれない、とこのときようやく気が付く。夢の中の選択が、現実に変化をもたらしている。そんなバカげた話が何度も起こるわけがないと油断した私の落ち度である。

 一人で右往左往している間にも、医者の話は続いている。


「……このあと、霊安室に来ていただきます」


 この世界での私は「有馬遥香」ではなく「田辺遥香」。夫は大輝ではなく、田辺先輩。車椅子に乗せられたまま霊安室へと向かった私は、眠っている田辺先輩を見せられた。彫刻のようだ、と思った。


で間違いありませんね」


 私は小さく頷いた。――これは、さらにまずいことになってしまったぞ、と思いながら。

 この世界の私はどうやら、大学時代に付き合っていたはずの大輝から田辺先輩に乗り換え、田辺先輩と結婚する。そして田辺先輩は私と結婚すると死ぬ。

 田辺先輩の下の名前、秀明だったんだ。今更ながら、そんなことを知った。






 とても冷たいと感じるかもしれないが、あくまで私の記憶の中で長年恋人として時間を共にし、最終的に結婚したのは大輝であって、正直田辺先輩のことはつい最近、転勤してくるまで忘れていた。――だから、いざ「田辺先輩はあなたの夫です、彼は亡くなりました」と告げられても、イマイチ現実味がないのである。

 一方で、かなり責任は感じている。様々な人の話を総合した結果、この世界において、私と田辺先輩は平日の夜に二人で買い物に出かけ、その途中で居眠り運転の乗用車にはねられた、ということになっているようだ。田辺先輩に守ってもらった私は軽傷で済み、代わりに彼が亡くなったとのこと。あの妙な夢で、私が田辺先輩の告白を受け入れなければ、彼は生きていたはずなのに。

 退院後、私は田辺先輩と一緒に住んでいたというアパートを引き払い、実家に戻った(事故で心身ともにダメージを負い、何もできないという体で、ほとんどの引っ越し作業を両親に行ってもらった。田辺先輩との新居がそもそもどこにあるのかも分からず、部屋の構造も、自分の持ち物も何がどうなっているのか何も分からなかったのだ。両親につれられるがままに住居を見て一つ思ったことは、本来私が過ごしていた大輝との新居に比べて、格段に片付いていたということ。おそらく、家賃も高い……)。

 しかし、出戻りというのはこんなに居心地の悪いものか。よりによって、新婚二年目で未亡人だからな。親も、近所の人も私のことを腫物に触るような感じで接してくるのである。もちろん、かつては恋をし、先輩として慕っていた田辺先輩が亡くなったのは悲しい。しかし、あくまで学生時代に仲が良かった先輩を失った程度の悲しさであり、家族を失ったそれとは正直比べ物にならないということを分かってもらうわけにもいかず、なんとも歯がゆい思い。


「まあでも、遥香ちゃん、やっぱり資格取って働いていてよかったわよ。秀明さんがいなくたって、これからも安心して食べていけるじゃない」

「そういうことを言うの、やめとけよ」


 母の慰めの言葉が無神経だと感じたのか、父はかなり怖い顔つきで母を睨んだ。普段、大輝に負けず劣らず穏やかな父がこんな表情をするのも珍しい。


「大丈夫だから。――いやほんとそれ! なんなら再び実家暮らしで楽できそう」


 せめてものフォローとして、私は冗談ぽくそう返答したのだ。





 困ったのは、先輩の葬儀のときだった。田辺先輩の葬式で喪主なんて務められない、と焦っていたけれど、そこは「遥香さんも大変でしょうから」と彼のお父様が引き受けてくださって、なんというか、ありがたいの極みだった。私を守って先輩が亡くなったなんて聞いたら、彼のご両親はどんなに私を責めるだろうと怖くて怖くてたまらなかったが、決してそのようなことはなかったのだ。なんていう素晴らしい義両親だったのだろう、と感じた。しかし、葬儀も一段落し、遺族皆で食事をいただいていたときに、困りごとは発生した。


「ねえ遥香さん」


 先輩のお母様――この世界において、私の義母にあたる方が、涙ながらに声をかけてきた。先輩と似て、とてもきれいな顔立ちをした方だな、と思ったけれど、やつれ果て、目は泣き腫らし、憔悴しきった様子であった。


「遥香さんだけが知っているような、秀明のお話を教えてほしいの」

「私だけが……ですか」

「ええ。――もちろん息子との思い出はたくさんあるけれど、結婚した後の、夫としての秀明とかね? きっと幸せだったんだろうなって。そう信じているけれど、私たちは知らないじゃない」


 大切な、大切な一人息子。悲惨な死を遂げた彼のことが不憫で、どうしようもなく不憫で、できることなら彼の幸せな思い出で満たされたい。好きな人と結婚して幸せだったんだね、そんなに大事なお嫁さんを守るためならしょうがなかったのかなって言いながら、送ってあげたいはずだ。


「……秀明さんはですね、」

「ほら、新婚旅行とか。ハワイ、行ったんでしょう。そのときのお話、まだあんまり聞けてなかったから」


 え、そうなの?

 ちなみに大輝とは新婚旅行に行っていない。もうちょっと円高になってから行くか、みたいな話になっていたはずだ。正直、私自身があんまり海外に興味がなく、旅行自体が好きじゃないというのもあって、つい話を先延ばしにしがちだった。


「ああ、えっと……そうですねえ、秀明さんは学生時代から頼れる先輩でしたが、海外旅行のときも頼もしくてですねえ、どんな場面に遭遇しても英語でしゃべって切り抜けてくれるというか……空港のチェックインも現地での買い物も、なんにも困らなかったです!」


 薄っぺら!


「あら、秀明は英語苦手だったはずだけれど……」

「直前にお勉強されたようです。本当に頼もしかったです私は何もしてません」

「あの子が英語、ねえ……」


 しまった、田辺先輩は生粋の英語苦手マンだった。容姿端麗、頭脳明晰、ついでに学生時代はサッカー部に所属しており、スポーツまでできるというのに、英語だけは常に単位取得ぎりぎりで、「俺はドメスティックに生きていく!」と宣言していたんだっけ。……なんで海外旅行なんて行ったんだよ。そうか、私が結構英語得意だからな。学生時代に長らく英会話レッスンに通っていたというのもあり、旅行程度の英会話なら全然いける。


「……あと、秀明さんは本当に素敵で優秀な先輩でした」


 お母様に会話の主導を握らせると、ボロが出かねない。――今はせめて、何の疑いもなく「あなたの息子さんはすごかった」と伝えてあげたい。

 夫としての田辺先輩のことを、残念ながら今の私は知らない。しかし、同じラボの先輩としての彼のことなら私はとてもよく知っているし、なんなら一番知っているかもしれないし、嘘偽りなく伝えられるはず。


「秀明さんは薬学部の六年生の頃、ラボリーダーをやってたんですよ、同期で一番優秀だったから。それで、卒論とか実験とか、普通は皆、分からないことは准教授に相談するものなんですけれど、誰もが当然のように秀明さんを頼るんです。秀明さんは全然研究室に泊まったりもしていなかったようでしたし、その割に誰よりも研究成果を出していたので、どこから時間を捻出しているのか不思議だなって思ってました。皆、『田辺だけ一日五十時間くらい持ってるらしいぞ』って言ってたんですから」


 田辺先輩のお母様は、微笑みながら相槌を打ち、私の話を聴いてくれた。――でも、本当に聴きたい話はこういうのじゃなかったんだろうな、と何となく察する。


「私も田辺先輩にはいろいろお世話になったんです。一訊いたら十教えてくれる方で。あまりに親切で申し訳なくて、『お時間いただいてしまってごめんなさい』って言ったら、『薬学は俺の趣味だから、特に謝られることでもない』って言ってくださるような……そんなすごい人だったんですよ」


 このエピソードは半分嘘だ。本当は同じ言葉を、私の同級生の男の子にかけていたのだ。私と田辺先輩はそういう感じの間柄ではない。私が田辺先輩に感謝の意を示したときには「ははは! 一生敬え」って高笑いしていた。なんだあの人。そうだ、そういう人だったな。いつも皆の前ではカッコつけて、まあ実際にカッコいいわけなんだけれど、それなのに私に対してはただのおしゃべりでナルシストな先輩で、でもそういうお茶目なところすらあの頃は本当に大好きだったのに、私のことなんて女性として見ていないんだろうなって思っていた。だから、田辺先輩への想いを振り切り、大輝の告白を受け入れたのだ。――その数か月後に、まさか先輩から告白されるなんて信じられなかった。

 私たちはタイミングが悪かった、はずだった。


「……本当、秀明ってカッコつけだったんだから」


 そう言って、彼のお母様は遠い目をした。ごめんなさい。私はそう小さくつぶやいた。

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