第6話 ハルカB to C

※ ※ ※


「ねえ中村さん、聞いてる?」


 ちょっと怒ったように私を呼ぶ声に顔を上げる。さらりとした髪に、彫刻のように端正な目鼻立ち。どちらかといえば、エキゾチックで華やかな顔――そこには、田辺先輩がいた。紺色のダッフルコートを着て、寒そうにマフラーに顔をうずめていた。


「なんですか?」

「やっぱり聞いてなかった。綺麗だよねって言っただけだけど」

「私がですか」

「そうだって言ったら困るタイプだろ、あんたは」

「分かってます。イルミネーション、綺麗です。同意します」


 先輩の話を適当に受け流すだなんて私も結構無礼者だ。空を見上げる。東京駅のライトアップはそれはもう温かくて幻想的で、こういうのが好きなんだよなって。――とっても懐かしい。

 懐かしい?

 私は有馬(旧姓:中村)遥香、三十歳。アラサー、既婚者、薬剤師。ついでに言うとオタク歴は十七年。こんな真冬に白いふわふわのついたミニスカ履いてクリスマス仕様の東京駅に繰り出すような年齢ではないのである。つかダメだろ、既婚者がこんなロマンチックな雰囲気で夫以外の男とデートしちゃ。そうだ。これは夢だ。頬をつねる、痛くないからやっぱり夢だ。良かった良かった、夢だ。不倫は不法行為、ダメ絶対。

 逆に言えば、夢なので何をしようが自由である。


「もうすぐ、俺の国試が終わる。……自分で言うのもなんだけど、十中八九、合格する」

「でしょうね」


 ああ、やっぱりあのときのシーンだ、と私は過去を振り返る。互いに六年制の薬学部に所属していた。私が四年生、田辺先輩が六年生のときのあの日、帰り道がうっかり一緒になってしまったときの話。彼は学部でもかなり優秀で、卒業試験も楽々こなし、国試も余裕で通ると誰もが思っていたし、実際そうだった。

 彼自身、地頭や努力量にはかなり自信があったのだろう。あまり謙遜することのない人だったので、私は逆に彼のことを結構雑に扱っていたと記憶している。きっと彼はドMだったのだろう、田辺先輩はこのあと私に告白してしまうのだ。


「そうしたら、俺と付き合ってほしい」


 現実の私――当時二十二歳だったから、七、八年前の私は即答で彼の申し出を断った、「付き合っている人、いますけど」と(当時、大輝と付き合い始めて三か月が経過した頃だった。この人と長く付き合えたらいいな、と思い始め、田辺先輩への想いがちょうど薄れてきたタイミングだったのだ)。田辺先輩が私みたいな地味でしょうもない女を本気で狙うとは思えず、別にばっさり断ったところでノーダメージだろ、と思ったのだ。よくモテる田辺先輩は、ちょうど彼女が途切れたタイミングで、いつも研究室で絡んでいる手ごろな後輩がいるぞ、みたいなノリで告ってきたのだろうと邪推していた。

 でも、当の田辺先輩の様子がおかしかったのだ。それは私みたいな大したことのない女に無碍にされることでプライドが傷ついたのかもしれないし、あるいは本当に私のことが気になっていたのかもしれない。それこそ蓼食う虫も好き好き、イケメンが必ずしも美女を好むとは限らないのである。いずれにせよ、彼は「あ、ごめん、そっか」と呟くと顔を赤くし、下を向いて黙ってしまった。それは、いつも自信に満ち溢れ、何にも臆することなく、堂々としている田辺先輩にはあまりに似つかわしくない態度だったと記憶している。お前に告白だなんて冗談に決まってんじゃんと笑い飛ばされるかと覚悟していた私にとって、その態度は妙にトラウマだった。田辺先輩が翌日の講義を休んでいたと人づてに聞いたときに、私はとんでもないことをしたのではないか、と怖気づいたのを覚えている。








「聞こえてた? 俺と付き合ってほしいですって」


 いけない、また先輩を無視してしまった。――そして、その焦りから、私はあるをしてしまう。


「分かりました。付き合いましょう」

「本当に?」

「ええ」


 もう二度と、田辺先輩のああいう顔を見たくない、と思ってしまったのだ。どうせ夢の中だということは分かっているので、その場その場で穏便にやり過ごせばいいじゃん、と――

 同じこと、前にもやったよな? それで今、めちゃくちゃ大変なことになっているよな? って我に返った頃には、意識が遠ざかり始めたのだった。


※ ※ ※

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