第5話 腐った輝かしい青春を返せ

 それからの私は、人生最大級に「有馬遥香」を頑張ってみたと思う。朝五時に起きて体形維持のためにストレッチとランニング、準備が終わり次第職場に駆け込んで働く。昼のコンビニ弁当もやめた。代わりに家から野菜たっぷりのお弁当を持ってきている。この点においてはかなり節約になっている。職場の皆には申し訳ないけれど、ここは「この世界における有馬遥香」を踏襲して、飲み会のお誘いはスルーさせてもらう。早めに帰宅したら、ヘルシーな夜ご飯を作り、三日坊主になっていた英語の勉強をし、時間があればさらにエクササイズをしてから風呂に入り、早めに眠りにつく。丁寧なヘアケア、スキンケアは欠かせない。幸い、そういった化粧品の類はすべてそろっていた。

 この世界で、「共学出身の私」がそれまで努力してきたことを台無しにするわけにはいかない、と思ったのだ。B中学の同窓会に出席する。そう決めた私はあの日、なんとか家の奥からB中学の卒業アルバムを探し出した。そこに映っていたのは、垢抜けない自分の姿。垢抜けなさ具合でいえば、自分の記憶にあるA中高の卒業アルバムの自分の写真と大差ないけれど、それ以上に、陰気な雰囲気が漂っていたのだった。前髪は長く、目に被り、髪もぼさぼさで。八重歯をなんとしてでも隠したかったのか、まったく笑みも見られなかった(卒業写真って、カメラマンに無理やりにでも笑わされるよね? そんな中、頑なに口を一文字に結ぶ頑固さよ……)。そんな私が、どのような心境変化で今の美女に成長したのか。――おそらくこれは復讐だと思う。復讐というのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくともいじめてきた当時の同級生たちを見返してやりたいといった気持ちがあったのだろう。だから、それなりに勉強してそれなりに給料の良い仕事に就き、ただ貯金しているだけではそれを誰にも知ってもらえないから、高価な服やバッグを買い、一生懸命ダイエットや歯科矯正をして今の美女になった。周囲に自分のことを話さない慎重さやストイックさは、そういう過去からくるものだ、というのは想像に難くない。

 どういうメカニズムで、私は「共学出身の私」として生きなければならなくなったのか不明であるが、「共学出身の私」のそれまでの血のにじむような努力をふいにする権利は、今の私にも無いと感じたのだ。私の無念は、私が晴らしてあげる。――そもそも「共学出身の私」という人格が、元々私以外に存在したら、という話だけれど。


 それはそれとして、単調な毎日だと思った。これまでの私は、仕事をして、その後飲みに行って職場の若い子の恋愛相談を聞き流し、家に帰って大輝と夕食を楽しんだ後はゲームをしたり本を読んだり、趣味の物書きをしたり――地味でなんてことないけれど、それなりに楽しい生活を送っていたし、女子高時代の親友どものSNSの投稿に返信をしたりと充実していた(?)のだ。今や、生活のほとんどを仕事と自分磨きに充てていて、他人との交流なんてあったもんじゃないし、趣味の創作活動もままならない。「共学出身の私」の生活は、いつになったら終わるのだろう。ふと、そう思った。

 そもそも、終わりが来るのだろうか? 今まで、なんの疑いもなく、「この生活も今だけ」と思っていた。しかしよく考えてみると、来る日も来る日も私は美女だし(!)女子高の思い出のブツは全部行方知れず、親友からの連絡もない毎日を送っている。


「私の腐った輝かしい青春と友だちを返せよ……!」


 いつだって通知のないメッセージアプリを開くたび、私は思わずそう口にするのだった。

 腐った輝かしい青春。――中学高校時代、私はゴリゴリのオタクだった。親友四人組の一人、留美の紹介でとあるBL作品にハマり(そう、当時の私はいわゆる「腐女子」だったのだ)、そこからいろいろな漫画、ライトノベル、同人誌その他創作物を摂取した。そのうちに、だんだん自分でも創作をしてみたくなり、小説を書いてみたくなったのだ。二次創作に挑戦したかったが、既存キャラを正しく解釈して別のシチュエーションで動かす、という高度な芸当ができるとは思えず、一次創作限定の創作活動しか行ったことがない。まさかそれが、十何年もにわたる趣味となるとは思わなかったが。

 ちなみに私の出身校(ここでは、女子校であるA中高の話である)はちょっと特殊で、オタクを恥ずかしがる文化がなかった。それどころか、オタクとおしゃれ系女子との距離感が近く、「一軍女子」(簡単に言えば、教室内ヒエラルキーで最上位にいるような女の子だ)の中に普通にアニオタが紛れ込んでいることがあるような環境だったのもあり、私は何のためらいもなくオタクであることをオープンにしていた。特に不都合はなかったし、むしろ私の趣味が周囲に知れることにより、それをきっかけに他クラスの友人ができたりして楽しかった。

 そんな地味で痛くて、でも面白おかしい青春時代を送れなかったんだろうな、と私は「共学出身の私」を哀れに思うのだ。――あんなに憧れていた共学生活。私にはどうも、合わなかったようである。





 ある日、いつもどおり仕事場に行くと、ちょっとざわついていた。


「あ、有馬さん、おはようございます。――聞きました? 今日、別の店舗から異動してきた薬剤師の方がいらっしゃるようで」

「ああ、そういえば店長そんなこと言ってたね。男性の方だっけ」

「そうなんです。有馬さんと同じ大学出身らしいですよ。その人が、めちゃくちゃイケメンって話題になってるんですから。……って、有馬さん、もう結婚していらっしゃいますもんね。別にイケメンとか関係ないか」


 何となく、を思い出した。


「皆さん、ご注目ください」


 店長が注目を集める。その隣にいる人間を見て、どきりとした。


「本日付けで我が店舗に配属となった方からの挨拶です」

「○○支店配属になりました、田辺たなべ秀明ひであきと申します」


 まあ、そういうこともあるか。妙に冷静になる。彼は私より先に同じ系列の薬局に就職していたと聞いていたから、どちらかの異動により、うっかり同じ店舗で働く羽目になるのは想像に難くなかったのだ。

 田辺先輩は私と同じ大学、そして同じ研究室を卒業した先輩。私より二学年上である。学生時代はかなりお世話になった。……うん、お世話になったどころのアレではなくて、なんというか、そう、両片思いの期間があったりした。付き合うには至っていないし、今や私は夫一筋なので、別に疚しいことはないけれど、なんというか、気まずいな!


「田辺さんは、薬剤師として調剤の方で働いてもらいます。有馬さん、しばらくの間、田辺さんの面倒見てあげてね。まあ、彼は薬剤師としては経験豊富だから、いろんなことを勉強させてもらったらいいし」

「はい」


 あくまでここは仕事場である。私と田辺先輩の過去の恋愛沙汰なんて、別に仕事に関係ないし、別に負い目なんて感じなくていいよね。ってか、過去の恋愛沙汰を同僚に話すなんて馬鹿なことしないよね、お互い大人だしね?

 ……頼む。田辺先輩、結婚していてくれ! こっそりと左手を盗み見るけれど、遠目だと結婚指輪をしているかどうか分からない。そもそもこの仕事、仕事中に指輪をしない人もそれなりに居るので、指輪だけでは結婚しているか否か判断することは難しい。お互いにそれぞれ幸せになっていれば、昔のことを蒸し返されることもないだろう。そう思って私は彼が既婚者であることを願ったのだった。

 そもそも、かつて自分を好きだった人が、七、八年越しのいまだに自分を好きでいる可能性の方が低いのでは? そのことに気づき、私は一人で恥ずかしくなる。こういうところ、本当に女子校出身の弊害だと思っている(あくまで私自身には、女子校での記憶しか残っていないという点に注意)。恋愛経験に乏しく、妙に自意識過剰になってしまうのだ。






 朝一番から田辺先輩に業務の流れや、この店舗ならではのルーティーンについて説明し、残りの時間はいつもどおりの接客を行う。調剤薬局の仕事は忙しい、実際に業務が始まると、気まずさなど感じている暇もなくあっという間に勤務時間は過ぎていった。

 基本的に同じ業務を担当する田辺先輩とは時間帯をずらして昼食をとるので、昼休みに気まずい思いをすることはなかった。しかし、問題は業務終了後。


「今日は田辺さんの歓迎会をします」


 なんか嫌な予感がして、私はいつも通りそそくさと帰ることを決心する。愛用しているセ○ーヌのバッグを抱え、私はこっそりとその場を離れようとした。


「当然、有馬さんも来ますよね?」


 新人歓迎会担当の後輩が、少し睨むように私を見る。――この子、私が知る限りでは結構優しい子だったのだけれど、なんだかこの世界線ではやたらと私に対する当たりが強い。


「私、今日はちょっとお暇しようかな……」

「今日はって、いつもそうじゃないですか」

「えっと、」

「そうよー、有馬さんは田辺さんの教育係なんだから、今日くらい参加しなさいよ」


 気の良い先輩の広田ひろたさんも、良かれと思って誘ってくれている。ああ! いっそ後輩ちゃんみたいに意地悪な気持ちを持って接してくれれば断りやすいものを、よりによって先輩がこんなにフレンドリーだと逆に断りづらいのよ。


「……そうですね、そうおっしゃってくださるのなら、やっぱり今日は参加します」


 少し大人げない私は、たとえ若い子が相手でも、その発言に敵意を感じると軽く言い返してしまうところがある。あくまで広田さんに言われたのがうれしかったから。あんたの言うことを聞いたわけじゃないよって、言いたくなっちゃうんだ。


 居酒屋に到着し、私は田辺先輩から遠くの席に座ろうと思ったけれど、どういうわけかくじ引きにより席が決定し、偶然にも彼の隣に。後輩ちゃんや、若いバイトの女の子の視線が痛いけれど、これは厳正なるくじ引きの結果なので……。

 乾杯の後の歓談タイムで、田辺先輩は私にようやく声をかけた。 


「いやあ、それにしても久しぶりにと会えてよかったです。お元気そうで何より」


 不意に下の名前で呼ばれ、驚いてしまった。――彼はかつて、私のことを「中村さん」と旧姓で呼んでいた。しかし、私が結婚し、すでに「中村」ではないことを知り、呼び方を変えたのだろう。有馬、という名字に親しみが持てず(もしくは覚えられず)、つい下の名前で呼んでしまった、と考えるのが自然である。


「田辺先輩もお元気そうで。……いやいや、まさか同じ支店に配属になるなんて、世間って狭いですね」


 気まずさを感じながら応対していると、横からいろんな人が話に交じってくる。


「えー? もしかして、田辺さんって、有馬さんと学生時代からのお知り合いなんですか? ……まさか、付き合ってた、とかじゃないですよね。ちなみに有馬さん、結構最近結婚したんで」

「あ、有馬さんってのはこの方で、結婚して中村から有馬になったんですよ」


 女子社員たちがこぞって私が既婚者であることをアピールし始めたのが面白かった。今までの私なら、こういう扱いは受けなかったはずだ。私みたいな地味な人間が、男に好かれるはずなんてなかったから。結婚したって言ってるけど、蓼食う虫も好き好きよね、なんて思われていたのかもしれない。しかし、この世界の自分は違う。若い社員たちの好敵手になるくらいに、今の私は美しい。そもそも既婚で、夫の大輝にしか興味がなく、そういう意味でも余裕な私は、にっこりと笑みを浮かべた。――若い子たちは、血気盛んで結構なこと。心の中でそう呟きながら。

 その日は女子社員ブロックにより、満足に田辺先輩と話せないまま、歓迎会が終わった。あまりに居心地が悪いので、二次会は切った。





 帰宅すると、大輝がスマホの画面を眺めながらパスタをゆでていた。お湯が吹きこぼれたのを見て、私はあわてて止める。


「ちょっと、ちゃんと見てないからこぼれたじゃん! とろいんだから、動画ばっか見てないでちゃんと集中しなよ」

「ごめんなさい……」


 つい、口調が荒くなる。大輝のとろさや呑気さは学生の頃からで、私はそういったところも含めて彼のことを気に入り、結婚しようと思ったはずだった(むしろ、てきぱきしすぎている人間と私は相性が悪いだろうな、と感じていたのだ。自分自身が結構とろいタイプなので)。そしてつい最近まで、そんな彼にイラつくことはとても少なかった。

 それなのに、ここ数日で急激にそういうことが増えてきたのだ。外見が変わると、内面も変わる? しかし美しくても内面も美しく、せかせかしていない人間なんてこの世にごまんといる。糖質不足でイライラしているのだろうか? カルシウム? ダイエットメニューを今一度見直して、足りない栄養素はサプリで補ってみようか。

 しかし、少し不思議だな、と感じることがあった。――私、仮に共学を出ていても大輝と結婚するんだな、と。女子校出身か、共学出身か、ということは、その後の恋愛に対する価値観を大きく変え得る。私は、人生で初めて告白してきた大輝と付き合い、そのまま彼とゴールインした。しかし、共学出身なら、もうちょっと恋愛に積極的になってもおかしくないと思うのだが。それに、こんなに綺麗になったのだから、自分から好みのタイプの男性にアタックするような自信がついてもおかしくない。そう、例えば――

 大輝と付き合い始めるよりも前に、自分の方から田辺先輩に告白していたり、なんてね。ないない、あほらし、と首を振りつつ、私は冷蔵庫のドアを開ける。


「……無脂肪乳がないから、コンビニで買ってくる」

「いってらっしゃい」


 「共学出身の私」として生活を始めてからというもの、牛乳の代わりに無脂肪乳を飲んでいるのである。なかなかストイックだと思うが、意外と続けられるものだ。――もし、ちゃんと「女子校出身の私」に戻ることができたとしても、この習慣は継続してみてもよいのかもしれない。

 アパートの外に出ると、空気がじんわりと湿っているように感じた。梅雨入り直前の特有のそれ。ボウタイブラウスの袖をまくり、私はコンビニの方角へと歩き出す。繁華街のすぐ近く、利便性は高いけれど少々うるさいこの街が、結構好きだ。


「危ない! そこのお姉さん」


 背後から大声がして、振り返る。――お姉さん、というのが自分だということに気づくと同時に、車道から大きくそれた自動車が私の方へ向かってきているのに気づく。

 そこから先の記憶はない。

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