第2話 ハルカA to B
※ ※ ※
「遥香。今からお母さん、A中学の入学金、払ってくるね」
私が通っていたはずの学校に、入学金を納めに行くという母の姿。第二志望の学校の合格発表を確認したパソコンの前に座り込んだまま、私は母にごめんね、お願いと言おうとした。
そのとき我に返った。――私は今何歳? 有馬(旧姓:中村)遥香、三十歳。職業、薬剤師。そうだ、今更中学入学なんておかしい。私は夢を見ている。これは中学受験に失敗した日の夢だ。
夢の中で「これは夢だ」とはっきりと理解できるのも珍しい。かなり鮮明な夢を見るタイプの私は、いつも夢の中で夢であることを認識できず、冷や汗でびしょびしょになりながら目覚めたり、時折現実と夢とをごっちゃにしてしまうこともあるくらいなのに。
受験に失敗する夢や、大学で必修のテストを受け忘れて留年する夢、というのは若者たちがよく見る悪夢だと思う。私の場合もご多分に漏れない。
ちなみに、私は実際に中学受験に失敗している。絶対に受かると言われていた第一志望の共学に落ち、第二志望の女子中に行った。思えばあれが、人生における初めての失敗であった。
それからの私は、とにかく失敗を避けるようにして生きてきた。大学も、医学部は定員が少ないから薬学部にすると決めて、複数の学校を受けた。明確な第一志望は決めなかったから、合格したすべての学校の中から最も学費の安かった国立の大学を選んだ。六年間学び、誰よりもまじめに国試の勉強をして、無事薬剤師になったのだ。医学や薬学に興味があったわけではない。クビになったり、結婚後に退職し、その後もし離婚することにでもなったりしたときに路頭に迷うのが怖くて、資格の必要な仕事がしたかっただけ。
中学受験の失敗は私の人生観にそれなりの影響を及ぼしているわけだが、さすがに今や第一志望の学校それ自体に未練があるわけではない。――しかし、私には第二志望の学校に加え、もう一つだけ選択肢が与えられていた、はずだった。
それは、地元の中学に進学すること。本来私は、共学に通いたいと願っていた。実際通ってみたら女子だけの空間も遠慮が要らなくてとても楽しかったけれど、当時の私にはそのような発想はなく、「少女漫画に出てくるような青春を送りたい、叶うならば恋愛だってしたい」という想いがあった。当時の私は、どうせ第一志望に行けないのなら、公立中学でもいいとすら思ったけれど、なるべく良い学習環境を与えたいという両親の思いをくみ取り、女子中であるA中学に進学したのだった。
そして今、その決断の瞬間の夢を見ているというのだ。
「ねえ遥香、」
夢の中で、母は私に語り掛けた。
「遥香の人生なんだから、遥香の思い通りにやってみたっていいんだからね」
「え?」
「本当にA中でいいの? ちゃんと考えた?」
十八年前の、現実の母は決してそのようなことを言わなかった。実際には、両親ともに私をぜひとも私立中学に通わせたいと考えていたし、当然、私自身も反論しなかった。大人が想定することって正しいことが多くて、名門と言われるA中に通ったことは、私の人生にとってプラスとなることが多かった、と過去を振り返ってみて強く感じる。
しかし、これは夢だ。
「お母さん、ごめんなんだけど」
この夢は、いったいいつまで続くのだろう。
「私、普通に地元の中学行きたい」
「本当にそれでいいの?」
私は頷いた。もし、現実と異なる選択をしたら、この夢は一体どうなるのだろう。純粋な好奇心だった。もちろん深く考えて返事をしたわけではない、せっかく機会を与えられたのなら、それを有効活用してみようと思っただけ。共学って、どんな感じなんだろう。地元の中学って、どんな勉強をしていたのだろう? 夢だとか、私の妄想の中だけでいいから、一度だけ、そういう生活を味見してみたいなって。そう思ったのだった。
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