第3話 ハルカB ~共学出身、大輝と結婚して薬剤師になった私~
スマホのアラームが鳴る。眠い目をこすりながら、私は画面をスワイプした。
結局、一番おいしい部分の直前で目が覚めちゃったな。私はため息をついた。地元の中学に通うことを決意させられただけで、その後の学生生活を何一つ味わうことができなかった。自分の知らないことは、想像はおろか夢に見ることすらできないってことか。自分の想像力の乏しさにがっかりする。これでも趣味の物語づくりを十五年以上続けているというのに――あのときやっぱり、国試の勉強を優先してよかったよ。所詮私には、物書きの才能はない。
いつものように十分で着替えとメイクを済ませて……と思って時刻を見てみると、午前五時ぴったり。
「なにこれめっちゃ早い」
どうしてこんな時間に私はアラームをかけてしまったのか。昨日飲みすぎたか。変な夢も見るし、やっぱり酒はろくなことがない。再び布団にもぐろうとしたら、いきなり夫に起こされた。
「五時だよ」
「五時だよ?」
私は思わず大輝の言葉を復唱した。
「あれ、いつもこの時間に起こしてって言ってたよね」
「え?」
「はいこれ、白湯」
夫に手渡されるまま、私は飲みたくもない白湯を口にした。季節は夏、もっとキンキンに冷えた氷水ならまだしも。まあ、大輝が用意してくれたものなら、毒以外なんでも残さず口に入れるつもりだが。
「僕は着替え終わってるから、遥香も準備してきてね」
「え、何の」
「え? 毎朝ジョギングしてるじゃん、もしかして寝ぼけてる?」
大輝がきょとんとして私の様子をうかがう。私が、ジョギング? 自分磨きというものに一切興味のない、この私が。
しかし、大輝はすっかりそのような出で立ちである。それにせっかくこの時間に起きたのだ、時間を有効活用するのも悪くはない。私はぼんやりとした頭を抱え、クローゼットへと足を運んだ。
「……なんだこれ」
これ、私のクローゼットなのだろうか? でも、家は間違いなく私と大輝の新居だし、家具の配置も同じである。首をひねる。なんというか、確かに私の好きな系統の服が並んでいるのだけれど、記憶の中の自分自身のクローゼットに比べてどれもちょっぴり高級そう。……あ、と呟きながら私は一枚のブラウスを手に取る。独身時代に憧れていたけれど、結局チキって買わなかったブランドのものだ。
見覚えのないクローゼットの中から、運動に適していそうな一着を選び、身に着ける。確証があるわけではないけれど、どうやらこれは私のクローゼットということで相違ないらしい、という予感がしたのだ。
「準備できたよ」
「今日の遥香は、本当にぼんやりしてるね? いつもあんなに一生懸命日焼け止め塗ってるのに」
「曇ってるけど」
「曇りでも雲の隙間から紫外線が漏れ出してるんだからって、遥香が言ってたんだよ」
そうなの? 私は顔を洗い、日焼け止めを手に取って鏡をのぞき込み……あっと声を上げた。
誰? そこに映る自分自身の姿に、見覚えがなかったのだ。やや細面で、目がとてもぱっちりとしていて、鼻筋が通った、理知的な顔立ちである。髪の毛は長い。本来の私は、もうちょっと丸顔で、目もそこまで大きいわけでもなく、鼻はやや団子ぎみだし、髪型もセットが楽なボブである。ちょっぴり愚鈍な印象を与える自分の顔立ちはあまり好きじゃないだけに、それらの特徴が大幅に薄くなったことに驚きを隠せない。――それに、八重歯どこにやったよ?
「ねえ大輝。私、整形に何万かけた?」
「本当に好きだねえ、その冗談。大学時代にめちゃくちゃダイエットして、社会人になってから初めてのボーナスで歯科矯正しただけだったと思うけど」
なお、大輝は大学一年生の時に出会った、同じサークルの男である。だから彼は、私の垢抜けない姿やすっぴん姿をよく知っている。三十路にもなると化粧もするので、さすがに当時の自分よりはだいぶんマシになったものと思っているが。
でも、顔立ちが変わって見えるほどのダイエットなんてした記憶がない。八重歯をコンプレックスに思ったことも、高額な歯科矯正をした記憶もない。
よく見てみると、ほくろや手にできた小さな傷跡など、本来の自分と変わらない点はいくつもある。ただ全体的に、ほっそりとしているのだ。他人になったわけではない。一晩で顔面が変化したように見えるくらいに痩せたということか。
そんなラッキーなことある? 私は大輝にバレないように、にやりとした。
学生時代ぶりのジョギングは、思ったよりも楽勝だった。体重が軽くなっているからだろうか。大輝いわく、私は毎朝仕事に行く前にジョギングをし、シャワーを浴びてから出勤するらしいので、身体がそのような仕様になっているのかもしれない。
ああ、なんて素敵な夢なんだ、とシャワーを浴びながら思った。これは夢に違いない。だって、現実の私はいつだって出勤直前に起きるし、ジョギングなんてしないし、服だってプチプラばっかりなんだから。二重夢ってやつ? 中学入学直前の夢から醒めると、今度は美女になっている夢を見ているのだと思う。
大輝に行ってきますと声をかけ、うきうき気分で出勤する。――私も本当は、もっと可愛くなりたかったんだな。全世界に今の美しい自分の姿を見てもらいたいような気持ちになって、小躍りで街を歩いた。
「遥香さん、なんだか今日は機嫌が良くありません?」
「うん、昨日、女子会だったからかな」
「女子会? 遥香さんのプライベートの話を聞くのって珍しい気がします」
ドラッグストア併設の調剤薬局で働く私は、普段からこうして仕事の合間の昼休みに他の薬剤師さんや、バイトさんとおしゃべりする。
「珍しい? 私、こんなにいつもプライベートの切り売りをしてるっていうのに」
「どこがですかー」
バイトさんがけらけら笑っているけれど、私は自身のことについて話すのは嫌いではないし、勿体つけているつもりもない。なんならあんたたち、一年前の結婚の報告の際にも、目一杯お祝いしてくれた仲ではないか。……待てよ、こないだ私、この子らに言ったよね? 高校の同窓会が近いから、奮発して高いワンピースを買ったって。さては聞いてなかったな。
「いつものミステリアスな遥香さんも素敵ですけど、今日の遥香さん、すっごく雰囲気が柔らかくて好きです」
「褒めても何も出ないが」
ミステリアスって何? 私は苦笑した。どうやらこの夢の中で、私はミステリアス美女として君臨しているらしい。
「いや、本当ですよ。ほら、遥香さんって、いつも仕事はバリバリで、無駄な残業はしないで即帰っちゃうじゃないですか、『自分磨きの時間を削られたくないので』っつって。飲み会も一切来ないし」
後輩薬剤師の言葉にちょっとした棘を感じ、思わず身構える。――いけ好かない女だと思われている? 美女として暮らすのも意外と苦労しそうである。
「飲み会、皆勤賞のはずだけど」
「なにとぼけてるんですか。……今日の遥香さん、なんだか変ですよ? いつもそんなでっかいコンビニ弁当なんて食べないじゃないですか、毎日毎日身体に毒素を溜め込むなんて馬鹿だ、とか言って」
えっと、何がなの? 後輩の言葉に首を傾げながら、今日も今日とてご飯がうめえやと舌鼓を打っていた。――「うめえ」という感覚が、こんなにも明確に夢の中で知覚されることに、なんの疑問も抱かないまま。
その日は午後に健康診断があったのだが(健康診断があるにもかかわらずうっかりお昼を食べてしまうあたり、やはり私は私である)、その測定結果にびっくり仰天。百六十センチ四十キロは、さすがに軽すぎる。モデルでも目指しているのか? 現実味のない数字が出るあたり、やはり夢だな、なんて思いながら私はまあ上機嫌だったのだが、採血の段になり憂鬱に……ならなくていいのである。これは夢、普通なら感覚や痛みなんかないはず。
長く、太い針が腕に刺される。
「ぎゃあ!」
「あっ、すみません、痛かったですか」
「……こ、こちらこそすみません、びっくりして」
なんでこんなに痛えの? 夢の中なら、普通――
でも、夢じゃなかったとしたら。これは夢じゃなくて、私は本当はモデル体型の美女で、秘密主義のいけ好かない性格だってみんなに思われていて、朝の厳しいモーニングルーティーンのために夫を酷使している女だとしたら? なんらかのきっかけで健忘を発症しているだけだとしたら?
今更ながら、私は思いっきり頬をつねってみた。まともに痛いな、と感じる以前に、自分の知っている自分の頬より格段に肉が薄いことに気づき、呆然とした。
できることなら可愛くなりたい。お金はかけずに、面倒なこともせずに。そう思ったことは、実を言えば何度だってあった。私にとってこんなにも都合の良い夢が叶ったというのに、いざそれが現実に起こったと知ると私はあまり嬉しくなかった。――私は、私じゃない私になりたいわけではない。あくまで自分が理解できる範囲の自分でありながら、そういう都合のいいことがあったらラッキーだな、とちょっぴり思うだけで。何より、今までの自分が積み上げてきたものを壊したくない。中高同期の女子友だちとの関係や、仕事での良好な人間関係、それに夫との刺激はないけれど心地の良い関係。あとは、キャリアと貯金と――
仕事帰り、私はあわててATMに走った。
「うそ……私の貯金、少なすぎ……?」
記憶の中の自分の貯金額より三百万ほど少ないと知った私はATMの前に崩れ落ちた。
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