第15話 作家としての新たな暮らし

 在宅で仕事をするというのはこういう感じなのか。薬剤師だった頃は在宅勤務なんて夢のまた夢だったから、なんだか新鮮だな。いや待てよ、そもそもここは私の家ではなく編集担当の大輝の家である。正しくは在宅勤務ではなく、「泊まり込みの仕事」なのか。ちなみに大輝は、朝から会社に出勤しているから、家には私一人だけ。今の私は彼の妻ではなく、ただの担当作家。いくら元カノだったからとはいっても、赤の他人を一人で自宅に放置するだなんて、彼はとても迂闊というか、警戒心の薄い男だな、と思う。つい最近まで大輝と一緒に夫婦として生活をしていたせいで、ついつい大輝の一人暮らしのアパートにあるものを我が物顔で使ってしまいそうになるが、あくまで今の私は編集者宅に居候する作家、つまりはビジネスパートナー。お昼の時間にお腹が空いたからといって、冷蔵庫を漁ったりするのはもっての外である。


 ――小説家生活、正直かなり楽しんでいる。元々薬剤師という仕事は、決して私がやりたいと思っていたものではなく、あくまで自分の得意教科(ここでいう「得意」とは、「テストで容易に点が取れる」という意味である)と、給料・福利厚生、そして待遇の安定度合から総合していい塩梅の落としどころを見つけた、というだけの話。もしも口座に五千兆円あるとしたら、薬剤師ではなく、小説家を目指していると思う、マジで。薬剤師時代の勤務態度はいたって真面目だった。かつての同僚はまさか、私がそんな後ろ向きな気持ちで働いていただなんて想像すらしないだろう。

 退院から二週間ほど経っただろうか、私は途中になっていた原稿の続きに本格的に取り組み始めていた。ドロドロラブストーリーの第二章、例によって男からのモラハラが始まる辺りの場面を執筆している。今回のお話は、専業主婦をしていた女性が、ひょんなきっかけで夫に秘密で友人のビジネスを手伝うことになるが、年末調整の手続きの際にバレたことをきっかけに夫からのモラハラやDVを受けるようになる、という内容。楽しいんか? こんなの書いていて。私は首をひねりながらも、ノートパソコンのキーボードを打ち続ける。ありがたかったのは、プロットがきちんと完成されていたこと。それも、大まかなストーリーだけでなく、ミニエピソードや細かい登場人物設定まで、相当しっかりと作りこまれていたのだ。おそらくこれは、私がお世話になっている出版社の編集部の方針。私自身はどちらかというと、プロットはかなり大まかに作るタイプ(だからこそ、新島先生が書きあげた『Trivial Matter』と、私が書きあげた『Trivial Matter』では、その出来に大きな差がついている。なんなら『Trivial Matter』以前は、そもそもプロットすら作らない派だった)。まあ、この執筆は趣味じゃなくてビジネスだから、前もって予定を組み、需要に沿ったストーリーラインか、過度の炎上を招くものではないか、出版社としてもありとあらゆるリスクをチェックしておく必要があるのだろう。

 恐る恐る書き始めた第一章は、つい先ほど、編集部からのOKメールが届いた。第一稿を上げたとき、「中村先生がこんなに締め切りをきっちり守るなんて珍しいですね?」と、大輝は驚いていたけれど、社会人が提出物の締め切りを守るのは当然ではないのか、と疑問に思う。まあ、この世界における「中村遥香」は本来、大学卒業後、社会人として働く経験のないままに専業作家となったわけだから、その辺りの感覚が私とは違ったのかもしれない。結局その後、何度か修正命令が出た後に今に至るのだから、作業を前倒しで進めるに越したことはないと思うけれど。

 あくまでプロットから外れないように、しかし文章に気を遣いながら筆を進めるというのもなかなかない経験だし、結構勉強になる。もしかして、私が元居た世界で新島先生が『Trivial Matter』を書いてから才能が開花したのも、他人(私)の書いたプロットの文字起こしが起爆剤だったのではないか? なんて思わなくもない。ふと、新島孝弘のことを思い出してTwitte○を開いた。「ニージー」のアカウントは、「新島孝弘」に名前を変更することのないまま。最後の投稿は一年三か月ほど前、「カクヨ○で最新の短編を更新しました! ぜひ読んでみてください」というものでストップしている。

 ほんの少しのことで、人生って大きく変わってしまうんだなと思った。『Trivial Matter』の執筆経験を積む機会を奪われた新島孝弘は、眠っていた才能を自身も気づかないままに執筆を辞めてしまう。『Trivial Matter』を書き上げた私は薬剤師になることなく、作家人生を歩み、田辺先輩とはモラハラで別れ、大輝は――彼は、どう思っているのだろう。今の生活に満足しているのだろうか。彼は元々、結婚願望がそれなりに強いタイプだということは知っていたが、私と破局したこの世界において、彼はどうやらやはり未婚のようである。





 昼休みの間に、大輝にLIN○を送った。


「今日は夕飯不要です」


 編集社の社員でも何でもない、フリーの作家に昼休みもくそもないのだが、なんとなく私なりに「定時は九時から十八時まで、昼休みは十二時から十三時まで」という規則を設けながら執筆を行っている。その方が怠けずに執筆をつづけられる気がするし、外部の人と連絡を取る際に、うっかり不躾な時間帯にLIN○を送ってしまったり、平日ど真ん中に遊びの約束を取り付けようとしたり、といった凡ミスを防止することができるからだ。まあ、「共学出身の私」になってしまった今、休みの日に一緒に遊びに行く友人なんていないのだけれど。ハッシーからは、たまに連絡が来る。彼女は彼女で、新島孝弘とは別の男と最近結婚したとのことで、それなりに幸せにやっているようである。たまにマウントに近いような幸せアピールメッセージを送ってくるが、そういうのは全然問題ないと思っている。私のことを見下したり、しょうもない人生送ってるな、なんて馬鹿にされたところで、こっちの懐は痛まない。人間関係で一番怖いものは嫉妬心を向けられることであり、それがある閾値を超えたとき――そしてそれが具現化し、何らかの形で危害を加えられることが一番怖いのである。それこそ夜道で背後から殴られる、とかね。

 それはそれとして、今夜、私は田辺先輩に会う。元職場のドラストで再会をしてからだいぶん経ってしまったが、彼とディナーに行く予定があるのだ。先輩が提案したのは都内の二つ星レストラン。何のためにそんな高級なところに行くのか、と疑問に思いつつも、美味しいものは食べたいし、万が一、食事代を私が全額払う羽目になったとしても、どうせ今の私はややお金持ちのようだし、まあいっかとOKを出したのだ。もしかしたら、今後の作家生活を送る上でのヒントを得ることができるかもしれないしね。いつもよりちょっと早く、十七時に執筆を切り上げる。オフホワイトの、上品なワンピースに身を包み、美容院で髪の毛をセット。こういうおめかしをするのは、以前参加した友人の結婚式や、女子校の同窓会以来である。――なんだか、そういったことがかなり昔のことのように思えてきた。当たり前の幸せから、だいぶん遠ざかってしまった。

 そして、太い縁の眼鏡とマスク。仮にも有名人、女優やアイドルほどの知名度があるわけではないけれど、公に顔を晒したことのある人間は、多少なりとも変装をした上で街を歩いたほうがいい、といつも大輝に口酸っぱく言われている。

 大輝以外の男と二人で食事をすることに罪悪感がなかったわけではない。元の世界で、大輝と結婚したばかりのころ、「浮気の境界線はどこか」という話題で盛り上がった記憶がある。そのときに大輝は、「ほかの男の人と二人で出かけたら」と言っていた。男性としてはかなり厳しい基準だね、なんて言いながら笑ってしまったのを思い出したが、今の時点で私と大輝は赤の他人、恋人ですらないわけで、田辺先輩と出かけたところで――なんならそれ以上の関係になったところで、浮気は成立しないのだ。


「人を待たせるとはいい度胸だな」

「お待たせしました。……すみません、仕事が詰まっていたもので」


 約束の時間に遅れたわけでもないのに、田辺先輩は少し苛立った様子だった。確かに、彼は少しというか、時間にシビアでせっかちなところはあった。しかし、理不尽に人を急かすようなことは決して言わない人でもあったし、まるでこちらが必ず先輩よりも先に到着していなければならないような物言いも不思議に思えた。私の知っている田辺先輩じゃないみたい。それともあれか、私は人を見る目がないのか。元の世界で大輝と結婚して、彼は穏やかで思いやりのある人間でよかったな、とは思っていたけれど、それはあくまで偶然大輝がそうだったというだけの話であって、決して私に先見の明があったとかそういうことではないのだろう。まあ、そうか。大輝と付き合い始めたのも、彼と結婚したのも、決して私からアクションを起こしたわけではない。押し切られたとまでは言わないが、言い出しっぺは必ず大輝の方で、私はボケっとしたまま流れに乗ったまで。――仮に、若かりし頃の私がもう少し恋愛に積極的で、田辺先輩にアプローチをしていたとしたら、結局こういう未来が待っているわけなのだ。


「お前のために、わざわざ最寄り駅まで迎えに来た俺に対するねぎらいとかないわけ」


 呼ばれ慣れていない「お前」という二人称を、つい聞き流してしまいそうになる。――ああ、私のこと? みたいな。お迎えも、別に頼んでいないんだけれど。


「案内してくださるのなら、そんな楽なことはありませんけれど。……ありがとうございます、ではお言葉に甘えて?」

「お前、なんか変だな」


 まあ、変だろう。女子校時代も「変人ハルカ」なんて呼ばれたことはあったし(この場合、変人、という言葉は決して悪口ではなかった。どちらかというとユニークだね、くらいの意味合いで使われていたと記憶している)、私と田辺先輩が結構違うタイプの人間だということは分かっているので、彼が私のことを変だ、と思うことは全く変ではない(何言ってるんだ?)。そうですか、早く連れて行ってくださいよと私は彼にせがむ。腹が減った。ダイエットは明日から。

 ――そうだ、大輝は今夜何を食べるのだろう。仕事が忙しかったのか、田辺先輩に会う直前までLIN○に既読はついていなかった。あの狭い食卓でカップラーメンでもすするのだろうか。私が居候をするようになってから、「食事が健康的になったんですよ~」なんて言っていたけれど、それってつまり、一人なら不健康な食事で満足しているってことなんだよなぁ、とため息をつく。彼の分の夕食を作っていけばよかったか? それはやりすぎか? 大輝の妻でも何でもないこの世界において、私が彼にできるおせっかいは限られている。それがどうにも、もどかしい。

 こんなところに来て、大輝のことを思い出している場合ではないぞ、と自らを律する。今日、私が田辺先輩の誘いに乗ったのは目的がある。――この世界における私が、田辺先輩とどのような関係であるのかということを詳細に把握したかった。それに加えて、モラハラを働く男の特徴、そして他人から傷つけられたときの自身の気持ち、相手の表情など、今後の執筆に役立ちそうな情報をなるべく多く収集したかったのだ。


「……指輪代とか、マジでどうしてくれるんだよって」

「指輪、ですか。今でも持っていらっしゃいます?」


 田辺先輩は黙って目をそらした。婚約指輪、そして結婚指輪のことを指しているに違いない。そうすると、私と田辺先輩は婚約中だった? 婚約中に私は田辺先輩の元を去ったのだろうか。婚約破棄をしたのであれば、田辺先輩に婚約指輪を返している可能性は高いと思って質問してみたのだが、どうやら彼はその指輪を捨てることができないでいるのだろう。先輩は、そんな未練たらしい自分が恥ずかしい?


「まだ持っていらっしゃるのなら、ください。代金は私が支払いますから」

「いや、その必要はない。どんだけ馬鹿にするつもりだよ」


 いらだった様子で彼は手をひらりと振った。指輪の代金の話を始めたのは先輩の方なのに、と私は口をとがらせる。


「お前のおかげで、大恥かいたよ。親もがっかりだし、職場の直属の上司にも、婚約の件は伝えてあったからさ。――その辺、どう責任取るつもりだ」

「えっと、確認なんですけれど」


 私はヒートアップしそうになる田辺先輩を制する。


「婚約破棄の件って、一応解決しましたよね? ――それをまた蒸し返すのは、先輩がより一層不利になるだけなのでは」


 これはあくまで私の予想なのだが、私と田辺先輩の関係が切れたのは、数年以上前の話なのだろう。うっかり再会するまで、彼の情報は特段耳にすることはなかったし、田辺先輩とのいざこざを予想させるものといえば、自身の執筆するモラハラ物語だけだった。経験上、自身の経験を物語に昇華させるまでにはそれなりの年月がかかる。おまけに、婚約破棄がつい最近のことだとすると、それにしては自身の身辺が片付きすぎていた。弁護士等を通じての話し合いが行われたかどうかは定かではないが、少なくとも彼のモラハラの証拠を突き付けて、私が有利になるように別れることができているはずだと推測する。そうでなければ、仮にも有名人である私は、週刊誌やネットニュースで大きな話題になってしまっているに違いない。

 田辺先輩は鼻で笑うと、椅子の背もたれに身体を預けた。


「お前、何言ってるの? 別に蒸し返そうだなんて思っていないけれど」

「では、どうして今日、私をここに誘ったのですか」

「別に? 久しぶりに会ったから声かけとくかって。女同士で盛り上がりそうな、しょうもない小説ばっか書いてさ。俺くらいだろ、お前みたいなのをこういうところに誘ってやるのなんて」


 女性の趣味が悪い自覚は御有りのようですね――と言うのは、さすがにやめておいた。しょうもない小説。まあ、正直私もそう思っているからその辺は否定しない。


「読んでくださっているのですね。ありがとうございます」


 田辺先輩のイラついた表情を見るのが、なんだか癖になってきた。独特だ。彼はとても整った顔をしている。少しエキゾチックにも思える、大きな瞳。少し吊り上がったその瞳の、何がこんなに相手を委縮させるのだろう。学生時代に気づくことはできなかった特徴。――これを文章で表現するのであれば、どんな言葉を並べれば良いのだろう。鋭い眼光、は不適切か。冷たい光? 血走ってはいないな。マジで、これはどう表現すれば読者に伝わる?

 田辺先輩は私のことをゴミを見るような目で一瞥し、顔をそらした。観察しすぎたか。

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