第16話 テーブルマナーがなっていない
田辺先輩の苛立ち、焦り、そして侮蔑。自身の人生において向けられることのなかったそれらの表情を、一つ一つ、自身の心に刻み付ける。先輩は今、何を思っている? 彼の発した言葉で、私はどんな気持ちになった? 全部、全部覚えて帰らなきゃ。今は適切な言葉が見つけられない。そして、今までの
「お待たせいたしました、こちらアペリティフになります。お皿の手前側にありますのがチーズとオリーブのカナッペ、そして奥にありますのがサーモンのマリネです」
しかしながら、食欲>人間観察欲である。ウエイターさんが恭しく一礼して立ち去るや否や、私はナイフとフォークを手にした。
「おいしそう、いただきまーす」
家庭で食べる唐揚げや、旬だからとスーパーで買ったさんまの塩焼きの庶民的な味は大好きだ。しかし、たまにこういう高級レストランで、なんとも言葉で表現しがたい、複雑な味わいのあるご馳走をいただくのもまた一興。ご馳走を食べる機会といえば友人の結婚式だけれど、こういう厳かな雰囲気のお店で食事するのは――そうだ、元の世界で、結婚前に大輝の両親に挨拶をしに行ったとき以来か。大輝はあまり贅沢を好まない子だけれど、プロポーズ、結婚挨拶、その他記念日等、彼とは何度か一緒に高級レストランに訪れている。大体、こういうところに来ると、大輝は自分のテーブルマナーがおかしくないか不安そうに私に問いかけてきたものだった。知らん、好きなように食べろといつも適当にあしらっていたっけ。
「へぇ、小説家先生ともなると、こういう店も怖くないってか」
田辺先輩がまた嫌みったらしく何かを言っているが、食事がまずくなりそうなので無視。私はフォークとナイフをハの字に置き、ワイングラスを手に取った。ワインは正直、まったく詳しくない。しかし、前菜として出されたマリネと白ワインがかなり合うな、ということくらいは何となくわかる。田辺先輩から少し視線をそらし、ワイングラスを傾けた――透明なグラスの先には、女子校時代の友人の美玖がいたのだった。ロングヘアを丁寧に巻いた彼女は、先日の同窓会のときに着ていたのと同じワンピースを身に着けていた。懐かしさがこみ上げる。しかし今、私と彼女は赤の他人。声をかけに行ったらただの変な人である。それに向こうも男と一緒に居る。あれか、お見合い相手か、マッチングアプリで出会った彼氏か。いずれにせよ、デート中の美玖の邪魔をするような野暮なことはしまい。
「そうだ! 思い出した、前に俺の両親と食事したときさ。お前、ワイン倒したり食器を内側から使ったり、本当にどうしようもなかったよなぁ。あの時はマジで帰りたいと思ったし、こんなことで親に結婚反対されたらだりぃなって――」
「先輩、もしかしてアペリティフ、お口に合いませんでした? お魚、苦手でいらっしゃいましたっけ」
無性にイライラしたのだ。私は目を細めて、彼の綺麗に揃えられたカトラリーを眺めた。
「は? いや、まだ食ってる途中だけど」
「ああ、失礼いたしました。あの、一応こっそり申し上げておきますと、それ、食べ終わりの合図なので気を付けた方がいいですよ。店員さん、間違えてお皿下げちゃうかもしれませんから。高校で習いませんでした?」
「え、高校?」
「……忘れてください、こっちの話です」
私の過去の失態(もちろん、身に覚えはない)をあげつらう割には、本人はテーブルマナーには全く詳しくないようだ。ナイフとフォークを揃えて置くのは、ご馳走様の合図。一般的に、食べている途中であれば、フォークの背を上にして、ナイフと共にお皿の上でハの字に配置することになっている。――まあ、そんなことはどうでもいいんだけれど。田辺先輩は不機嫌そうにカトラリーを手にして、黙々と食べるのを再開した。彼の頬が少し赤らんでいるのを見て、ほんの少し胸のすく思いがしたが、そんな自分を嫌だな、と思ったりもする。本当はテーブルマナーがどうだとか、育ちがどう、なんてことを口に出すのは下品だと思っている。先ほど口を滑らせたとおり、私自身は女子校時代に多少勉強する機会があった。「テーブルマナー教室」と称して、学年全員でフレンチを食べに行く超お嬢様イベントが中高六年間の中で二度(一度目はフレンチ。二度目は和食)だけ設けられていて、そこで大まかな食事作法を学んだ記憶がある。そういう機会を与えられた側の人間は、それはまあ、幸せなことなのだけれど、それが当然だと思ってはいけないと常々思っていたはずなのに。混乱した状況下で不躾な言葉を浴びせ続けられたことに苛立ち、つい彼に恥をかかせるようなことを言ってしまったのは、私自身の美学に反するところである。
待てよ、でもこのエピソード、創作に使えるぞ。あとでメモしておこう。
カトラリーの件があってから、田辺先輩がとても静かになってしまった。――ねえ、どうしてこんな風になってしまったんですか? 心の中で問いかける。田辺先輩のことはある程度知っているつもりだった。勉強ができて、格好良くて、モテて、スポーツも万能で。見栄っ張りで勝気な性格も良く知っている。自分を良く見せようとして、いつも気を張っていたのも、よく覚えている。周囲の人間が少しの努力をことさら大きく誇張して「マジで俺、今日三時間しか寝てないわ」ってイキリ散らしているのを後目に、見えないように努力して、まるで楽して首席で卒業しました、みたいな顔をしていたけれど、本当は誰よりも真面目に研究に励んでいたことだって知っている。優しい一面だって知っている。だって、かつて居た世界――薬剤師をしていた私が田辺先輩と結婚した世界において、彼は身を挺して私を守り、命を落とした。そう、そういう人間でもあるのだ。田辺先輩は田辺先輩のままのはずで、変わったのは私の生い立ちだけだというのに、どうして。
「先輩、今日はこの後――」
「食べ終わったら今日はもう帰れ」
「この後、テレビとか観るんですか、って訊きたかったんですけど。人の話は最後まで聞いてください」
取り付く島もなく帰れと言われたことに反発し、つい余計なことを口走る。……しまった、せっかくの取材対象になんてことを。田辺先輩は、お前本当に変わったよなぁと言いながら食後の紅茶をあおった。
そのときだった。
「……あの、それはとても不誠実な話だとは思いませんか?」
私の斜め前、美玖のテーブルから、クリアな声が聞こえてきたのだった。――美玖が、涙の溜まった目でまっすぐに向かい側に座る男の顔を見つめている。
「美玖さん、あの」
「私、帰ります。今までありがとうございました」
彼女は自慢のブランド物の鞄を乱暴につかむと、席を立った。縋ろうとする男を振り払い、店の外に出たのだった。
なぜか、追いかけなければ後悔すると思った。幸い、デザートまで食べ終わっていた。食後のコーヒーを一気に飲み干す。
「私用事があって。――行かなきゃ」
「なんだよ、慌ただしいな」
「ごめんなさい、埋め合わせはいつかまた」
「埋め合わせって、お前なぁ」
呆れる先輩を横に、私は自分の財布をごそごそと漁る。――二万もあれば足りるかしら? 勢いに任せてお代をテーブルに置くと、私は美玖の後を追ったのだった。
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