第14話 ヘイトコレクター
読めば読むほど、「作家・中村遥香」が、心の中にある種の攻撃性や、歪みといったものを抱えていることを感じた。私はいじめを受けたことも、いじめを行ったこともないからか、他人が苦しむ姿を見て楽しむ気持ちが理解できない。その理解できない度合は、例えるならば「砂糖ってしょっぱいよね。遥香もそう思うでしょ?」「冬にコートなんて着たら寒いじゃん。遥香、絶対明日は半袖ブラウスをお勧めするよ」なんて言われたときくらい(言われたことないけど)。なんというか、定義からして違うよ、みたいな。
中村遥香の作品に共通するのは、登場人物のサディスティックさ。それは悪役の登場人物はもちろん、ヒロインと結ばれる運命にある男性にも強く見受けられる。ヒロインの彼氏がいじめっ子女子に対して、「ブスが僻み丸出しの行動すると、ブスが際立つけど?」と言い放つ場面は、中村遥香の書いた学生向け作品の
「作家・中村遥香」はきっと、作品の中でかつて自分を苦しめた人間に復讐をしているのだと思う。本当はあのときこうしてやりたかった。あのとき、自分のことを好きになってくれる人が居たら、いじめてきたあいつらの鼻を明かせてやれたのに――
作者の過去の体験から来る強い念や思いは、時として読者の心を強く揺さぶる。想像力に溢れた才能のある作家や、自分の知らないことであっても事前に下調べをしっかりする時間的余裕を持っている作家とは違い、私のような凡人はやはり、ある程度自身の体験を元にして物語を作るのが手っ取り早いし、リアルな感情を描くのが容易になる。そうすると、今の私が「作家・中村遥香」として小説を書くには?
「有馬さん。これから先、一緒に暮らしていくにあたって、お願いがあります。日常的に私のことを罵倒するようにしてくれませんか?」
「え?」
「毎朝毎晩。いや、できることなら顔を合わせるたびに、私のことをいじめていただきたいの。作品作りのためです、お願いいたします」
いじめられる辛さを知らなければ、「中村遥香」としての作品を書くことはできないと思ったのだ。
「何言ってるんですか?」
大輝のおびえたような表情を見て、なんかミスってるっぽいな、と思った。
マスカラを切らしていることに気づき、ドラッグストアに行こうと思い立つ。その前に一応自分の貯金額を把握しておくかとATMに寄る。元々の(おかしな夢を見るようになる前の)自身の貯蓄額の三倍以上あるな、と思いつつ、ATMを後にした。まあ、そんなもんだろう。ちょっとやそっとのことでは驚かなくなった気がする。
目当てのドラッグストアは、私が勤務していたところ。大きい店舗で、メイク用品がかなり充実しているのだ。本当は私、こういうコスメとか、可愛い洋服とか、結構好き。ブランド物にはそこまで興味はなかったとはいえ、自身をお気に入りのアイテムで着飾ることは毎日の楽しみの一つでもあった。――まさかそんなこと、私の友人や同僚は想像もしないと思うけれど。かつて居た世界で、私はあくまで垢抜けないアラサー既婚者女性であった。
「誰かと思いきや小説家先生じゃないですかぁ」
背後から声がして振り返る。そこには、田辺先輩が居たのであった。
「田辺先輩。……生きてた! 生きてたあああ」
私は思わず、彼の元へと駆け寄った。小さな声で「きっしょ」と言われた気がしたけれど、今はそれどころじゃない。
田辺先輩が、生きている。――大輝のことを大学在学中に裏切り、先輩と付き合うことになり、ほどなくして国試期間中に小説家デビューをした。そして、「中村」という名字のままであることを鑑みると、私は未婚である。離婚をしたのか、そもそも結婚しなかったのかは謎であるが、いずれにせよ、私と結婚生活を続けることにより先輩に訪れ得る悲劇は回避した、というわけだ。
小説家生活、万歳!
「元気にしていらっしゃいましたか」
「自分の趣味を優先して国試投げ出すような意識の低い女と決別することができた今となっては、それはもう元気に決まってるよなあ」
え、何ですか? きしょいっすね。つい悪態をつきそうになり、慌てて押し黙る。何の恨みがあってそんなことを言うの? 私は田辺先輩を睨んだ。
そして、中村遥香の作風を思い出す。胸キュン以外に、モラハラ夫、モラハラ彼氏ものの作品がかなりの数を占めていたこと。もしかして、田辺先輩が関係している?
そしてもう一つ、ちょっとがっかりしたことがある。この世界において、私はやはり薬剤師資格を持っていないということである。入退院、引っ越し、自身の仕事の把握でばたばたしており、まともに確認をしていなかったのだが、やはり私はあの小説を書いた後、薬剤師にはなれなかったのだ。先輩は「国試を投げ出した」と言っていた。――夢の中で『Trivial Matter』を完成させたとき、私はほぼ不眠不休、しかも脳をフル回転させ続けていた。作品を書き終えたのは、国試の一週間前。そこで体調を崩し、受験できなかったと考えるのが自然か。あの夢は、単に小説を新島孝弘に書かせるか、自分で書くかを選ばせるだけのものではない。薬剤師になるか、小説家になるか、私がそのどちらを選ぶのか、ということを示すものだったのだ。二つが同時に成立することは、どうやらあり得ないようだ。
私は、小説家としての私を生きていくしかない。薬剤師の資格を持たずして、やや不安定な職につき、自分には合わない作風を続けなければならない。正直不安しかない。私は確かにTrivial Matter原作者の中村遥香であることには間違いないのだけれど、そもそもこの世界における私とは育ちが違う。生ぬるい、しかし幸せな女子校生活を送り、大学で出会った大輝と滞りなく結婚をしただけの、平凡な女。
――ああ、これだ。私はある決心をする。
「先輩、また久しぶりに会えて嬉しいです。……過去のことは、本当に申し訳なかったと思います」
「今更分かったか」
田辺先輩は、ふんと鼻を鳴らした。おそらく、私がモラハラに耐えかねて彼との別れを切り出したのだろう。そう考え、謝ってみたのだ。
ここは、下手に出てやろう。
「先輩がいない時間を過ごして、ようやくわかったんです。――先輩が、私にとってどんなに大切な人だったか」
モラハラを働く人間は、往々にして自分が優位に立ちたがると聞いたことがある。
「……今更虫が良いことを言っているな、というのは分かっています。どうか、また私と一緒になってくれませんか」
私と再婚しろ、とも付き合って、とも言えなかったのは、シンプルにどちらが正しいのか分からなかったからだ。
「休憩時間が終わるところなんだ」
彼はそっけない様子で私のことをあしらう。
「後で連絡するから、ブロック解除しておけよ」
彼はそれだけ言うと、建物の中へと入っていった。
その日結局、マスカラは買わなかった。今週末に大輝を連れてデパートに行こう。たまには奮発してみたって良い。
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