第12話 杏仁豆腐=中村遥香

 『Trivial Matter』を完結させる夢を見る直前まで、私はごくごく普通の薬剤師だった。SNSすらまともにやっていない私にファンもアンチもあるわけがない。そうすると、そんな私に恨みを持って怪我をさせる、もしくは殺そうとする人間なんて、ある程度私のことを知っている者でないと不自然なのだ。警察の調べによれば、金品を奪われた様子もなく、「金を持っていそうであればだれでも良かった」系の強盗致傷とは考えにくい。お気に入りのエルメ○のバッグも無傷だった。そうすると、私はやはり、知人に恨みを持って怪我を負わされたと考えるのが順当である。まあ、あくまで推測であり、過去を変える夢に関する私の考察が正しければ、の話であるが。

 「ノックスの十戒」という言葉をご存じであろうか。推理小説を書く際の十個のルール――なお、これらのルールは必ずすべて守っていなければ推理小説として成立しない、というものではなく、あくまで目安なのだが、その中に「探偵は、超自然能力を用いてはならない」「探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない」というものがある。私のこれまでの考察は、「夢の中で過去を変える」という超自然能力を用いたものであり、そのような超自然能力を手に入れたのも偶然に過ぎない。これが推理小説なら、ゴリゴリの十戒違反だな、と一人苦笑する。


「ねえ、いつかノックスの十戒を全部破っているのに面白い! みたいな推理小説を書いてみたいんだけど」


 大輝にそう声をかけると、


「久しぶりにミステリを書かれるのは止めませんけど、『十戒全破り』それ自体は、アイディアとして使い古されてます。主に、ネット小説界隈で」


 と一蹴されてしまった。やはり小説家の世界は厳しい。

 少し軽口を叩いたところで、ふと気づく。――大輝がやった、という可能性はない? あの日、私はハッシーの家から出てくる大輝と目が合った。私のことに気づいた彼は、私のことを睨みつけ、挨拶もせずに去っていった。彼を振り、田辺先輩の元へと行ったことに恨みを持っているのだと理解したが、それを理由に私を……なんてね。


「どうしたんですか? 痛いところがあるなら、ナースコールを押すので遠慮なくおっしゃってくださいね」


 大輝の言葉に、私は張り付けたような笑顔で頷いた。

 自分の周囲に犯人がいるのかもしれないと思うと、何もかもが信じられなくなる。基本的に、食べ物のの差し入れはすべて断ることにした。毒が入っていてはいけないから。「血液検査の数値に問題があって病院食しか食べられないの」と言えば大抵の場合、角が立たずに済む。大輝は熱心に看病に来てくれたけれど、彼が居るときはなるべくカーテンを全開にし、周囲に誰もいない時には共有スペースに移動するようにした。ハッシーが来てくれたときも、両親が見舞いに来てくれたときも例外ではない。

 親や夫(だったはずの人間)まで疑うだなんてどうにかしている、というのは分かっている。勘違いしないでほしいが、私にとって、お世話になっている人たちを疑うことはもちろんつらいことである。つらいことだなんて被害者ぶるのもおこがましい、それらの無実の人間を疑うこと自体は「悪だ」とすら思っている。それではなぜ、不必要に彼らを疑い、自分の身を守ろうとするのか? ――もちろん、シンプルに「死にたくないから」。死にたくない以上、「疑わしき人間」は避けるべきなのであるが、特定の「疑わしき人間」だけを避けようと考えると、それはもう、本格的にその人物を疑っていることになってしまう。だからあくまで、「理論上、犯行が可能っぽい人物」をひとくくりにして注意を払うことで、私は人を疑う罪悪感から逃れようとしている。ミステリドラマで、警察や探偵が調査を開始するときに、怪しい・怪しくない問わず、とりあえず関係者全員にアリバイや事件・事故時の状況を訊き回るのと一緒だと思えば「ま、これも仕方のないこと」とあきらめがつく。





 そもそも、新島先生が一番怪しくないか? 退院前日、私は売店で購入したスナック菓子を食べながら不意に気が付いた(繰り返す怪我と入院で、体形維持とかマジでどうでも良くなってきた。ダイエットは退院後から!)。夢の中で『Trivial Matter』を書き起こしている最中に気が付いたことなのだが、私は新島宅にお邪魔をしたときに、おそらく彼に「杏仁豆腐」であることがバレている。あの日私は、ハッシーの暴言をきっかけに新島夫妻がケンカを始めたのを申し訳なく思い、まともに読んでいない新作『トロピカルデイズ』の話をした。――そのときにぼろを出してしまったのだ。「一生分の片思いをさせてください」という主人公のセリフを名言だという話をした際に、新島先生が少し変な表情をしたのが引っかかっていた。

 その理由は、私が書いた『Trivial Matter』のプロットを見れば明らかであった。あのセリフは『トロピカルデイズ』ではなく、『Trivial Matter』のに書かれたものだったのだ。ちなみに、新島先生が作品として書き上げた『Trivial Matter』にはそのセリフは入っていないので、私が「『Trivial Matter』と『トロピカルデイズ』をごっちゃにしちゃっただけですてへぺろ」と言い訳をしたところで、「中村(田辺)(有馬)遥香が『Trivial Matter』の原作プロットにのみ書いてあるはずのセリフをなぜか知っている」という事実は変わらない。それはすなわち、私が「杏仁豆腐」であることを意味する。

 新島先生は、『Trivial Matter』の思わぬ大ブレイクに困惑し、後悔しているようであった。良心の呵責に苛まれただろう。それ以上に、「あの『Trivial Matter』の新島孝弘」「青春ミステリに一石を投じた新島先生」などと呼ばれる度に、もしも『Trivial Matter』の原作に関する真実が世の中に知れたら、と恐れたかもしれない。そんな中、妻の親友だという女が、その真実を唯一知る「杏仁豆腐」であると知ったら。目の前に、すべての元凶が現れたとしたら――

 消そう、と思ったっておかしくない。







 大仰なことを考え、眠りにつくことができなかった次の日、私は警察にあることを知らされた。


「中村先生の傷の状況から、犯人は中村先生よりもかなり背の低い、力のない女性なのではないか、という話になっているんですよ」

「そんなことまでわかるんです?」

「ほら、中村先生の後頭部には傷があったでしょう。でも、その傷自体は擦過傷程度で、どちらかというと首とか、肩の打撲や傷がかなりひどかったじゃないですか」

「あー、そうらしいですね」


 いや正直、頭も首も肩も全てが痛すぎて、それらの痛みが混じっているから自分ではよくわからんけど、確かに医師からはそう説明を受けている。


「犯人は、あなたの頭をブロックで殴ろうとした。しかし、犯人の背が低く、力が弱いとどうなるか? ――よろめくなどして狙いが外れ、頭よりも下、首や肩により深いダメージを負わせることになる」

「怪我の状況からそんなことまでわかるんですか? 面白いです、小説に使わせていただこうかな」

「現場に落ちていたブロックは、通常の男性が両手を使えば十分に狙いを定めて振り下ろせる程度の重さでした。あなたの頭をめがけてちゃんと命中させれば、ちゃんと命を落とし得たはずです」

「命を落とし得たって、なかなか聞かない表現っすね」


 犯人が非力でよかったー!


「中村先生、何か身に覚えはないのですか? 一部のアンチから執拗な嫌がらせを受けていたとか、郵便物に変なものが入っていたとか」

「うーん……」

「そもそも中村先生、一部の女性から結構嫌われやすい作風なので、そういうことは日常茶飯事というか」


 大輝が横から口をはさむ。容赦ないな。


「そうですか。……難しいな、地道に聞き込みをしたり、近所の防犯カメラの画像を頼りにするしかなさそうです」

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