▽ 酔いどれのアサリ

 特にすることもなく、気がつくと、浅利はパチンコを打っていた。いや、することならいくらでもある。だた、何をどう始めればいいのかわからなかった。

 聞き込みをする? 誰に? 容疑者をどう絞り込む? マコトは? 連絡はない。これ以上協力してくれるかも怪しい。そもそも、俺は誰を捜している? これはわかる。殺人犯。政治家の何某を殺した殺人犯だ。しかし、警察でも見つけられない殺人犯を? そもそも殺人と断定できるのか? 自殺という線はないのか。

 浅利は考えをまとめるためにと外出し、その場に最適だとパチンコ店を選んだ。喧騒の中でこそ思考の静寂は生まれる、とそれらしいことを言い訳にしながら。現実から逃げているだけだというのに。

 こういうときに限って出玉は良く、珍しく儲けを出した。捜査がどうだとか容疑者がどうだとかはとっくに思考から消えていた。


 日が暮れると浅利は、低価格のガールズバーで安酒と女の尻を眺めて過ごした。それに飽きると、ようやく〈ロゼ〉を訪れた。他にどこにいけばいいのかも、何をすればいいのかもわからなかったからだ。とにかく、マコトを罵ってやらなければ気が済まない。そんな気分だった。

 入店すると、寄ってくる女には目もくれず、黒服の男たちを順に睨んでいく。つい数分前まで、女の尻ばかり追っていたというのに。

 店の奥から、ママが歩いてくるのが見える。決して走ることはなく、優雅にゆっくりと。しかし、表情は曇っている。

 ママが言葉を発するより早く、浅利はマコトを見つけた。大股でガサツに歩を進め、マコトの腕を掴むと、有無を言わせず通路口の喫煙所まで引っ張っていった。

 喫煙所では一人の黒服と、一人のホステスが談笑していた。彼らは綻んだ顔のまま浅利たちを見、そのまま固まる。

「邪魔じゃ! サボってんと中入っとれ!」浅利は巻き舌で怒鳴る。

 二人の顔が一気に曇り、黒服の方が言い返す。「誰やねん」

「おまえより偉いやつじゃ、ボケ!」

 それをどう解釈したのかはわからないが、男と女は顔を見合わせ、一斗缶に煙草を投げ捨てると、そそくさと店内に戻っていった。

 浅利は二人の背が見えなくなると、閉まりかけのドアを乱暴に蹴り閉め、階段の隅に置いてあった段ボールや空き瓶のプラスチックケースでドアを塞いだ。

 くしゃくしゃになったハイライトの煙草を取り出し、一息吸ってから、マコトを睨む。「どういうつもりや?」

「何がですの? また店に押しかけて、文句言いたいんは俺の方ですやんか。ただでさえ忙しいのに」

「阿呆。胸にてぇあててよう考えてみい。誰が約束をすっぽかした? 誰が俺の貴重な捜査時間を台無しにした? 言うてみい」

 マコトはため息をつく。「しゃあないですやん。俺だっていろいろあるんやし。俺がおらんでも勝手にうたんやからええやないですか」

「阿呆。最初の二人は来よれへんかったわ。連絡もできへん」

「それって誰のことですか?」

「名前なんか覚えとるかい。うたこともない女の名前なんか覚えられるかい」

「ちゃいますよ。うた女です。まさか、マユとちゃいますか?」

 浅利は視線を宙にやる。「なんて言うたかな。覚えてへん。でも、マユではなかったと思うで」

 マコトは小さく頷き、唇を噛む。

「なんや?」

「マユ、死んだんですよ」ニュース見てないんですか。マコトは表情でそう続ける。

「なんやと?」

「テレビでもやっとったでしょう? 原口麻友。会うはずやったマユのことです。店での源氏名はココロ言います」

「なんでや? 殺されたんか?」

「テレビのニュースではそう言うとりました」

「ちゅうことは、やっぱりこの店におんねやな。殺人犯が!」浅利は血が昂るのを感じる。

「なんでそうなりますのん?」

「なんでってそら……」浅利はうまく説明できない。熱くなった血液はすぐに冷めていく。

「俺……ママはね、浅利さんやと思うてますよ」

「そんなけったいな。なんで俺が知らん女殺さなあかんねん」

「でも、浅利さんが来てからなんですよ。それまで目立ったトラブルなんてあれへんかった」

「嘘つけ。よう来とるヤーさんがおるやろ。ほら、なんや……」

土方ひじかた組? やつらはなんも悪さなんてしよりませんよ」

「そんなわけあるかい。悪さするんがヤクザやないか」

 マコトはため息をつく。「キタは土方の領土シマですやん。そら、なんや悪さしよるんかもしれへんけど、〈ロゼ〉で暴れる意味があれへん。それよか、店で暴れよるボケをしばいてくれよる。せやからトラブルもないねん」

 浅利は奥歯を噛み締める。血が沸騰し始める。だが、今度のはあまりいい昂り方ではなかった。

「すんませんけど、もうんといてくれませんか?」マコトは下を向いたまま言う。「俺、やっとまともな仕事につけたんです。まだ見習いやけど。せやけど、店の人はみんなよくしてくれはります。このまま、ここで働いていかなあかんのです。それが俺の、やっと見つけた俺の人生なんです。頼んます。巻き込まんといてください」

 そう言い残すと、マコトは煙草も吸わずに下を向いたまま店に戻る。

 浅利は、マコトが消えていった薄汚い防火扉を見つめながら、くしゃくしゃになった煙草をフィルターの先まで焦がし、しゃぶるように吸う。

 なんの味もしなかった。

 

 パチンコにも飲み屋にも風俗にも寄らず、浅利は事務所へ戻った。

 感情の本質がわからず、どうしようもなくムシャクシャしたが、それをどう解消すべきかもわからなかった。思いつきで安いピンサロの看板を蹴飛ばしてはみたが、親指が痛くなるだけでなんの解決にもならなかった。自分の居場所だと信じていた夜の街から、逃げるように帰ったのは、誰にも会いたくなかったからだ。それがどんなに味気ない、上辺だけの会話だったとしても、無味無臭の事務的な会話だったとしても、会話という行為そのものをしたくなかった。人間の顔を見たくなかった。

 しかし、酒はやめられない。

 事務所に入る前から、浅利は何から飲もうかと、常備している酒類に意識を向けるようにしていた。そして、それがいくらか精神を和らげてくれた。

 が、浅利の願いは叶わない。

 事務所に入ると、自分が座るはずのデスクチェアに、見たこともない男がいた。そいつは偉そうにデスクに足まで乗せている。靴も脱がずに。もう一人の男は客用のソファに踏ん反り返り、これまたローテーブルに足を乗せている。

 このクソ暑い中、二人の男は背広を羽織っていた。いや、背広というほどフォーマルではない。黒いだけのジャケット。黒いだけのスラックス。黒いだけの革靴。それだけなら礼儀正しく見えなくもないが、シャツが悪い。こんなけばけばしいド派手な柄シャツをジャケットの下に着る人間は、礼儀正しいはずがない。不法侵入という無礼を働くことに不思議はない。

「アホほど暑いな。クーラーあれへんのか?」デスクチェアに座るペイズリー柄の男が言う。後ろに撫でつけた髪がジェルと汗でテカテカと光る。

「ぶっ壊れた扇風機しかないやんけ」ソファの豹柄シャツが言う。三つも開いたシャツのボタンは胸筋を見せつけているとしか思えない。はち切れそうな筋肉は、服の上からでも十分確認できた。「儲かってるようには見えへんな」

「バブルが弾けてから、ずっと不景気や」浅利は主導権を握らせまいとハイライトの煙草をくわえる。オイルライターを弾くが、なかなか火がつかない。

 柄シャツの二人はニヤニヤと粘っこい笑みを浅利に向ける。

 ようやく煙を吸い込んだ浅利は、言葉を吐く。「ほいで、誰よ、おたくら?」

「誰でもええやろ」豹柄がテーブルから足を下ろし、前のめりになる。「貴様ワレ、ごっつい羽振り良さそうやないけ。どこから金が湧いてくるんかいのう」

「なんのこと言うてるんかわかれへんけど、パチが当たることもあるからなあ」

「舐めとんのけ、コラ!」豹柄が巻き舌で怒鳴る。

「舐めてほしいんやったら風俗ソープ行ったらええんちゃうか。ここより涼しいで」浅利の指に挟んだ煙草から灰が落ちる。

「待てや、幻騎げんき」立ち上がった豹柄を、ペイズリー柄が制止する。

 豹柄はおとなしく従い、勢いよくソファに座り、反動でなびいた髪を耳に掻き上げる。剃り込みの柄がよく見えるようになり、それが豹紋であることがわかった。

 どうやらペイズリー柄の方が身分が高いようだ。

「なあ、浅利海人。俺らが来た理由、心当たりがあるんとちゃうか?」ペイズリー柄は言う。

「闇金に金借りた覚えはあれへんな」

 ペイズリー柄は両足をデスクから下ろし、首を回して骨を鳴らす。「煽ってるつもりなんか? それともほんまに借金取りやと思うてんのか? ヘボ探偵、ワレごときのしょうもない端金とりに、わざわざ土方組が来るわけないやろ」

貴様オドレらが何しよるんか、俺が知るわけないやんけ」浅利は指に挟んだ煙草を一口だけ吸う。「金やないんやったら何の用や? ヤクザに恨まれる覚えはないぞ」

「ほんまにそうか?」ペイズリー柄はスラックスから何かを取り出し、浅利に投げる。

 浅利の胸に当たったそれは、足元に落ちる。〈ロゼ〉のマッチだった。

「ワレみたいな小汚い貧乏探偵が遊ぶにゃ、ちと高いと思わへんか?」

「せやな。もうちいと金があったら、遊んでみたいところや」

「おい、あんまいちびってんとちゃうぞ」

「なあ、土方さんや。おたくら、なんか勘違いしてんとちゃうか? 確かに〈ロゼ〉には行った。それは認める。せやけどな、客として行ったわけやないねん。昔世話したやつが働いとっての、そいつの様子を見に行っただけやねん」

「そら、マコトのことを言っとるようやな。ボケが。マコトにうたんは偶然やろうが。何をコソコソ嗅ぎ回りよんねん?」

 浅利は大袈裟に肩をすくめる。「おたくらに関係することとちゃうで」

「土方のシマで勝手しくさっとんのにか? ええ加減にしくされよ」ペイズリー柄は巻き舌で怒鳴り、靴底でデスクチェアを蹴り飛ばす。デスクチェアは壁に当たって横転し、脚のキャスターがくるくるとコマのように力無く回る。「店の女にもてえ出したようやないけ」

「何のことかわかれへん」浅利はドキッとしたが、何とか態度に出さずに済んだ。

「まだとぼけよるんか。ココロが死んだこと、知らんわけやないやろうが」

 その女がどういう女なのかはわからなかったが、ココロというのが源氏名だということだけ、浅利は覚えていた。つまり、一晩の相手に買った女とは別人だ。それがわかり、浅利は少しだけ安堵した。

「俺が殺したんやと疑っとるみたいやけどな、それは勘違いや。そんな女、知らん」

「アホか。ワレが会おうとしとったことは知っとんねん」

「それは……」

 豹柄がテーブルを蹴る。「兄貴トノ、こいつ舐めくさっとりますわ。しばいたりましょうや。ヤクザっちゅうもんを身体に叩きこんだりましょ」

 今度は、ペイズリー柄は制止しなかった。黙って、笑みを浮かべる。それが、豹柄へのゴーサインになった。豹柄は片足をテーブルにかけ、跨ごうとする。

「本棚や!」浅利はありったけの声を振り絞る。その大声が虚を衝き、二人のヤクザ者の動きを止める。「おまえらの探しとるもんは本棚や! 後ろ見てみい!」

 柄シャツは揃って背後を振り返る。が、浅利探偵事務所に本棚と呼べるようなものはなく、本と呼べる類いのものは存在しなかった。二人が振り返るより早く、入り口のドアが音を立てて閉まる。

 浅利は全速力で走る。階段を飛び降り、一階に着くと、階段の陰にある共同トイレへ飛び込む。曇りガラスの窓を開け、不恰好によじのぼる。中年太りの身体はひどく重かったが、何とか窓を越えることができた。背中から土の上に落ちる。左肩を痛めたが、苦しんでいる時間はない。泥も払わず、歯を食いしばって走る。植樹帯の陰に這いつくばるように身を隠し、左手を噛んで無理やり息を殺しながら背後を見る。柄シャツの姿は見えない。

 辺りに気を配りながら、通りに出る。まともに追いかけっこしたんじゃ、小太りの俺では逃げ切ることは不可能だ。浅利は路地に入り、私有地だろうがなんだろうが、お構いなしに進む。明確な目的地はなかったが、とにかく事務所から離れ、人通りの多い場所を目指した。

 町工場の敷地内で、建物の陰に隠れて数分間息を整える。資材を踏み台にして塀を乗り越え、通りに出る。足から着地できたが、痛めた左肩がさらに悲鳴を上げる。そこで、声をかけられた。

「何をしとるんや」

 驚きのあまり浅利は尻餅をつく。見上げるように声の主を見るが、暗がりで顔はよく見えない。男ではあるようだが、ヤクザ者ではないようだ。

 顔の見えない男が言う。「おまえ……浅利か?」

 その声で、浅利には男の正体がわかった。深く長い息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。それでも、左肩は痛んだ。

「驚かせんといてくださいよ、たっつぁん」

「阿呆。驚いたんはわしの方や」芹澤せりざわ辰哉たつや警部は、眉間に皺を寄せたまま口元だけを緩める。「こないなところで何しとん?」

「ヤクザもんに追われとりましてね。たっつぁんこそ何しとるんです? 管轄から外れすぎとちゃいますか?」

「大阪がわしの管轄や。それよか、おまえ、ヤクザと揉めとんのか? 土方組とちゃうやろな?」

「さすが、たっつぁん。せやけど、揉めてるわけとちゃいますよ。ちょっとした勘違いですねん。柄シャツの二人組、何ちゅうたかな……豹柄の、剃り込みまで豹柄の男はゲンキって呼ばれとったな。それと……殿トノとか呼ばれとったな」

外岡とのおかいつき沖中おきなか幻騎げんきやな」芹澤は記憶を辿るように夜空を見上げる。「またえらいもんにめえつけられよったな」

殿との外岡トノをかけとるんですかい。けったいなやつらや。たっつぁんなんで知っとるんです? マル暴とちゃいますやろ?」

「腐っても府警本部の刑事デカやからな。おまえ大丈夫なんか? 勘違いを素直に認めるほどできたヤクザとちゃうぞ。バリッバリでイケイケのヤクザと聞くで」

「大丈夫とちゃいますよ。たっつぁん何とかしてえや」

「阿呆。自分のけつは自分で拭かんかい」

「そんないけず言わんといてくださいや。せや、たっつぁん、飲み行きましょうや」

「なんでそうなんねん」

「一人になったら危ないですやん。さすがにあいつらも、刑事デカと一緒やったらなんもしてきよれへん。明るくなるまで一緒にいましょうや」

「明るくなったら無事やと思うとるんか? 甘いのう。ほんまに探偵やっとんか? その気になったらあいつらに昼も夜もあれへんぞ。さっさと逃げたらどうや」

「ほんなら、たっつぁんが逃してくれはりません?」

「なんでやねん」

「頼んますわ」

 芹澤はため息をつき、小さく笑みをこぼす。「一杯だけやぞ。飲んだらビジネスホテルにでも泊まるんやな」

「たっつぁん!」浅利は犬のように芹澤に擦り寄る。

「気色悪い!」芹澤は浅利を突き放したが、口調は穏やかだ。「おまえ……ちょっと臭うぞ。風呂入ってへんやろ」

「事務所に風呂ないねん。言うてへんかった?」

 汚れきった中年の男たちは、部活帰りの中学生のように連れ立って夜道を歩いていく。

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