▽ 酔いどれのアサリ

 何がどうなっている? 

 突然の花火にパニックになった浅利だったが、冷静さを取り戻させたのも花火だった。いや、花火に紛れる実弾の銃火だ。似通った音でも、あの乾いた殺戮の銃声を聞き間違うはずはない。

 状況はまったくもって理解できなかったが、やつらが殺し合いを始めたのは確かなようだ。すでに、死体が二つ転がっている。花火は誰のどういう意図だ? わけがわからないが、煙で視界が悪くなっている。逃げるチャンスだ。

 浅利は前屈みになり、少しでも的を小さくしながら、必死で出口へ駆けた。穴の空いた薄い靴下に足を守る機能はなく、地面から直接攻撃を受けているように痛んだが、気にしている暇はなかった。

 後ろで銃声が聞こえた。重力に押し負けるように地べたに転んだ。両手に手錠をつけられていたせいで受け身を取り損ない、顔から落ちた。鉄の味が口の中に広がる。舌で前歯に触れると、少しだけ欠けているような気がした。が、痛むのはそれだけだ。銃撃は受けていない。振り返らず、走り出す。どれだけ無様だろうが、なんとしてでも生にしがみつく。

 そうして、浅利は地獄から抜け出した。

 体力はとっくに尽きていたが、なんとか足を進めた。コンクリートや石、人工物の破片で靴下の裏が裂けた。剥き出しになった皮膚から血が滲み出る。裸足同然の足は、自然と重くなる。自分では走っているつもりだったが、速度は子供の三輪車よりも遅かった。それでも、確実に前へ進んでいた。

 やっとのことで通りを折れ、コンビニの灯りを目にすると、ホッと胸を撫で下ろす。ブロック塀に背を当ててその場に座り込んだ浅利の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。入ったこともない店の、見飽きたコンビニの眩しいロゴが、砂漠のオアシスのように見えた。

 しばらく息を整えると車道を横切り、コンビニのベンチに倒れ込む。手錠のついたままの手でポケットをまさぐり、くしゃくしゃのハイライトに火をつけた。煙草の煙は、至福の味がした。

「こんなところで何をしているんですか」

 慌てて振り返ると、人見がいた。人見は端正な顔を歪め、浅利の全身に視線を走らせる。

「酷い顔……酷い格好ですね」人見の視線が、浅利の手を縛る手錠で止まった。「こんなときに……」いつもに増して温かみのない口調だったが、今の浅利の耳には、それも心地良い響きに聞こえた。

「ジブンが考えてるようなプレイとちゃうで。命からがら逃げてきたところや」浅利は煙草を指に挟み、手錠を人見に向ける。「これ、どうにかしてくれへんかな?」

 

 翌日、テレビのニュースで外岡樹と沖中幻騎の死亡を改めて知った。NPO法人が所有する花火保管倉庫で、その現場からは職業不詳の蛙田かえるだ遥希はるきの遺体も見つかっていた。浅利は、それが誰で何の目的でそこにいたのか、ニュース以上のことを知っていたが、それについて他言することも行動を起こすこともなかった。そこにいたはずのもう一人の痩せた男––––がま景一郎けいいちろうについて報道されることはなく、彼がどうなったのか、彼の名前すらも金輪際知ることはない。

 浅利はビジネスホテルで三日を過ごした。外には一切出ず、焼酎と塩だけを栄養にした。時折口にするピーナッツや水を除けば、その他に摂取したのは、ニコチンだけだった。一日のほとんどをテレビの前で過ごしたが、内容はまったくと言っていいほど頭に入らなかった。それどころか、過度の飲酒により常に朦朧もうろうとしているせいで、現実と幻影の境目は曖昧となっていた。テレビに流れる映像は本当の映像なのか、それとも浅利の脳が見せている映像なのか、区別ができなかった。

 四日目には買い置きの酒が切れ、仕方なく水道水だけを飲み、一日寝て過ごした。テレビを消すことはしなかった。静寂と孤独がたまらなく怖かったから。

 五日目、目覚めるとアルコールが脳にかけるもやは消えた。しかし、頭痛がなくなるはずはなく、めまいや腹痛を携えて浅利を襲った。そのせいでさらに気力をなくし、質の悪い睡眠が増えた。朝と夜はなく、ダラダラと時間だけが流れていく。繰り返し続けた二度寝から目覚め、窓を挟んで外の世界を見ると、すっかり暗くなっていた。何時なのかはわからないが、ガラクタの通販番組が流れていることを考えると、午前三時前後なのだろう。

 浅利は狭いバスタブに湯を張り、飛び込んだ。入れすぎたせいで溢れた湯が、ユニットバスのトイレ側の床を濡らしたが、気にすることはない。身体をかきむしると、こぼれ落ちた垢でバスタブが濁った。足の裏の傷は治り始め、寝転がっているときは痛みを忘れられたが、湯に浸かると思い出した。裸足で歩いたコンクリートの感覚までもが蘇ってきた。いつぞやに痛めた肩が痛み、歯と口内が痛んだ。頭や腸も、殴られたように痛い。熱い湯が、身体の内外の痛みを炙り出しているようだった。

 バスルームに備え付けられたオールインワン・シャンプーを頭から全身に浴びる。清潔な泡が傷に染みたが、それがどこの傷なのかは判別できなかった。たっぷり時間をかけて身体中を洗い、バスタブよりも熱いシャワーで流した。何が痛くて、何が気持ち良いのかもわからなくなっていた。

 自ら濡らした床でふらつきながら、洗面台で歯を磨いた。ミントが傷に染みた。鏡の中の中年男は、ひどくくたびれて、痩せてはないのにやつれていた。病人のように顔色は悪く、蒸気の曇りが死神のように中年男に張り付いていた。

 バスルームを出ると裸のままベッドに寝転んだ。髪も身体もまだ湿っていた。このまま眠ってしまおうかと目を閉じたが、意思に反し、身体は睡眠を拒んだ。人間は眠り続けられるようにはできていないらしい。

 上体を起こして立て続けに二本の煙草を吸った。苦味が舌の上から喉の奥へと伝わる。禁煙の部屋だったが、そんなものは何の意味も持たなかった。灰皿代わりの発泡酒の空き缶からは、吸い殻も灰も溢れかえっていた。

 身体が乾くと新しい服を着た。酒と同様に、人見から最後に受け取った金で買ったものだ。

「調査は終了です」

 倉庫から逃れたコンビニの前で、人見は言った。調査が何を指すのかすぐにはわからず、浅利は呆けた顔をしていたが、人見の皮肉が飛んでくることはなかった。憔悴しきった顔のおかげだったのかもしれない。

「金子岳郎殺害についての調査は終了となりました」

「犯人が見つかったんか?」

 人見は首を振った。

「ほんなら……」

「終了です」人見は浅利の言葉を遮り、深く息を吐いた。「お伝えしていた通り、お渡しした報酬の返却は求めません。この件からは手を引いてください」

「犯人はまだ見つかってへんのに?」浅利は食い下がった。「政治家を殺した犯人なんやろ? こないに早く終わらすんはおかしいんとちゃうか?」

「あなたが知る必要はありません」人見の声は、いつにも増して冷たかった。「もしもあなたが独自に調査を進め、犯人にたどり着いたとしても、我々は一切の報酬は払いません。それでもよろしければ、調査を続けてくれて結構です。しかし、覚えておいてください。あなたと私が接触した事実はありません。おわかりですね?」

 浅利は力なく笑うと、煙草を放った。「もしかして、土方組ヤクザと関わっとんのけ?」人見の表情や態度の変化を観察したが、何も読み取れるものはなかった。

「発言にはお気をつけください。口は災いのもとですから」

 浅利は肩をすくめ、くしゃくしゃになった最後の煙草をくわえた。ライターを取り出そうとポケットに突っ込んだ手を出すと、小銭がこぼれ落ちた。缶コーヒー一つ分ほどの金額にしかならなかったが、地べたに這いつくばって、ベンチの下に手を伸ばした。それ以外の金を持ち合わせてはいなかったから。数千円が入っていた財布とラブホテルで人見からもらったマネークリップは、おそらくカエルとガマに抜き取られていた。

 それを察したのか、人見はプラダのシックな財布を取り出し、紙幣を数枚抜き、浅利の方へ向けた。

「なんや、これは?」浅利は、紙幣を見つめたまま言った。まだ、手は伸ばさなかった。

「何があったのかは聞きませんが、その傷は、少なからず私の依頼が原因なのでしょう。これは、それに対するお詫びとお礼です。受け取ってください。プライドが許さないのであれば、後で破り捨ててくれても構いません」

 浅利はくわえたままの煙草に火をつけ、たっぷりと煙を吐くと、乱暴に紙幣をひったくった。「プライドやと? そんな犬でも食えへんもん、とっくに捨てたわ」

 人見は小さく微笑むと、深々と頭を下げた。

 それが、彼女と会った最後だ。

 浅利はフィルターの先まで煙草を吸い尽くすと、ボロボロに破れた靴下をコンビニの灰皿に脱ぎ捨て、裸足のまま歩き出した。

 しばらく歩くと、西成区にいることがわかった。最初に見つけたコンビニに入り、手にしたばかりの一万円札でハイライトを一パック買った。記憶を頼りに歩き、路上生活者たちの蚤の市区画にたどり着いた。夜明けにはまだ少し時間があったが、いくつかの店は開いていた。店といっても、ブルーシートの上に商品が並んでいるだけだったが。そして、そのほとんどは盗品かどこかから拾ってきたものだ。都合がいいことに、ここでは裸足で外を歩く者も珍しくはない。

 浅利は、起きているのか眠っているのか判断がつきにくい老人の開くブルーシートの店で、片方だけのサンダルを買った。サイズもブランドも––––ブランドと呼べる代物ではなかったが––––違ったが、二つの露店で左右のサンダルを揃え、裸足からは解放された。どちらの店も、うまい棒三本分の値段だった。金を払う価値のないサンダルだったが、裸足でいるよりはましだった。左のサンダルを買った露店で、阪神タイガースの野球帽を見つけ、ついでに買っておいた。きっとゴミ捨て場から取ってきたものだ。それくらいひどい臭いがした。

 それから別の露店でボロボロの自転車を買った。交渉の末、八百円まで値切った。放置自転車を運んできて売っているのだろう。備え付けの鍵は壊されていた。代わりのチェーン式の鍵は、どの露店でも見かけなかった。もとより、買うつもりもなかったが。パンクさえしていなければよかった。

 カゴがひしゃげた自転車にまたがり、無灯火運転で〈新世界〉のドン・キホーテに向かった。スニーカーを含めた衣類を一式を購入できる二十四時間営業の店は、ここが一番近い。サンダルを買ったのは、ドン・キホーテに入るためだった。いくら新世界のドン・キホーテだとしても、裸足の客は不審すぎる。

 衣類に加え、数日分の安酒と少量のつまみ、煙草のカートンを買うと人見からの「詫びと礼」はほとんどなくなった。酒類を運ぶためのバッグ––––ビニール袋で運ぶにはあまりにも重い––––は返品しようかと悩んだが、数千円は手元に残ったため、そのまま買うことにした。

 鍵をかけずに止めておいた自転車は、無事にドン・キホーテの駐輪場に残っていた。

 生野いくの区に移り、一番安いビジネスホテルで一週間分の部屋を抑えた。料金は後払いにしたが、デポジットで残りの数千円はなくなった。有金はポケットの小銭しか残っていない。だが、問題はなかった。金があろうがなかろうが、宿泊費を払うつもりはなかった。

 宿泊から五日、買いだめた安酒を飲み干すと、ドン・キホーテで買った新しい服を着た。ハサミは見当たらなかったから、服のタグは手と歯で引き千切った。飲み散らかしたゴミとそれまで着ていた異臭を放つ服はそのままにし、お気に入りのジャンパーと残った煙草のパックと塩の小瓶をバックパックに詰めた。

 野球帽を目深に被り、部屋を出た。ホテルスタッフに引き留められやしないかとびくつきながらロビーを横切ったが、あるのは監視カメラだけで、人の姿はなかった。

 ホテルの外に停めていたオンボロ自転車はまだそこにあったが、「撤去するぞ」と脅しの札が貼られていた。乱暴にその札を剥ぎ取ると、自転車を漕いだ。

 まったく、散々な目に遭った。どこぞのおっさんを殺した犯人を捜していたはずが、会ったこともない女を殺したと疑われ、ヤクザに狙われ、わけのわからんデブとガリに捕まった。危うく死ぬところだった。いや、死ぬより酷い目に遭っていたのかもしれない。

 浅利はペダルを漕ぎながら考える。

 土方組の脅威が去ったわけではないだろう。が、外岡と沖中が死んだことで、少しだけ有利になった気がする。蛙田デブの死体が見つかったことで、府警は捜査本部を設置したはずだ。何を捜し、何が見つかり、何が見つからないのかはともあれ、捜査は厳戒態勢が敷かれる。当然、土方組にも捜査の手が及ぶ。そうなれば、土方組は派手な動きを避けるはずだ。俺を追うことも中断する。いずれは本腰を入れて襲いにくるだろうが、捜査本部が解散した後のことになる。まだしばらくの猶予はある。女の件でどれほど俺を疑っていたのかはわからないが、組員が二人死んだ今回の件は、確実に俺の仕業だと断定するだろう。生き残ったガリの動向も気になるところだ。外岡とは敵対したようだったが、やつが亡き今、土方にすべては俺の仕業だと垂れ込んでいる可能性もある。どう考えても、土方組の襲撃からは逃れられない運命にある。

 警察の方は? おそらく大丈夫だ。いずれは花火倉庫の現場に俺がいたことを突き止めるだろうが、テレビで見た焼け具合では、現場検証からDNAを採取するにはまだ時間がかかる。自らの手で俺を捕まえたい土方組が、俺の情報を警察に漏らすとも思えない。たっつぁんだけは俺が関係していると勘づくかもしれないが、寛大に対応してくれるような気がする。そもそも、捜査担当になっていない可能性もある。きっと、大丈夫だ。

 浅利は楽観的とも思える結論に至り、探偵事務所の入る雑居ビルの近くまでたどり着いた。ゆっくりと蛇行するように自転車を漕ぎながら、周囲に隈なく視線を走らせる。遠くの空が色づき始めていたが、あたりはまだ暗い。確信は持てなかったが、潜んでいる人間はいないだろうと判断した。

 雑居ビルが見える電柱に、自転車を立てかける。しばらくすれば、誰かがこの自転車に乗り、やがては西成の露店に並ぶだろう。

 早起きの蝉が鳴き始めていた。夜明けが迫っている。

 事務所のドアは開いていた。鍵穴には小さな傷がいくつもついていた。浅利は足でドアを押し、中に入った。

 放置された死体の放つ異臭を覚悟したが、臭いはおろか、死体もなかった。部屋は荒らされたままだったが。人見は、本当に死体をどうにかしたようだ。その手段は見当もつかなかったが、考えている時間はない。

 浅利はゴルフクラブを刀のように持ち、警戒しながら、部屋を進んだ。

 物音がした。寝室として使っている部屋の中からだ。ドア半開きになっている。

 猫か? ネズミか? 現実でもコミックでも、そうだったことはない。

「誰だ!」浅利は怒鳴った。ゴルフクラブを握る手に、力が入る。「出てこんか、アホンダラが!」

 何かにぶつかったような音がし、寝室のドアが開いた。

「何しとんねん、おまえ」浅利は振り上げていたゴルフクラブをゆっくり下ろした。

「いや、ちゃいますねん。その……」マコトと身体の前で両手を動かした。何のジェスチャーなのかはわからなかったが、両手を上げる降参のようにも見えた。意味などないのだろうが。「浅利さん、土方組ヤクザに狙われてますねやろ? ケータイに連絡しても繋がれへんし……心配になって来てみたら、事務所がこんなんなってもうてて……」

「ほんまえらい目うたで」浅利は気が抜けたように笑い、煙草をくわえた。「部屋に変なもんはなかったか?」

 マコトは眉を顰めた。「変なもんって何ですの?」

 死体、と言いかけてやめる。「変なもんは変なもんや。誰もおらんかったか?」

 マコトは頷く。「鍵、開いとったんで浅利さんがおるんかな思うたら、おれへんで、こんなぐちゃぐちゃなって……倒れてんちゃうかな思いましたよ」

「そら心配かけたな」浅利は照れ臭そうに頬をかく。自分を心配してくれる人間が、まだこの世に残っているとは思わなかった。「おまえの方こそ、店は大丈夫なんか? 外岡っちゅうのが死んで、大変なんとちゃうか?」

「いや、別に店は……警察も動いてますからね。シマを奪ったろう、みたいな別のヤクザが来ることもあれへんし、元々安全な店なんで。土方組ヤクザとも言うほど関わりあれへんのです」

「女の子の方は? ほれ、なんでか俺が疑われとるやつ」

「さあ。最初は警察も来よりましたけど、しばらくは見とりませんね。ああ、別に浅利さんのことも聞かれたりしてませんよ」

「そら、そうやろ。俺が疑われる要素がないわ」浅利は安堵を煙で吐き出す。

 穏やかな沈黙。

 浅利としてはそれほど悪くない沈黙だったが、マコトにとってはそうでもないようで、居心地の悪さを破るように話し出した。

「すんません。俺が……手伝っとったら……」

「やめえや。辛気臭い」浅利は戯けたように顎髭を触る。「傷だらけの方が男も上がるっちゅうもんや。痩せたしのう、どうや? 男前になったんとちゃうか?」

 マコトは声を出して笑う。泣き出しそうな顔だった。

「何をわろうとんねん」浅利は、マコトに喋らせまいと言葉を紡ぐ。「もうええから。早よ帰りや。これ以上、関わらん方がええ」

「浅利さ……」

「ええねん。俺は大丈夫や。巻き込んですまんかったな。元気でやりや」

 マコトは思いつめたように突っ立っていたが、やがて逃げるように走り出す。

「ほなな」

 浅利は、マコトが事務所を出るのを見届けると、短くなった煙草を床に落として踏み消した。これだけ荒らされていたら、灰皿に捨てようが捨てまいが大した違いはない。

 入り口のドアを閉め、鍵をかける。何か妙な感じがした。

 寝室に戻ると、ベッドの下から段ボールを取り出し、高校と中学の卒業アルバムを開いた。中のいくつかのページは薄く糊付けしてある。それを剥がすと、ページの隙間には一万円札が隠してあった。高校のアルバムには計十万円が隠してあり、中学の方には手書きのメモが隠してあった。警察時代を含めたこれまでの調査で得た売人や密輸業者のリストやその他多くの情報が隠してあった。

 それらをパンツのポケットに捩じ込むと、次に、ベッドサイドテーブルをずらし、床のタイルをマイナスドライバーでこじ開けた。タイルの下から、年代もののポルノ雑誌が現れる。ポルノ雑誌の下には、ベニヤ板が敷いてあった。こじ開けられた形跡はない。板を剥がすと、中のアルミ缶は無事だった。ホッと、小さく息を漏らし、ロック式の錠の番号を揃えた。アルミ缶の中には、丸めて輪ゴムで止めた紙幣と写真とラクダ色のファイルが入っていた。

 丸めた紙幣の束とファイルをポケットにしまい、折れ曲がった写真を眺めた。一枚は家族の––––まだ温かい家庭だった頃の写真だ。浅利は写真の表面を優しく撫でると、お気に入りのジャンパーのポケットにしまった。

 残りの写真は、警察官の写真だった。それを使って何かをしたことはないし、するつもりもなかったが、もしもの備えにはなる。もしも自分ではどうしようもならない状況に陥ったとき、その写真が力を発揮するかもしれない。その中には、芹澤辰哉の写真もあった。

 写真を一枚ずつ捲る。されほど熱心な警官ではなかったはずなのに、思いいれや未練などないはずなのに、過去が溢れてくる。それまで忘れていて、思い返すこともなかった過去が蘇る。青春の匂いさえ漂ってくる気がした。

 その中の一枚が、どうしてか気に掛かった。写っているのは、何十年もおっさんを繰り返しているような男だ。浅利はその男の名前も肩書きも覚えていなかった。男は笑顔で、金髪の髪の長い若い男と写っていた。

 次の写真を見る。別の中年男。この写真も、いつ、どこで撮ったものなのかは覚えていなかった。覚えのないおっさんが二人、車から降りる様子が切り取られていた。

 さらに別の写真。二枚目のおっさんが写っていた。どうやら、後をけていたようだ。車から、どこかへ向かう姿が、コマ送りに撮ってあった。そういえば政治家だったような気がする。別の政治家に依頼された仕事だ。相変わらず、名前は思い出せないが。何枚目かの写真から、一枚目のおっさんと写る若い男が登場した。そのときの状況に覚えはないが、どこで撮ったのかは写真を見ればわかった。そして、眺めているうちに、男が誰なのかもわかった。

 金子岳郎。死んだ参議院議員だった。今より––––死んだときよりは随分と若いようだったが、間違いはない。

 まさかこんなところに––––

 人見の顔が浮かぶ。アドレナリンが身体を滾らせ、脳が活性化し始める。浅利はベッドの上に写真を並べ、見比べる。

 金子武郎の調査が急遽打ち切りになったのはなぜだ? 土方組の介入? 違う。犯人が誰だかわかったからだ。ヒントは、こんなにも近くに転がっていた。

 愛人が金子武郎議員を殺した。それは正しかった。間違ったのは先入観。愛人、イコール女だという先入観だ。金子の愛人は男だった。人見は、いつこれに気がついた? 

 浅利は写真から目を離さずに煙草に火をつけた。

 違和感––––

 写真に写る若い男の髪は長い金髪だった。なぜだかそれがひどく似合わないように見える。––––この髪を短くすればどうなる? 坊主にすればどうなる? 

 ––––マコト? 

 事務所の鍵穴の傷が脳裏に浮かんだ。

 次に会話が再生される。

「ケータイ」

 マコトがどうして俺のケータイ番号を知っている? 俺は携帯電話など持っていない。買って間もないタブレットだって、通話したことはない。

 浅利は寒気を感じ、それでいて背中を一筋の汗が伝った。そして、激痛が走る。振り向くこともできず、首だけを回して背後を見る。坊主頭の若い男が、赤黒く染まった包丁を抜いたところだった。

「マコト」浅利はよろめきながらも、マコトを向き、抱きしめようと手を伸ばす。

 マコトは背中に突き刺した包丁で、今度は浅利の腹を刺した。刺して引き、刺して引く。俯きながら突き刺すマコトの顔は、浅利からはよく見えなかった。

 浅利は腹を押さえながら仰向けに倒れた。ちょうど背中にあったベッドの上で、巨体が弾んだ。背中に空いた穴から血が溢れ、みるみるシーツが赤く染まる。薄汚れた天井が見える。目を閉じると、数分前に見た家族写真がまぶたの裏に写った。元妻の和美かずみと、息子の真人まこと。もう何年も会っていない実の息子は今、どうしている? 

 ––––息子みたいなもんや。

 いつしか人見に言った言葉を思い出す。本当に、実の息子のように思っていた。

「まこと」目を閉じたまま浅利はつぶやく。その先が声になることはなかった。

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