▽ 酔いどれのアサリ

 浅利は誰かにけられているという確信があった。それが誰なのかはわからなかったが、銭湯では確かな視線を感じていた。浅利のボディに見惚れた熱視線ではなく、卑劣で邪悪な眼差しだった。土方組の代紋を彫った肌は見られなかったが、なんらかの形で組に関わっている人間であることに疑いの余地はなかった。

 まだ夜が明けぬうちに、銭湯を飛び出し、住みなれた東大阪の街を練り歩いた。本当は酒の力を借りたいところだったが、夜の街は土方組の世界だ。たとえシマから外れていようとも、飛んで火に入ることには変わりがない。やつらの仲間は大阪中にいる。それがわからない浅利ではなかった。

 しかし、夜の街を諦めることはできたが、酒を諦めることはできなかった。浅利はコンビニでカップ酒を買い、飲みながらあてもなく歩き続けた。

 気がつくと、事務所のある雑居ビルに戻っていた。ようやく不用心さを自覚し、隠れるようにして辺りを見渡した。それらしい輩の姿は見当たらない。アルコールのせいで少しばかり気が大きくなっていた浅利は、よせばいいのに事務所へと戻っていった。心霊スポットを訪れるような怖いもの見たさが先行していたが、まさか本当に幽霊じみたものを目にするとは考えていなかった。

 事務所の入り口は閉まっていた。ドアに耳を当て、中の音を探るが、何も聞こえてはこない。室内の電気も消えている。誰もいない。

 浅利は恐る恐るドアを開け、中に入って電気をつけた。

 視界に飛び込んできたのは荒らされた室内。割れた阪神タイガースのマグカップ(限定品やったのに!)、壊れた扇風機(熱中症で殺す気か!)。そして、死体だ。それも、三人が死んでいる。当然ながら見覚えのない男たちだったが、何者であるのかはわかった。派手な柄シャツにハーフパンツを穿く人間など、土方組以外に考えられない。

 どうしてここで死んでいる? 

 浅利は部屋の真ん中で呆然と立ち尽くし、動かない男たちを眺めた。

「酷い有様ですね」

 急に聞こえた声に、浅利は飛び上がった。

 閉め忘れていた入り口には、人見がドアにもたれかかるように立っていた。

「なんや、脅かすなや」

「驚かされたのはこちらの方です。これは……どういうことです?」人見はさほど表情を変えずに言った。

「知らん。帰ってきたらこないなっとってん。……ほんまや! 俺は何にもやってない。こいつらが勝手に死んどっただけや」

「わかってますよ」人見は少しだけ口元を緩める。「その狼狽、否定の仕方、怪しすぎますよ」

「せやけど、ほんまに……ほんまに俺とちゃうねん!」

「だから、わかってますって。あなたに人を殺せるとは思いません。それも三人も。あなたが相手にしたのだとしたら、今頃この汚らしい床に転がっているのはあなたの方です」

「褒められてんのんか、貶されてんのんかわかれへんな」

「あなたを褒めるはずがないでしょう?」人見は顎の先で廊下を指す。「行きましょう」

「どこへ?」

「ここではない場所です」

「警察にはいかんぞ」

 人見は深いため息をついた。「犯罪者ですか、あなたは」

「うるさいわい。おまえに俺の何がわかるっちゅうんじゃ」

「いいですか? 私も警察は御免です。あなたと––––死体の眠る事務所の探偵と関わりがあるなんて知れたら、立場を悪くするだけです」

「ほんなら、どこに行くつもりなんや?」

「ついてくればわかります」人見は歩き出す。「それとも、このまま死体と朝を迎えますか?」

 

「いやはや、まさかな。こないなときに。いや、こないなときだからこそか? 見かけによらず大胆なんやね」浅利は品のない笑みを隠しきれなかった。

「勘違いしないでください。あなたとそういう関係になることなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない」

「ここへ連れてきといてか?」

 人見に連れられて入ったのは、東大阪のラブホテルだった。

「説明が必要になるとは思いませんでしたが」人見は抑揚のない声で言う。「あなたは土方組に追われている。キタではもっぱらの噂になっていますよ。たぶん他所でも。当分、"夜の街"は避けるのが無難でしょうね。そんな土方から逃げるためには? 一つは銭湯。刺青のあるヤクザは入れませんからね。比較的安全といえるでしょう。でも、ずっとはいられない。二十四時間の銭湯がないわけではありませんが、住み着くような客をいつまでも放っておくわけがありません。仮に数日間、銭湯に引きこもれたとして、それはかえって危険になります。銭湯に入り浸っている男がいる。その情報は、あっという間に土方の耳にも入ることでしょう。そうなれば、彼らはどんな手を使ってでもあなたを引きずり出しますよ。だいたい、刺青があるから入るのをやめようなんて、ヤクザがそんな物分かりがいいと思いますか?」

 浅利は返す言葉が見つからず、唇を噛み締める。この女、銭湯にいたことを知っているのか? 

「見ればわかりますよ」人見は先を読むように言う。「風呂に入らず悪臭を振り撒くあなたが、今は臭いが消えている。いい匂いとは言い難いですが、まだ少しだけシャンプーとボディソープの匂いがします。事務所で最初に姿を見たとき、指先に皺が寄ってふやけていました。風俗店ということも考えられますが、それならばシャンプーの匂いがするのは変です。カップ酒を持っていたことからも、夜の繁華街には立ち寄っていないことがわかります。ヤクザに追われながら、飲み屋や風俗に行くほどの馬鹿ではなくて安心しました」

 浅利は大きな舌打ちをした。これじゃあ、どっちが探偵なのかわからない。

「ラブホテルを選んだのは、ビジネスホテルに比べて比較的安全だからです」人見は抑揚のない声で続ける。「キタではそうも行きませんが、東大阪は土方組のシマから外れています。東大阪は青龍会系三次団体高塚たかつか組のシマでしたが、現在は分裂し、高塚たかつか天神てんじん会のシマとなっています。つまり、青龍会の敵となったわけです。もうおわかりですね。このラブホテルは高塚天神会のシマにあたります。土方組が乱暴に押し入ってくることはまず考えられない」

「高塚天神会ならよう知っとるわ。土方に負けず劣らずの荒くれもんばっかしや。土方が優勢なのは変われへんけどな。それにしてもジブン、詳しすぎるんとちゃうか?」

「職業病、というところでしょうかね」人見は小さく笑う。目の色に、少しだけ悪意の色が見えたような気がした。

「ほいで? ここに隠れるのはわかった。せやけど、どうすんねん? 事務所の死体をどうにかできるわけやなしに」

「それは私の方でどうにかします。あなたはとにかく、外に出ずにここにいてください」

「ここにいるっちゅうたかて飯はどないすんねん。酒は? 正味、飯はなくてもかめへんけど、酒がないのはあかんぞ。我慢できる自信はないで」

 人見は小さくため息をつく。「わかりました。買ってきます。当面必要な食料と酒類を用意します。ホテル代を含め、こちらで工面します。ですから、あなたは絶対にここを出ないでください」

「それは……かめへんが」浅利は思考回路は高速で動き回る。「仕事はどうすんねん。ここにおったら、なんとかちゅう議員を殺したやつなんか見つけられへんで?」

「それはもう、考えなくて結構です」

「どういうことや?」

「そういうことです。仕事は終了。これ以上の依頼料を支払うこともなければ、返金を求めることもない。土方組から隠れられる安全な宿まで提供するんです。十分なアフターサービスだと思いますが」

「ほんまか? なんか裏があるようなきいするけどな」浅利はニヤリと笑う。「俺だけここに泊めるちゅうことは、ジブンはどっかに行きよんねやろ? 何するつもりやねん。俺もついていこかな」

「ふざけてる場合ですか」

「大真面目やがな」浅利は悪知恵を働かせる。「あんなあ、土方なんぞ、正味どうでもええねん。もう、どうでもええ。銭湯と一緒や。どうせ、ずっとはここに居られへん。ジブンらの資金提供がのうなったら、ラブホテル代すらまともに払われへんねやからな。だいたい、事務所の死体は? 処理するってなんやねん。ほんまに警察はうへんか? そんなわけないやろ。ヤクザといえど、人が死んどんねんで? おまけにその場所は元汚職警官で暴力沙汰で前科もんの腐れ探偵の事務所ときてる。俺が簡単にシロになるわけないやろ。せやろ? ほんでジブンの立場になって考えてみたんやけどな、俺なら買い出しのふりして抜け出してタレ込むね。土方にタレ込んだら金になるし––––まあ、ジブンはせえへんやろうけどな。政治家の秘書やったか? 今ヤクザと関わるんは嫌やもんなあ。ほいだら残るは警察や。犯人はラブホに隠れとりますよって。それに何の利益があるんかは知らんけど、考えられる中で一番現実的な気するわ」

「そんなことしませんよ」人見は何度目かのため息をつく。心なしか、声に覇気がなくなったような気がする。「と言っても、信じないでしょうが。いいでしょう。本当のことを言いましょう。まず、金子岳郎議員事務所としましては、探偵浅利海人との接触が公になることは避けたい。真意はどうであれ、メディアや国民からの印象は悪化すると考えられるからです。贈賄の容疑が出ていましたからね。どんな情報が出ても、それに結びつけようとするのがメディアの仕事です。そんな中、浅利探偵と接触していることが公になれば、追及はさらに厳しくなるかもしれません。ですので、私としては、これ以上の関わりは望んでいないのです。警察へ、ということでしたが、それはないと断言できます。金子陣営の秘書が浅利探偵の情報を流すということは、それまでに関わりがあり、なんらかの理由で決別したからだと推測されてしまう可能性があります。つまり、仲が悪くなったから警察に売ったのだ、と思われるというわけです。先ほども言いました通り、実際にどうなのかということはあまり重要ではなく、思われる、ということが問題なのです。憶測からでも、記事は書けますからね。匿名を装っても、その気になれば特定はできます。数えるほどではありますが、私たちは共に、捜査に出向き、不特定多数の人間に目撃されています。ということは、地道に時間をかければ、浅利探偵と一緒にいた『私』が誰であるのか、それはすぐに白日の下に晒されることになるでしょう。だいたいですね、あなたは私に売られたら、有る事無い事すぐにしゃべりますよね。そんな危険は冒せない。土方組ヤクザなど、以てのほかです。現状では、関わるデメリットはあっても、メリットは一つもない。だから、私はあなたを保護する。これで納得いただけませんか?」

 矢継ぎ早に聞かされた話のほとんどは、浅利の片耳を抜けてもう片方の耳から出ていった。それでも、人見に自分を売るメリットがないことはわかった。

「わかった。わかったよ」浅利は降参したように両手をあげる。「せやけど……」

「買い出しに行ってもよろしいですか?」人見は浅利を遮る。有無を言わせぬ響きがあった。

「待てや。ジブンの立場はわかったけどもな、ラブホってどうやねん。ビジネスホテル代わりに使うやつなんておるんか?」

「結構いると思いますよ。受付でも、すんなり話が通りましたから」人見はマネークリップをベッドに放った。「もしもしばらくして、私が帰ってこなかった場合、その金を持ってここから逃げる。それでどうです?」

 浅利はベッドに飛び乗り、紙幣を数える。悪くない額だ。脳裏に浮かんでいた、人見に投げかけるべきであった疑問はすぐに消し飛び、金のことで頭は埋め尽くされる。人見はすでに姿を消していたが、浅利はしばらく、そのことにも気がつかない。

 我にかえり、死体をどうするつもりなのか疑問に思うが、その答えを知る機会は永遠にやってくることはない。

 しばらくすると、再び扉が開いた。

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