▽ 酔いどれのアサリ
五年前、浅利は大阪・
その当時上司だったのが、三つ歳上の芹澤辰哉だった。芹澤は、生まれたばかりの浅利の息子の命名にも助言をくれた。真理を司る人と書いて
真人が生まれた当初こそ、定時で退社し、家事をするでもなく育児をするでもなく、顔を見、抱き抱えるだけで喜びを感じていた。が、それもしばらくすれば、残るのは煩わしさしかなかった。浅利は、赤ん坊の夜泣きにすら耐えられなかった。不定期に叩き起こされる夜に耐えかね、家に帰ることをやめた。妻の育児を労うこともなければ、育児に関わろうとさえしなかった。全ては妻の仕事だと、妻の役目だと決めつけて押しつけ、適当な理由をつくって夜を外で過ごした。必然的に離れていく妻との距離に、気づくこともなかった。
転機となったのは二〇一〇年の九月。浅利にとっては悪夢の残暑だ。
浅利は二〇〇九年十二月、に別件捜査の際に裏カジノに出くわした。マンションの一室を改装した小規模のカジノだったが、違法性は一目瞭然だった。しかし、発覚は全くの偶然であり、令状もなければその存在を知る警察関係者も少なかった。それを十分に理解していたカジノ運営者は、浅利を含めた三人の警官に多額の口止め料を提示した。浅利のような男を惑わすには、十分すぎるほどの額を。三人の警官が口をつぐむのに、時間は掛からなかった。
それだけでは終わらず、浅利は同じく口止め料を受け取った警官の一人と、裏カジノに通うようになった。後になって正確に計算すれば、儲けを出してはいないのだが、体感としては、競馬よりも、パチンコよりも当たっていた。それもカジノ側の差配なのだが、浅利たちは知る由もない。
一年も経たずして、悪徳の生活は終わりを告げる。
大阪府警本部により極秘に設置された捜査チームにより富田林市及び周辺地域の裏カジノが一斉摘発されたのだ。幸か不幸か、ガサ入れの瞬間、浅利は自宅で、夜勤明けの睡眠を貪っていた。おかげで現行犯とはならなかったが、そのまま無関係で済ませられるほど、人生は甘くない。仲間の警官の関与が露呈され、その警官は自分の身が危なくなると、すぐに浅利海人を含めた数人の名前を吐いた。捜査が進めば進むほど、その数は増えていった。
大阪府警は現行犯の数人を公に処分した。が、浅利を含めたその他の汚職警官には退職金の話を持ちかけた。不祥事の規模を、公表される数字を、少しでも少なくするため、事件とは無関係を装い、自主退職を促したのだ。浅利たちにとっても、前科のつかないそれは悪い話ではなかった。そして浅利は、非正規の退職金を手に、依願退職という形で警察を去った。ある意味で、再スタートを切れると、未来に希望さえ抱いていた。
そういえば、出会った頃に人見は、浅利が信頼できると言った。おそらく、それは元警官ということを知ってのことだろう。警官という職業を信頼しているということではなく、事件が発覚した後の対応のことだ。公に罰せられた警官や自主退職させられた数人の警官は、平気な顔で他の警官の名前を垂れ込んだ。死なば諸共、少しでも罪が軽くなる可能性があるのなら、という具合だ。
しかし浅利は、誰の名前も密告しなかった。「退職金」の吊り上げ交渉さえしなかった。聞いた話によると、おとなしくクビを受け入れたのは、浅利ただ一人だったという。もしも浅利が、信頼に足り得る人物だと判断するのなら、そのエピソードを知っていたからなのだろう。
やがて浅利は退職金を使い果たし、借金を重ねて探偵事務所を開設した。計画では、芹澤が相棒となる予定だった。が、それが叶うことは永久にない。
小説や映画のように殺人事件や怪事件を解決し、名探偵と呼ばれるフィクションのような現実が訪れるはずもなく、浮気調査や犬の世話といった便利屋紛いの仕事ばかりの毎日が訪れた。最初こそ新鮮味を感じたものだが、飽きはすぐにやってきた。やる気は、遥か昔に消え去っていた。
警察を退職してすぐに、妻は出て行き、正式に離婚が成立した。本当の孤独になった浅利は、同じく孤独を謳歌する芹澤に助言を求めたが、彼は富田林署を去った。府警本部という次のステップに進んだのだ。記憶に間違いがなければ、浅利と同じように裏カジノの顧客だったはずなのに。
月日は流れ、浅利の自堕落は底が見えないほど深く落ちていった。底辺を這いずり回るような生活の中、富田林を去り、東大阪へと移った。探偵稼業など、二度とするつもりはないと心に決めたはずだが、結局は同じように事務所を開いた。それ以外、生きる道を知らなかった。出会ったときに人見が言ったような、フィクションの探偵への憧れはすでに消えていた。子供の頃に、シャーロック・ホームズを読み、胸躍らせたのは事実だが、それは探偵事務所を開く動機とまではならなかった。きっと、まだ捨てきれないものがあるのだ。本当ならば掴んでいたであろう栄光。悪を裁き、弱きを助ける本物の正義。浅利は、精神として、生き様として、警察官になりたかったのだ。
しかし、その後も職業的警官を続けたのは、芹澤だ。互いに、多くの民間人と同じようにカジノ事件の真相を知ることはなかったが、事実として残ったのは、結果だけだ。浅利はクビになり、芹澤は出世した。上司と部下であり、良き友人でもあった彼らの距離が開いたことに、それ以上の理由は必要ない。
東大阪市の大衆銭湯で三日ぶりに身体を洗った浅利は、飛び込むように湯船に浸かった。熱い湯が筋肉をほぐす。心なしか、青あざになっていた左肩の痛みも和らいでいくように感じた。
額にタオルを載せ、極楽極楽と声に出さずに呟いた浅利だったが、口では不満を口にした。「ただ酒のはずやったのにのう、なんで湯に浸かっとるんや?」
「その割には気持ち良さそうに見えるんやけどな」芹澤は浅利の隣に浸かり、湯船のタイルにもたれる。「ヤクザに追われとるんやろ? せやったら、ここは安心や。彫り
「行ったことありますよ。あんな柄の悪いところ二度と行きたないわ」
「せやけど、ええとこやぞ。実はサウナが充実しとんねん。ごっつい広いしテレビもあんねんで。阪神は必ずやっとるしな」
「ちょっとイキった
「ほっそい女だけとちゃうやろ。女湯は知らんけど。ヤクザがサウナにようけ行きよるんは、彫り物で皮膚が死んどるかららしいで。あのどえらい彫り物のせいで汗かかれへんねんて。皮膚の細胞が死んで発汗作用があかんようになってもうてんねん。せやから無理やり汗出すためにサウナに行きよる」
「よう知ってますなあ。ヤクザでもマル暴でもあれへんのに」浅利は嫌味を吐き捨てると、額のタオルをずらし、瞼を覆った。
芹澤は何も言わない。どういう顔をしているのかも見えない。
暗くなった世界で、湯の音だけがうるさく響く。遠くの方で老人の声が聞こえ、別の方角から別の老人の声が聞こえた。
「たっつぁん、俺らも汗かきに行きましょか」浅利は返事も待たずに湯船を出ると、おけで水風呂の水をすくい、全身にかけた。
こじんまりとしたサウナにはテレビはなく、阪神の試合も流れていなかった。それどころか、若者も老人もいない。浅利に続き芹澤が入ると、二人だけの貸切となった。二人は前屈みになり、頭からタオルを被った。水で冷やしたはずのタオルは、数秒のうちに熱を帯びた。
「おまえ、何を追うとるんや?」古びたマットを見つめながら、芹澤は言った。
浅利は同じマットを見つめ、言葉を選ぶ。「気になりますのん?」
「当たり前やろ。土方組に追われとるんやぞ。よっぽどの案件とちゃうか?」
熱気の隙間の静寂。
金子議員殺害の犯人を捜している。言ってしまうのは簡単だった。警察官である芹澤に助言を求めることもできた。だが、何かが浅利を思い留まらせた。無意識に内に秘めていた元警官として、探偵としてのなけなしの心理なのかもしれない。
たっぷりと間を置いてから、浅利は言う。「たっつぁん、〈球団〉って知ってます?」
「阪神の話しとるわけやなさそうやな」
浅利は芹澤の冗談を切り捨てる。「規模も、構成員の数も名前も、正式な組織名も何にもわかっとりません。組織はただ、〈球団〉とだけ呼ばれとるんです。詳しいことは何にもわかっとりません。せやけど、一つだけわかっとることがあります。やつら、人を殺しよるんです」
浅利が〈球団〉のことを知ったのは、富田林署で警官を務めていたときだ。退職のきっかけとなったマンションの裏カジノに入り浸っていた頃、同じくカジノの客として出入りしていた若い男と知り合った。後に男は暴力団組員––––下っ端の下っ端だったが––––と知るが、二人の間にトラブルはなかった。男は組の
裏カジノが摘発されるおよそ一ヶ月前、浅利は男から相談を受けた。
命を狙われている。助けてほしい、と。
男の言動の全ては、薬物中毒者に多く見られる
「死にたくないんやったら警察に行き。富田林署はやめろよ。俺の名前も出すな」浅利は冗談交じりに、男をあしらった。
「兄さん、俺、〈球団〉に追われとるんや。警察はあかん。むしろ、逃げられへんようになって、すぐに殺されてしまう」
浅利が〈球団〉の名前を聞いたのはそのときだ。
「なんや? 球団? 阪神の話でもしとるんか?」浅利は芹澤と同じような冗談で返し、鼻で笑った。
「死にたくない。死にたくない。死にたくない」男は壊れた鳩時計のように同じ言葉を吐き続けた。
浅利は、それもパラノイアの一環だとみなし、それ以上の深掘りを避けた。
彼の遺体が上がったのは、それから三日後だった。
大阪湾で上がった
だが、現役警察官の浅利は、それを自ら公言することはない。暴力団の死は、善良な一般市民にとっては時空の違う世界の話であり、容疑者となった暴力団組員が本当に殺人を犯したのかは問題ではない。それは警察においても同じだった。自供する犯人が現れた時点で、事件は終わり、時の流れとともに風化する。すぐに次の問題が起こり、裏カジノは摘発され、浅利は警察を辞める。それが現実だった。
浅利が次に〈球団〉の名を聞いたのは東大阪市に移ってからだ。たこ焼き屋台の前で、広場のベンチで煙草を燻らせていたとき、隣で鳩に餌をまいていた老人が言った。
「わしはもうじき死ぬ」
普段なら老人の戯言にいちいち耳を傾ける浅利ではなかったが、このときばかりはどうしてか、軽口を返してしまった。
「じいさん、ヒトはいつか死ぬもんや。じいさんまで生きられたんやから、それは儲けもんとちゃうか?」
老人は咳のような笑い声を吐いた。突然の大きな声に驚いた一羽の鳩が飛び立ち、つられた周りの鳩たちが驚異が伝染したように飛び立った。
鳩が飛び立つとき、菌が飛散すると聞いたことがある。
浅利は顔を顰めて空気を仰ぎ、煙を吐いて見えない空気と細菌の波を押し返した。無意味な行為に違いないだろうが、気持ちは少し楽になった。
老人はまた、笑い声を上げた。
浅利は煙草を投げ捨て、靴底で踏み消した。
「じいさん、鳩に餌やったらあかんで」
「にいちゃんこそ、煙草のポイ捨てはあかんのとちゃうか?」
浅利は唾を吐き、新しい煙草に火をつけた。飛んでいった鳩たちが、再び集まってきた。
「じいさん、なんで死ぬと思うんや?」
「聞かん方がええ」
「なんでやねん。焦らすなや。逆に気になるやんけ」
老人は鳩に餌を撒き、しばらく鳩の食事を見届けると、言った。「にんちゃんは信じられへんと思うけどな、わしはとある組織に狙われとんねん」
「ハッ![#「!」は縦中横]」浅利は大きく短く笑ったが、鳩たちは逃げなかった。「組織やと? じいさんヤクザでもやりよったんか?」
「そうやったら諦めもつくかもしれへんけどなあ」
「随分ともったいつけるやんけ。呪われとるとでも言いたいんけ? 聞いたら俺も死ぬことになるっちゅうて」
「そうなってもおかしない」
「阿呆。そんなことあるかい。死ぬときは死ぬ。それだけや。呪いなんてあれへん」浅利は長いままの煙草を靴底で消す。「しょうもないこと言うてんと、長生きせえや」
去りかけた浅利の背に、老人は言った。「〈球団〉ちゅうてな、野球とちゃうで。そういう組織があるんや」
「ちょっと待て。〈球団〉やと?」
「なんや、にいちゃん。〈球団〉を知っとるんか。それなら話が早いわい。呪われとるっちゅう意味がわかったやろ?」
「わかるかい。〈球団〉ってなんやねん。前にも同じような話、聞いたことあるぞ」
老人は少し寂しそうな表情を見せ、鳩たちに向き直った。
「じいさん、〈球団〉について知っとることを教えてくれへんか?」
老人はきょとんとした顔で固まり、やがて不恰好な笑みを浮かべた。
二人は人気のない路地や高架下を練り歩き、〈球団〉に関する話をした。老人は杖代わりにビニール傘をつき、歩くのがひどく遅かった。
浅利は知っている限りの〈球団〉に関する情報––––といってもヤクザの下っ端が殺されたかもしれないという曖昧なものしかなかったが––––を提供した。老人の話も似通っていて、結局、新しく確かな情報を得ることはできなかった。だが、老人は独自に集めた〈球団〉に関する資料を自宅に保管しているようで、浅利は翌日にそれを見せてもらう約束をした。老人の話が本当であれば、その資料には、〈球団〉関係者数名の呼び名と組織内で使われている用語についてが記録されているようだった。
しかし、浅利が老人の記録を確かめることはなかった。夜が明ける前、老人のアパートが全焼したのだ。
報道を確認する習慣のない浅利は、単純に約束を反故にされたと思ったが、現実では全焼したアパートからは身元不明の遺体が発見され、その遺体こそ老人だった。仮に火災の事実を知ったとしても、老人の本名を知らない浅利が、二つを結びつけることはなかったのかもしれないが。
いずれにせよ、浅利の〈球団〉に関する調査はそこで頓挫することとなった。
浅利はひとしきり語り終えると、タオルの隙間から芹澤を見た。俯く芹澤の表情は、被ったタオルのせいでよく見えなかった。
蒸気の間の静寂。
「あかん。暑いわ。出よか」芹澤は皮膚の汗を手のひらで拭い払い、サウナを出て行った。
入れ違いで、背の低い小太りの男が入ってきた。男は浅利と目が合うと、気まずそうに下を向き、タオルをかぶってサウナの隅に座った。
浅利は少ししてからサウナを出て、水風呂の水を桶ですくって肉体にかけた。筋肉が引き締まるような心地よい冷たさを感じた。
タオルを絞り、ジェットバスに浸かった。目を閉じ、暴れる水の音を聞いていると、隣のジェットバスにいた人物が入れ替わった。
「さっきの話、ほんまなんか?」芹澤の声がした。
浅利は目を閉じたまま頷く。「俺、嘘はつきませんよ」
「どの口が言うとるんや」芹澤は小さく笑う。「シャブ中のホラ話と変われへんように聞こえたで」
「別に信じてもらわんでええんです」浅利は目を開け、体勢を変え、痛んだ肩に水流を当てた。痛みが増したような気がしたが、ほぐされているようにも感じた。
「やめといた方がええ」
浅利は座り直して芹澤を向いた。そこには、かつて浅利が何度も目にした警察官の顔があった。
「たっつぁん信じてへんのとちゃいますの?」
芹澤はそれには答えない。「依頼人はおれへんのやろ? 一銭にもなれへん仕事や」
「金とちゃう。……金とちゃうんや」
「世の中には知らん方がええことがある。知る必要がないこと。関わらん方がええこと。中途半端な好奇心は己を滅ぼすだけや。悪いことは言わん。今まで通りの生活を送れ。しょうもないか? せやけど、命はあるやろ。それが一番や。死んだら何にもならん」
「らしくないやんけ」浅利は笑い飛ばすが、芹澤の表情は緩まない。
「もう出るわ。これ以上はのぼせてまう」芹澤は浅利と視線を交わすことなく脱衣所に歩いていく。肉でたるんだ芹澤の背中は、刻まれた数々の傷を覆い隠す鎧のように見えた。
芹澤を追いかけて浅利は脱衣所に向かった。芹澤は鍵付きのロッカーの前でバスタオルを腰に巻き、まだ乾ききらない手で財布を開けていた。その中から数枚の紙幣を取り、浅利の方へやった。
「朝、銭湯が閉まるまではおったらええ。ここで寝とるおっちゃんは何人かおるさかいな、放り出されることはないはずや。明るなったらほとぼりが冷めるまでどっか隠れとき。キタには近づかんことや。東大阪もあかんな。事務所の場所割れとんねやろ? 戻ったら捕まるで。そやな……ミナミの方がええんちゃうか? 土方組も、他所のシマで好き勝手はせえへんやろ」
「たっつぁん……」
「浅利、俺はのう、好奇心なんてもんは枯れ果てとんのや」芹澤は浅利の濡れた手に紙幣を握らせる。「知らんことは知らん。関わらんことは関わらん。死にたくないんや」
それが最後の会話になった。
芹澤は黙々と身体の水分を拭い去り、服を着た。浅利とは言葉ばかりか視線を交わそうともしない。まだ湿り気の残る髪のまま、ジャケットを腕に抱えて、脱衣所を出ていく。
最後に少しだけ、浅利の目を見る。浅利にはひどくくたびれたような顔に思えた。
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