▲ 太ったカエルと痩せたガマ
ガマは雑居ビルに入ると、一階にトイレを見つけ、五分間個室に篭った。ようやく腹痛の波が収まったと思ったら、次の波がやってきて、さらに五分籠りきりになった。仕事の前はいつも決まって下痢に襲われる。
ようやくトイレから抜け出すと、次の波が来ないうちにと、足早に二階に駆け上がった。壁に背を当てて廊下を進み、積まれた段ボールの陰に隠れる。『浅利探偵事務所』の入り口はドアが開けっ放しになっていた。よほど不用心なのか、あわてんぼうなのか、あるいは––––
ガマは音を立てないように気を配りながら一歩一歩壁伝いに進む。近づくたびに、室内の声が明瞭に聞こえるようになる。
「トノさんいつになったら戻ってくんねやろな。いいかげん飽きてきたわ」
「ほんまやな。暇すぎて死にそうやわ。つーか暑すぎひん? なんで冷房ないねん」
「ほんまやで。扇風機も壊れとるしな」
「それはおまえが蹴飛ばしたから壊れたんや」
「もともと壊れとるようなもんやろ。どうやって夏過ごしとんねやろな、こいつ」
「ほいで? トノさんどこ行きはったん? ゲンキの兄貴と一緒っちゅうことは誰かしばきに行ったんやろ?」
「カバやったかゾウやったかに兄弟分がやられたみたいでな、捜しとるらしいねん。知らんけど」
「ああ、なんか聞いたことある
「ほんまやな。俺もあっちがよかったわ」
会話から、中にいるのは二人だとわかった。ガマはスマートフォンで動画撮影のボタンを押し、カメラだけを壁から出し、室内を撮影した。柄シャツにハーフパンツの男たちが映る。煙草をくわえ、床に灰を落としながら、目的もなくダラダラと室内を物色しているようだ。横顔しか確認できなかったが、浅利海人ではなさそうだ。荒れ果てた部屋、柄の悪い男たち––––
ガマはスマートフォンをしまい、音を立てないように来た道を戻り始める。
階段が近づくと足音が聞こえた。何者かが階段を上がってくる。慌てて隠れる場所を探すが、段ボールはすでに通り過ぎてしまった。戻って隠れる時間はない。そもそも隠れられるのは正面からの視線だけで、背面から廊下を歩かれてはすぐに見つかってしまう。
考えている間にも階段を上る足音は近づいてくる。胃腸が痛い。肛門が悲鳴を上げている。
ガマは覚悟を決め、通行人Aを装い、何食わぬ顔でやり過ごすことを決めた。階段を下りながら、上ってくる三人目の柄シャツとすれ違う。ガマは野球帽のツバ下げ、視線を合わせないようにしながら通り過ぎる。うまくいった。
と思ったら背中から声をかけられた。
「おい。おまえ、どこから出てきたんや?」
ガマは振り返らず、腹の皮を摘みながら答える。「ちょっとトイレを探してまして」
「一階にあるやろ」
「そうなんですね。ありがとうございます」
「ちょっと待てや。二階にはしょうもない探偵事務所しかあれへんやろ。おまえ、何しててん?」
「だからそれは……」ガマは振り返り、左手で腹を押さえながら男との距離を詰める。
男も階段を下り、ガマに近づく。「ワレ、なんか見よったんやないけ?」
「本当にトイレに行きたくて……」ガマは素早く動く。腕力はいらない。必要なのはスピードと角度だ。男が痩せ細ったガマを舐めていたことも都合が良かった。ガマはあっという間に男の首をへし折った。
絶命した男が崩れ落ちるのを支え、階段の上まで抱えて運ぶと、廊下を引きずり、段ボールの陰に寝かせるように隠した。脂汗が噴き出し、息が乱れる。
呼吸を整えながら、ガマは考える。真夏の夕暮れに冷たくなったこの男は、確実に土方組の関係者だ。やってしまった。このまま逃げたとして、確実に逃げ切れるのだろうか。すべて、浅利何某という探偵のせいにできるのだろうか。幸か不幸か、『カエルとガマ』の名前は、裏社会でそれなりに浸透し始めている。手口から、土方の追手が来るようなことにはならないだろうか。そうならないためには––––
ガマは深呼吸し、覚悟を決める。腹痛の波は、どうにか収まった。
再び廊下を進み、壁に背をつけて、スマートフォンのカメラで浅利探偵事務所の中を覗いた。
「おまえ、ぶりぶりしすぎやわ。外まで聞こえとんねん。気色悪い」
どうやら、一人はトイレに入っているようだ。ガマは『トイレ』という単語で便意を催すが、必死に堪え、転がるように探偵事務所に入った。室内が荒らされていたこともあり、隠れる場所には困らなかった。物陰を進み、革張りのソファーに隠れると、男の様子を盗み見る。
男はだるそうに煙草を床に投げ捨て、踏み消した。スマートフォンを眺めながら、窓際のデスクへと近づいていく。それがちょうど死角になった。
ガマは音を殺して物陰を出ると、背後から男の首をへし折った。崩れ落ちる男の身体を支えることはできたが、想像以上に重く、正気を無くした男の指先がデスクのマグカップにあたり、床へと吸い込まれる。
磁器の割れる音が響く。
ガマは男の死体をデスクの陰に寝かせると、マグカップの欠片をつかむ。
しばらくすると、トイレからもう一人の男が呑気に鼻歌を歌いながら出てくる。男が仲間の死体に気づくより早く、ガマはマグカップの破片で男の首元の頸動脈を刺す。男は噴き出す自らの血に溺れて死んでいく。
すぐに立ち去るべきだったが、便意には逆らえず、事務所のトイレで排泄した。ようやく波が収まり、手を洗おうと蛇口をひねる。それが、着信のタイミングと重なった。
ガマは指先でスマートフォンを取り出すと、肩と頬で挟み、両手を拭う。「もしもし」自然と小さな声が出た。
「アサリの塩抜きはできたんか?」気の利いたジョークのつもりなのか、カエルは大きな声で訳のわからないことを口にした。
「あの探偵のことなら、事務所にはいなかったよ」ガマは二つの死体を見ながら、足早に事務所を出た。これ以上ここにいては、さらなる下痢に襲われそうだ。
「せやろな。あいつ、こっちにいよるもん」
「え? それならもっと早く言ってくれれば良かったのに」ガマは階段を駆け下りながらムッとする。それを聞いていれば、必要以上に腹を痛めることもなかったかもしれないのに。
「しゃあないやんけ。ケータイ使われへんかったんやから。ここをどこやと思てんねん」
知るわけがない。ガマは声に出さずに答える。それよりも、少しでも事務所から離れなければならない。
「銭湯や」カエルはなぜか得意げに言う。「あの探偵、呑気に湯に浸かりよってん。おまけに長いことサウナに入りよってな。ほんま危機感のかけらもないやっちゃ」
銭湯、ということは原則刺青は入れない。ヤクザから逃げるという点では理にかなっているような気がした。
「銭湯の場所は?」
カエルは東大阪の大衆浴場の名前を口にした。「来てももうおらんけどな」
「どういうこと?」ガマは反射的に立ち止まった。そして慌てて周囲を見渡し、路地裏の陰に隠れた。「事務所へ戻って来るの?」
「知らんがな。俺がサウナに入ってる間におらんようになったんや」
「何それ。見失ったってこと?」
「しゃあないやんけ。あいつ、誰とおったと思う? 府警の芹澤やぞ。おまえも知っとるやろ? あいつ、警官と風呂入りよってん。そんなもん近づけるわけないやろ。しゃあないから距離とって見張っとってんけどな、
「つまり、サウナをどれだけ長く入れるかってやってる間に見失ったってことね」ガマは呆れたため息をつき、ゴミ箱の横に座り込んだ。
「しゃあないやんけ」カエルは悪びれた様子もなくダラダラと言い訳を並べる。
ガマはカエルの言い分を無視し、話を進める。「見当はつかないの? 会話を盗み聞きしてたんでしょ? どこへ隠れろだとか、逃げろだとか、何か言ってなかった?」
「それがわかったらとっくに銭湯でとるわい」
「え? まだ銭湯にいるの?」
「そらそうやろ。入館料はなんぼおっても同じやねんで? 風呂とサウナだけでも、ジェットバスしてもおんなじ値段なんや。それやったらジェットバスも入るやろ。
ガマは呆れて、返事をすることができなかった。
「ほいで、そっちはどうやってん? 事務所の方でなんか見つかったりせえへんかったんか?」
「見つかったのは僕だよ」ガマは数分前の出来事を思い出す。腹の痛みまでもが蘇り、再び下痢の波に襲われた。全身に力を入れ、肛門を閉じることに全神経を集中させる。「事務所にヤクザがいた。多分、土方組。三人いて、一人にバレた。仕方がなかったんだ」
「おいおい、おまえヤってもうたんか?」
「仕方がないじゃないか! 他に選択肢がなかったんだ」
「待て待て、責めてるわけとちゃうねん。むしろ、いっぺんに三人も仕留めたんは凄いな言うて褒めてんねん」
ガマは少しも嬉しくなかったが、腹痛は少しだけ収まった。
「どうする? このまま事務所を見張ってようか?」ガマは路地から顔を出し、浅利探偵事務所の入る雑居ビルを窺った。
「いや、多分あいつは戻らん。知らんけど。芹澤との会話をチラッと聞いた感じではそんな感じやった。せやから、そこにおってもしゃあないわ」
「それじゃあ、銭湯に行く?」熱い湯で身体を温めれば、腹痛から逃げられるような気がした。
しかし、カエルは否定する。「銭湯におってもしゃあないやろ。いったんアジトに戻って作戦を考え直すんや」
カエルは銭湯で、僕は薄汚いラブホの狭いシャワー。そう思うと、ガマの腹は、さらに唸った。
「なんやねん。他に考えがあるっちゅうんか?」
ガマは返事をする気力もなくなっていた。それからも少しだけカエルの話は続いたが、ガマの耳には届かなかった。電話が切れた後も、ガマはスマートフォンを耳に当てたまま、路地裏にしゃがみ込んでいた。
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