▼ 不眠症のゾウ

 ゾウは京セラドームで、オリックス・バファローズとソフトバンク・ホークスの試合を見ていた。〈球団〉の仕事とは関係のない、ただの趣味だ。京セラドームを選んだのはオリックスファンだからでも、ソフトバンクファンだからでもない。子供の頃は南海ホークスを贔屓にしていたが。南海ホークスが消滅して随分と経つが、ホークス、あるいは別の球団を贔屓にすることはなかった。どうしてなのかはゾウ自身もわからない。あのチームはもうない。そこにどんな意向があろうが、ゾウにとっては、失われた球団だった。オーナーがどうだとか経営陣がどうだとかは関係がない。ただ名前が変わっただけでもない。あの頃の南海ホークスはもう存在しない。おそらく、それはゾウの根底に深く根付いている。

 だが、それに寂しさを覚えているわけではなかった。寂しさがまったくないといえば嘘になるかもしれないが、限りなくゼロに近かった。少なくとも、失われた球団を、事実として受け入れることはできていた。

 贔屓の球団がなくなったことが、ゾウをスタジアムから遠ざける理由にはならなかった。野球は野球だ。愛でるべきスポーツであることに、楽しむべきスポーツであることに変わりはない。

 七回裏ラッキーセブン。応援歌が流れ、スタジアムはバファローズ一色に染まる。ゾウはその間にトイレに行き、売店に並んでたこ焼きとビールを買う。ビールは可愛らしい売り子から買うことを好んだが、五回以降、好みのアサヒビールを携えたお姉さんは見当たらなかった。

 指定席に戻るとバファローズの攻撃は始まっていて、一アウト一、二塁まで試合は進んでいた。

 スマートフォンが震えた。通信アプリのメッセージであれば、そのまま気づかないふりもできたが、震え続ける電話とあっては、意識を逸らすことは容易ではない。永遠とも思えるほど、ジーンズのポケットは震え続ける。

 ゾウは諦めてマイク内蔵型のワイヤレスイヤフォン––––オリジナルのカスタマイズにより、ボイスチェンジャー機能も搭載されている––––を左耳につけ、スマートフォンの通話ボタンを押す。電話の相手は想像できていた。

「すまないが、今は仕事の話をする気分ではないんだ」電話が繋がるなり、ゾウは言う。しかし、空間を超えて聞こえていた声は想像していた声とは違った。

「休日のところすまないね」

「オーナー」ゾウは思わず声を漏らす。たこ焼きが三つ残ったパックを席に残し、ビールを片手に人気の少ない通路へ移動する。「失礼しました。『コーチ』からの電話だと思ったもので」

「本来、君だけの時間だ。私の方こそ無粋だった」七草ななくさは丁寧な言葉を選んでいたが、有無を言わせぬ雰囲気が隠れて見えるような気がした。「邪魔をして申し訳ないが、どうしても君の力が必要なんだ」

「光栄でございます」

 七草は淡々と試合相手の名を指示する。

 

「まったく、人使いの荒いオーナーだよ」ベッドの上で天井を見つめ、ゾウは言う。

「あなたは群を抜いて優秀だからね」ゾウの肩に顎をのせ、百合餡が囁く。「困ったときはゾウへ。そういう監督やコーチ、結構多いんだよ。機動力が桁違いだからね。抱えきれなくなった仕事は、ゾウへ回せばなんとかしてくれる、って。一体、いつ寝ているの?」

 ゾウは片目を閉じ、曖昧に肩をすくめる。

「ところで、〈ココナッツ〉の投稿者は見つかりそう? ……忘れてないよね?」

「金子を二度殺そうとした人物のことだろう? 覚えているさ。〈シザーハンズ〉に調査を頼んでいる。IT関連は、エドに頼むのが一番だ。いまだ手がかりはないがね」

「まあ、そんなに簡単に見つかったんじゃ、すでに〈球団〉が見つけているもんね」

「それより、私はスコアボードの方が気になるね。本当に、当たりはいるのか? つまり、金子を殺した犯人はいるのかっていうこと。スコアボードの中から真犯人を見つけ出すというのが本当の目的だが、私にはどうも、無関係な人物ばかりのような気がしてならない」

「良心が咎める?」

「いいや」ゾウは天井を向き、首を振る。「ただの仕事だ。〈球団〉のスコアボード––––リストに載るということは、いずれはそうなる運命だということだ。私がやらなくても、誰かが送りこまれる。殺すにしても、拷問するにしても、個人的な感情はないよ。ただ、主観を完全に排除することはできない。どうしても、相手ターゲットを個人的思考で判断してしまう。例えば、私をエレファントマンと呼んだ男。やつは個人的な趣味趣向のために殺人を行っていた。あの手の快楽による殺人が、金子という政治家に及ぶとは思えない。現に、あの男の被害者は女性ばかりだった。どう考えても殺した方が人間社会のためになるようなクズだ。やつがスコアボードに載ったのは? いつも通りの〈球団〉の仕事だ。不可解な点もなければ特異な点もない。スコアボードの人間はどいつもこいつもそういうやつばかりだった。つまりね、スコアボードの試合は、いつも通りの殺しの仕事なんだ。政治家殺しの気配も政治的思想や哲学もない。真犯人アタリなんて初めからいないんじゃないかな」

「それの何が問題?」

「問題はあるんじゃないか? 誰が金子議員を殺したのか。それを捜しているのは事実だろう?」

「求めれば見つからない。求めなければ向こうから近づいてくる。なんてこともあるかもしれないよ」

「哲学の話は苦手だよ」ゾウは上体をお越し、ミネラルウォーターを飲む。「おとなしく愛人を捜すのが正しい選択のような気がしてきたよ」

「それなんだけど、ただの愛人じゃないなんてことはないかな。例えば、私たちみたいな」

「本当の恋人ってことかい?」ゾウは百合餡に唇を重ね、囁く。

 百合餡は含んだ笑みを浮かべるだけで、それ以上は言葉を吐かない。

 二人の個人的な夜が深くなる。

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