▲ 太ったカエルと痩せたガマ
慢性的な下痢がようやく収まると、ガマはトイレを出た。その居酒屋のトイレは、男女共用と女性用の二つの個室しかなく、ガマの入った共用個室の前には、若い女性が待っていた。女性は小さく会釈すると、個室に入る。ガマは小っ恥ずかしくなり、そそくさと自分のいた席に戻った。
ガマが入ったのは座敷タイプの個室だった。襖を開けると、立膝で貧乏ゆすりをするカエルが忙しなく煙草を吸っていた。
「遅いやんか。また下痢か?」カエルは口の端に煙草を挟む。
「うん」ガマは労わるように腹を撫でながら座布団の上にあぐらをかく。「何の話だったっけ?」何気なくテーブルを見ると、手をつけていなかったはずの唐揚げが、残り一つになっていることに気が付く。
「残しといたったで」カエルは灰皿に煙草を押し付けながら言う。
ガマは腹が減っていたが、食べるとまた下痢になるような気がして、箸を持つのをためらった。
「食べへんの?」カエルはそう訊くと、返事も待たずに最後の一つを手掴みで口に入れ、咀嚼しながら言う。「〈球団〉の話や」
「野球には疎くてね」
「アホ。おまえと野球の話なんかするわけないやろ。秘密結社の方や」
「秘密結社?」
「せや。秘密結社〈球団〉言うてな、あれや、犯罪者派遣組織みたいなもんや」
「ますますわからない。そんな組織、実在するの?」
「都市伝説みたいなもんやけどな。〈球団〉っちゅうのも正式名称やのうて、俗称みたいなもんらしいねん。何でも、野球用語を隠語にしてあらゆる犯罪に加担しとるっちゅう話や。ほら、あれ。指名打者とかなんとか言うやつや。知っとるやろ? 指名打者っちゅうんは、ヒットマンっちゅう意味もあんねや」
ガマは気のない返事をすると、烏龍茶を飲む。胃腸と肛門のことを考え、数年前から酒を飲むことはやめていた。「でも、都市伝説なんでしょ?」
「まあな。情報管理も徹底しとるようやし、部外者が簡単に把握できるもんとちゃうんやろ」カエルはハイボールを喉に通すと、得意げに顔を崩す。「ところがや、寝屋川で出よったらしいねん」
「出たって幽霊?」
「アホ。ガマ、おまえ、俺の話聞いとったんか? 幽霊なわけないやろ」カエルは鼻筋から眉間までシワを刻み、新しい煙草をくわえる。「"ゾウ"や。ゾウが出た」
「アフリカゾウ? アジアゾウ?」ガマは極度の空腹を感じ、それが腹を下す要因になる場合もあることを思い出し、だし巻き卵を食す。これなら、比較的胃腸との相性はいい。
カエルは深々と煙を吐くと、立膝を揺する。「〈球団〉の
そう聞くと、ガマにも思い当たることがあった。「もしかして、エレファントマンのこと?」
「巨象のドシン、なんて呼ばれ方もしとるな」
「僕は、ゾウなのに小男だって聞いたけど」
「俺は、巨人のような大男とも、悪魔のような子供やとも聞いたことあるで」
「エレファントマンは、その秘密組織の殺し屋だったってこと? どうしてわかるの? 〈球団〉ってのは、誰にも知られていない組織なんでしょ?」
「噂や、噂。〈球団〉のゾウ、ってのを耳にしたやつがおったんや」
「何だかなあ。やっぱり幽霊の話みたいに聞こえるよ」
カエルは不服そうに煙を吐くと、灰皿で乱暴に火を消す。「ゾウをいてもうたったら、名が上がると思えへんか?」
「いてまう、って、殺すってこと? どこの誰かもわからないのに?」
「そんな顔すんなや、アホガマ。冗談や、冗談。マイケル・ジョーダンや」カエルは大袈裟に声をあげて笑う。が、目はギラギラと血走っている。
「今どきそんな親父ギャグ言う人いるんだ」
「うるさいわい! ゾウのことはもうええ。俺らはもっと、現実的な方が向いとる。せやろ?」
「はじめからそっちの話をしてよ」
「おまえのクソが長いからや。和ませたろう思て気使ったったんやんけ」
「はいはい、ありがと。それで?」
「政治家や。政治家をやるど」カエルは吹き出物の浮かんだ舌で唇を舐める。「参議院議員っちゅうのがおるやろ。あれの殺害依頼が〈ココナッツ〉にあがっとる」
「〈ココナッツ〉って、最近はやりの闇サイトのこと? あれ、どうなの?」
「便利やで。裏では一番ええんちゃうか」
「それで、その参議院議員さんっていうのは?」
カエルはスマートフォンを操作し、スーツ姿の人物が写った履歴書のような画面を見せる。「どうや? なかなかええ仕事やろ?」
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