▼ 不眠症のゾウ

 杉田すぎたがアパートに戻ると、ベッドの上に女の死体があった。井上いのうえの姿はなく、くぐもった水の音が聞こえた。シャワーを浴びているのだろう。

 目の前の死体の股間から白い体液が垂れた。井上は死んだ女、それも自ら殺した女を抱くのが趣味だった。変わった性癖だと思ったが、杉田はそれに嫌悪感を抱くことはなかった。むしろ、愉快にすら感じていた。ただ、死体の処理が面倒だ。

 コンビニの袋をテーブルに放ると、ブルーシートを床に敷き、多種多様の工具を並べた。使い方も、使う順番も熟知していた。"解体作業"はいつも井上の担当なのだ。文句を垂れない時はないが、それでも、身体は的確に効率よく動く。これこそが天職なのだと、心の底では理解していた。

 背後で音がした。

「穴はおまえが掘れや」杉田は背中で井上に言う。

 返事はない。いつものことだ。が、妙なのはシャワーの音がやんでいないことだ。

「おい、井上」杉田は振り向く。そして、消臭スプレーの噴射口が視界に入る。脳がそれだと認識するより早く、霧が散布する。薄れていく記憶の中、フルフェイスの黒いヘルメットが見える。


 杉田は意識を取り戻すと、頭痛と吐き気に襲われた。真っ先に二日酔いを疑ったが、それにしては種類が違う。どちらかというと、後頭部や顎を殴られて星が見えたときに近い感覚だ。

 起きあがろうとするが、うまくいかない。見れば、首から下がブルーシートで包まれている。中は見えないが、肌触りから裸なのがわかる。手首と足首が縛られ、ブルーシートの上から腕や脚も縛られている。鍋の中のチャーシューみたいに。叫ぼうとしたが、口にはタオルが押し込められていた。

 状況を理解すると同時に、視界にフルフェイスが映る。黒いツナギに黒いブーツ、バイク乗りが着るような服装だ。両膝と両肘には、キャッチャーが装備するようなプロテクターがついている。身体の前で抱えた黒いリュックのせいでよく見えないが、胸のパッドも装着しているように見える。思えば、フルフェイスもキャッチャーマスクのデザインに近いような気がする。

 黒ずくめのフルフェイスは、ベッドに腰掛け、杉田を見下ろす。「君の連れは、会話の成り立たないやつだった」ボイスチェンジャーで変換された声がする。「君はそうでないことを祈る」

 井上はどうした! 杉田は思い出したように叫ぶ。が、喉まで捩じ込まれたタオルのせいで言葉にはならない。

「バスルームで殺した」フルフェイスは、杉田の声にならない声が聞こえたようだ。「こんなことをしてタダで済むと思っているのか、俺たちを誰だと思っているんだ、ぶち殺してやるぞ、とか、そういうのは聞き飽きた。強がって怒鳴り散らすのはやめろ。結果は変わらないんだ。手短に、私の問いにだけ答えろ」

 杉田は、奥歯でタオルを噛み締める。苦い鉄の味がする。

 フルフェイスはスマートフォンを取り出し、杉田に画面を見せる。「この男を知っているか? 知っているなら、ゆっくりと瞬きを一回。知らないなら二回、しろ」

 杉田は眉間の皺を深くする。黒いフルフェイスに映った自分の顔が、自分自身を睨んでいる。

 フルフェイスはヘルメットの下でため息をつく。抱えたバッグから消臭スプレーを取り出すと、銃のように杉田に向ける。「これは、強力な睡眠剤を溶かしてある。麻酔、と言い換えてもいい。すぐに眠るが短時間で目覚める。目覚めた後はしばらく、感覚が鈍くなるそうだ」そう言うと、引き金を引くようにトリガーに指をかける。

 杉田は反射的に顔を背ける。が、何も発射されない。

 フルフェイスはスプレーをバッグにしまうと、工具の一つを手に取る。杉田の私物だ。「麻酔が切れるまでの、しばらく、がどれだけの時間を指すのかはわからない。個人差がある、というやつだ。君はまだ、効力が残っているといいな」

 杉田は声なき声を叫ぶ。恐怖への悲鳴だ。フルフェイスが振り下ろした鉄の鈍器は、膝の皿を割る。叫び声は、激痛の悲鳴へと変わる。

「もう一度聞く」フルフェイスは再び、同じスマートフォンの画面を見せる。「この男を知っているか? 金子、という男だ」

 瞬きが二回。否、三回。

「歩けなくなってもいいのか?」冷たい機械の声が言う。

 杉田が何か言い、必死で首を振る。目と鼻から、体液が流れる。そして、痛みを堪えるような力強い瞬きが二回。

「では、質問を変えよう。この男を殺した人物を知っているか?」フルフェイスは工具を取り替える。

 切っ先が鈍く光る。

 杉田はタオルの奥で唾を飲む。この工具の切れ味を誰よりも知っていた。

 フルフェイスの左手が、杉田の顔に伸びる。「大きな声を出せば、すぐに殺す。質問に答えない場合も殺す。嘘だと判断した場合も殺す。いいか、回答権は一度のみ。心して答えろ」

 杉田の口から、タオルが取り出される。解放された喉で、力一杯呼吸する。急激に脳に酸素が行き渡ったせいなのか、麻酔から解き放たれたせいなのか、幻覚に溺れるように、自制を失った杉田は、思い付いた言葉を口にする。「エレファントマン?」

「驚いたな、君があの映画を見ているとは思わなかった」フルフェイスの血の通わない声が皮肉に笑う。

 杉田は『エレファント・マン』もデヴィット・リンチも存在すら知らない。呆けたように口を開けることしかできない。

「質問の答えは?」

「待てや! 待て待て。あんたが正義の味方っちゅうんはわかっとる。今までのことは悔い改める。せやから、待ってくれ。一回だけでええ。一回だけ、チャンスをくれ!」杉田は三十年余りの生涯で、これ以上ないほど高速で思考回路を連結させ、かつてない語彙力を発揮させる。が、結果は変わらない。

 フルフェイスが動く。「残念だ」


 電話が鳴ったとき、ゾウはバイクで東大阪市から寝屋川市に向かっていた。

 フルフェイスのヘルメットにはイヤフォンとマイクが内蔵されていて、Bluetoothでスマートフォンと連動していた。ヘルメット側面の耳をダブルタップすると通話ができた。

「ゾウさん、ゾウさん」耳元に百合餡ユリ・アンの声がする。電話が繋がる前から話していたようだ。「ゾウさん、ゾウさん、お鼻が長いのよ。ねえ、お鼻が長いから"ゾウ"って『登録名』になったの?」

 不必要に上手な歌声だ、とゾウは声に出さずに言う。

「嘘、嘘。睡眠時間よね。ゾウって、三時間しか眠らないショートスリーパーなんでしょう?」

 私はショートスリーパーではなく、不眠症だ。ゾウは心の中で返答する。

「あれ? 通じてないのかな?」

「要件は?」ゾウは言う。

「聞こえてるなら返事してよね。電話の沈黙ほど虚しいものはないんだよ」百合餡はわざとらしく、少女のような声を出す。「進捗状況はどう?」

「スコアボード二回裏、3アウト、チェンジ。得点は依然0のまま」

「いいペースじゃない」

「ああ。できるだけ早く終わらせたいと思っている」

「私もそう願ってる。でも、安心して。九回まで終わったら、次の相手が待ってる」

「まさか、それも私が?」

「あなたに関係ないのなら、どうしてこんな話をするの?」

「私の仕事はこれだけではないんだ」

「ええ、知ってる。だって、私はあなたの『コーチ』なんだもの」

 ゾウはため息をつく。「本当に、当たりはあるんだろうな?」

「そんなこと私が知るわけないじゃない」百合餡はあくびを噛み殺したような息を吐く。「私は〈球団〉からの指示をあなたに回しているだけ」

 ゾウは無言で頷く。バイクは、国道を加速する。

「もう一つの試合もうまくいきそう?」

「ああ。結末は見えている」あとは差配の問題だ。

「さすがね、期待してる」百合餡は、大きなあくびをする。「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみ」ゾウは電話を切る。だが、眠ることはない。


 ゾウは〈球団〉の指名打者だ。実際にバットを振ったりグラブを握ることはなく、キャッチボールさえすることはない。組織内で使われる隠語だ。〈球団〉は犯罪組織で、指名打者とは、ヒットマンを意味する。つまり、組織の殺し屋だ。

〈球団〉というのは俗称だが、それ以外の名前で呼ばれることはなく、正式名称は誰も知らない。どうして野球にまつわる隠語が使われているのかもわからない。おそらく、創設者である七草ななくさオーナーの趣味だ。

 指名打者を含めた〈球団〉の『選手』たちには、選手名と呼ばれるコードネームが与えられる。『ゾウ』や『百合』のように生物の名前からくるものが多いが、『志田』や『亀本』のように人間らしい選手名もあり、一貫性は特にない。

 実際に犯罪を遂行する『選手』の他、仕事を差配する『監督』や『コーチ』が存在し、日本全国、はたまた全世界に拠点があり、何人かの『選手』を抱えている。徹底した人材管理が、情報漏洩を防いでいた。

 秘密保持と分業のため、〈球団〉内でもその仕組みや球団員を細部まで熟知する人間はほとんどいない。ゾウも例外ではなく、コーチである百合餡の他に顔を合わせた同業者の数は、両手の指に収まるほどだ。〈球団〉における監督とコーチの役割の違いも、詳しくは知らない。

 それでも、〈球団〉の情報はしばし裏社会を賑わせた。いくら内部の管理を固めようと、漏れるところからは漏れる。造反はゼロではないし、犯罪(主に殺し)を依頼してくる顧客から漏れることもある。七草オーナーは、それを理解していた。漏れるなら、漏らせばいい。その代わり〈球団〉にとって都合のいいよう、噂の種を蒔き、情報を操作する。そうやって出来上がる都市伝説は、いずれは利益の花を咲かせる。〈球団〉にはその『種』を蒔くだけの選手たちも多数有していた。

 そうやって、〈球団〉は大きくなった。裏社会でも異質を極めた組織は、実力・実績ともに唯一無二の存在となった。

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