▽ 酔いどれのアサリ

 駅のホームで、浅利あさり海人かいとは男を蹴り飛ばしていた。男はどこにでもいるような特徴のない顔で、頭皮は薄くなりはじめ、安物のスーツを着ていた。

 男は混み合った環状線の車内で女性の尻を触ることを喜びとする中年だった。痴漢行為の終わりがきたのは、標的にした女性が声をあげたからだ。それまでの標的は、喋り方を忘れたように黙りこくっていた。それを見ると男はさらに興奮し、あまつさえ女の方も喜んでいるはずだと、穿った見解を抱いていた。

 が、この日は違った。女性は尻に手の感触を覚えると、怒号に近い声を出した。「痴漢や!」黙って触らせてやるほど、安い身体ではない。泣き寝入りするつもりもない。女性を支配している感情は憤怒だけだった。

 電車に詰め込まれる全員の視線が、女性のネイルの先に注がれた。

 そこで、電車はホームに停車し、ドアが開いた。

 男は走った。パニックが速度をあげ、この場所からできるだけ遠くへ逃れるための原動力となった。が、すぐに地べたがやってきた。何年間も吐瀉物が染み込み続けたような汚らしいコンクリートが、顔面に迫った。痛みが走る。

 男が転けたのは、足をかけられたからだ。歯と鼻を押さえながら顔を上げると、血走った眼光を向ける浅利が見えた。

 浅利は突っ伏したままの男の首根っこを掴むと、ゴミ袋でも放るみたいに投げ飛ばした。男の身体は見た目よりも軽く、自動販売機まで飛ばされた。側にあったゴミ箱が倒れ、液体で湿った空き缶やペットボトルが散乱する。

 浅利は舌打ちした。「入れへんか」本気で男をゴミ箱に投げ入れるつもりだった。

 男は抵抗するでもなく立ち上がり、逃げようとした。パニックが痛覚を抑え、逃亡の手助けとなっていた。

 が、浅利は止まらない。まだ起き上がりきらない男を蹴り上げ、暴行を加えた。周りに人だかりができようが、関係なかった。

 同じ車内にいた事情を知る数人は、スポーツ観戦でもしているかのように歓声をあげスター選手に送るような拍手をする者さえいたが、その他の人間は暴行を続ける浅利に冷ややかな視線を投げた。

 浅利が男を蹴ったのは、正義感からではなかった。連日の寝不足と度重なるギャンブルの負け、さらに午前八時の満員電車と梅雨明けの夏日に苛立っていたからだ。とどのつまり、憂さ晴らしにすぎなかった。

 やがて制服を着た当局が現れ、浅利と男は取り押さえられる。関係者以外立ち入り禁止の領域へと連れていかれるが、痴漢被害にあった女性やその他の野次馬の証言により程なく解放される。

 浅利はいくらか清々しい気分になり、再び環状線に乗り、二駅先のパチンコ屋へと消えていく。


 その女が現れたのは正午を過ぎた頃だった。浅利海人は珍しく儲けたパチンコの賞金で、刺し身と焼酎の水割りをやっていた。二十四時間営業の安居酒屋だ。

「浅利海人さんですね?」女は抑揚のない声で言う。

 浅利は自分のフルネームが嫌いだった。アサリとカイが一つの名前に入っているのだ。おまけにカイは『海』だ。鼻水垂れの悪餓鬼たちが、この名前で遊ばないはずはない。小学校時代、この名前のせいで随分と苦い思いをしてきていた。年齢を重ねるうちになくなるかと思いきや、駄洒落好きのオヤジどもは悪餓鬼と同じようにアサリの名前で遊んだ。気の利いたジョークを披露するみたいに。まったく、うんざりする。

 浅利は名前にまつわる過去を思い出し、不機嫌な視線を女にぶつけた。

 女は象牙色の無感情な瞳で、品定めするように浅利を見ていた。

 浅利は眉間の皺をより深く刻み、お返しとばかりに女を品定めする。パンツスーツに包まれた身体はしなやかで、手脚は長い。胸と尻は特別大きくはなく、セミロングの髪はスーツと同じ黒。切れ長の二重瞼はどこか無国籍だ。二十代後半から三十代前半、といった印象だが、それ以上若くも見えるし、老いても見える。そもそも、年齢など当てられたことはない。

「座っても?」女は口では許可を求めたが、すでに浅利の向かいに腰を下ろしていた。

うたことあったっけか?」

「いえ、初めてです」女は小さなバッグから名刺入れを取り出し、一枚をテーブルの上に置いた。

 浅利は反射的に手に取る。指についていた水滴で、印字が滲んだ。

「キサヤマ・ヒトミです」女は読み方を尋ねられる前に答える。

「はいはい、ヒトミちゃんね。人見ヒトミって、あんた、人見知りなんか?」

 人見はそれには応じず、事務的な笑みを小さく浮かべるだけ。仕返しにアサリとカイを揶揄からかうようなことはしない。彼女にとっては名前など、記号の一つでしかなかった。

 浅利は咳払いし、焼酎を呷る。「俺に何の用や? えーっと」女の名刺の肩書きを読む。「報道記者さん?」

「テレビ局の社会部記者です」人見はローカル局の名前を口にする。「浅利探偵にお願いがあって来ました」

 浅利は咽せる。探偵、と呼ばれるのはいつ以来だろうか。確かに、雑居ビルの二階に探偵事務所を構えてはいる。

「どうかしましたか?」

「いや」浅利は手の甲で口元を拭う。「まさかとは思うが、仕事の依頼なんか?」

「はい」人見はタブレット端末を取り出す。「金子かねこ岳郎たけろう参議院議員をご存じですね?」

「知ってなあかんのか?」

 人見は浅利の軽口には付き合わず、先を続ける。「二日前、六月二十八日未明に死亡した与党議員です」タブレットの画面を浅利に見せる。「拳銃で頭を撃たれ、即死とみられています」

「腹撃たれて苦しんで死ぬよりはええやろ」浅利はタブレットから目を背け、焼酎を呷る。「見せんでええ。気色悪い。酒が不味なる。嫌な予感がしよるなあ。犯人を見つけろ、なんて言えへんよな?」

 人見は無言で、薄い笑みを浮かべる。

「おいおいおいおい。この俺に殺人犯を見つけろってか? どうかしとんとちゃうか。それは警察の仕事やろ。私立探偵が事件を解決するんはフィクションの中だけや。現実では浮気調査以上の事件はない。シャーロック・ホームズもエルキュール・ポワロもおらん、フィリップ・マーロウもマット・スカダーもおらんのじゃ。こんな髭面のおっさんが解決できる殺人事件なんてあれへん」

「それでも、最初は彼らを目指していたのではないですか?」人見は少しばかり柔らかい表情になる。いや、同情なのかもしれない。「憧れがあったから、あなたは私立探偵になった。そうでなければ、マーロウやスカダーの名前は出ません。ハードボイルドに生きる理想を現実にしようとして、今のあなたがあるのではないでしょうか」

「なんやねん。嫌味か?」

「いえ。ただ、あなたならきっとやり遂げると信じている。そう、申し上げたいのです」

「俺の何を知ってるっちゅうねん」

「大阪市大正区生まれ、三十九歳。身長百七十五センチ、体重七十八キログラム。現在は東大阪市に在住。愛煙する煙草の銘柄はハイライト。離婚歴、逮捕歴、ともに一回。趣味は競艇、競馬、パチンコ、スロット、麻雀。仕事柄、裏カジノにツテができ、会員として参加もしている。アルコール依存の傾向あり。別れた妻との間には、十歳になる息子が一人。親権は元妻で、彼女は再婚し、現在の姓は石田いしだ。平和の和に美しいで、かずみ。息子は真実の真にヒトで、まこと。家族は、石田和美かずみと石田真人まことの他、実弟の浅利大地だいち。両親は他界し、親しい親族はなし。––––まだ続けますか?」

「いいや、結構」浅利は乱暴に煙草に火を灯す。「弱点も何もかもお見通し、逃げ場はないってか? まるでヤクザのやり口やな」

「それだけ私が真剣だということですよ」

「そんなようけ調べられるんやったら、自分で捜したらええんとちゃうか?」

「もちろん、やりました。でも、限界がありました」

「俺がその限界を超えられるとは思えへんけどな」

 人見は無表情に黙り込む。何かを思案しているのだろう。ほどなく、語り出す。「浅利探偵は何でもする。つまり、"どんな手を使って"でも捜し出す。それに期待しています」

「たとえ法を犯してでも」

 人見は否定も肯定もしない。

 浅利は水割りを飲み干す。「残念やが、忙しい」

「そうは見えませんが」

「目に映るもんだけが真実やとは限らへんぞ」浅利は黒ずんだ歯を見せる。

 人見は彼の顔など見ておらず、バッグの中から、封筒を取り出す。手紙が入っているにしては厚みがある。いや、苦情の手紙であれば、それぐらい集まっても不思議ではない、と浅利はクックと小さく声を出して笑う。

「まずは三十万」人見は抑揚のない声で言う。「とりあえず、一週間、調べてもらえないでしょうか」

 浅利は油が肌に飛んだときのような条件反射で動き、封筒を手に取り、中を見る。「間違いなく日本円やな。偽造ではないな?」一枚の紙幣を天井にかざし、透かしを確認する。

「本物です」人見の声色は変わらない。「一週間分の調査費用としてお支払いします」

「一週間で見つかるかどうか、保証はないぞ」浅利は金の束から目が離せない。

「ええ。結果がどうであれ、そのお金の返却は求めません」

「一週間が終わったらどうする? つまり、あれや。そこでしまいなんか、二週目もやんのんか。やるんやったら、また三十万くれんのんか?」

「状況次第です。続ける意味がないと感じれば、調査は終了。浅利探偵は三十万円を手にし、通常業務に戻ってください。続けていただきたいと思えば、追加費用をお渡しします。金額は状況に応じて。増額も減額もあり得ます。断っておきますが、お金欲しさの引き延ばしは通用しません。どうしますか?」

「しゃあないなあ」浅利は封筒をジャンパーの内ポケットにしまい、服の上からその厚みを確かめる。「やったろうやないか」

 記者がどうして自分で調べず、自分のようなろくでなしの私立探偵を頼るのか。疑問には思ったが、それ以上深くは考えなかった。現金ゲンナマの誘惑は、それほどまでに強烈なのだ。


 その日の午後、浅利は競艇に三万円注ぎ込み、二万円儲けを出した。降って湧いた三十万は三十二万に膨れた。良いことは続くらしい。

 有頂天になった浅利は、数十年ぶりにスキップして寿司屋へ入り、高いネタばかりを一万五千円分食し、キャバクラで三万円、オプションを付けた風俗ソープで四万円消費した。日付が変わった頃には、テーマパークのような銭湯施設でカタカナばかりが並んだ名前のマッサージを受け、開始五分で夢の中に入った。百二十分後に目覚めると、再び夜の街へ繰り出し、再びアルコールを摂取した。太陽が見え始めると、タクシーで事務所に戻った。

 浅利が寝起きするのは、探偵事務所の奥にある小部屋の簡易ベッドだ。自宅と事務所を行き来するのは億劫だし、二つ部屋を借りれば、それだけ金がかかる。だから、自宅と事務所を分けることをやめた。

 服を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ浅利は、すぐに夢の世界に入る。悪夢ではない夢をみるのは、数ヶ月ぶりだった。目覚めた頃には忘れてしまっているような夢だったが、その夢の中で、三十万円は増え続けていた。金銭以外にも幸せ続きの夢だったが、目覚めた後に残っているのは、激しい二日酔いと、一晩で十五万円使ったという事実だけだ。


 正午過ぎに目覚めると、歯磨きより先に煙草を吸い、薄いインスタントコーヒーを飲んだ。死肉を貪るような苦味が口内に広がり、二日酔いの頭はいっそう重たくなった。考えもせずに固定電話の光るボタンを押すと、留守番電話が勝手に喋り始めた。全部聞く前に消去した。最初の方を聞いただけでも、ろくでもない内容だったからだ。剥き出しのままポケットに捩じ込んでいた紙幣の残りを数え、まだ十五万円残っているとわかると、次にその金をどう使おうか考えた。思いつくのは、ギャンブルと酒と女のことしかなかった。金があろうとなかろうと、やることは何も変わりはしない。

 ガラスのコップに残っていた水を飲むと、酒の味がした。氷が溶け、常温の水割りになったまま放置されていた焼酎だ。

 一層気分が悪くなり、ようやく歯を磨く。脱ぎ捨ててあった皺だらけのシャツを着て、一度も洗ったことのないジャンパーを羽織ると、事務所を出た。特に、行く先は決めていなかった。


 惰性で入ったパチンコで、十分もしないうちに一万円が消えた。それ以上はやる気がせず、悪態をついて店を出る。きっと、いつもなら、勝つまで勝つまで、ともう少し続けていただろう。そんなことをしてうまくいったためしは、ほとんどないというのに。泡銭あぶくぜにの三十万円が、それ以上の負けを止めてくれたのかもしれない。

 通りかかった電気屋の宣伝ポスターを見て、ふと息子へのプレゼントを思いついた。最新型の小型ゲーム機が人気なのは知っていた。五万円近くしたが、競艇やパチンコでスルよりは健全な金の使い道のように思えた。ゲーム機だけでは遊べないらしかったが、息子の欲しがりそうなゲームソフトがどれなのかは見当がつかなかった。ランキング形式で並べられていたゲームソフトの一位と二位を買うことにした。総額、約六万円。無限に思えていた三十人の福沢諭吉は、気が付くと数えるほどしか残っていない。三十万円は、浅利が想像していたよりも、随分と少なく感じた。

 どうせ、最後には消えるもの。金は使ってこそ価値がある。

 電気屋のゲーム売り場からPC・タブレット売り場に移動し、型落ちした最安値のタブレットを買った。それでも、二万五千円もかかった。ギガがどうしたとか、パケットがどうしたとか、店員は熱心に語っていたが、浅利にとってはフィンランド語の方がまだ理解できた(ありがとう、をキートスと言うのは知っている)。携帯電話はおろか、スマートフォンだって持ったことはないのだ。いつでも誰かから電話がかかってくるなんて代物、どうして好き好んで持たなければならない? 持ったとしても、四六時中届くメールの音にうんざりして、叩き割るに違いない。いや、それ以前の問題だ。連絡を取る間柄の人間など、この世界には存在しない。

 浅利は電気屋の袋を持ったままカフェに入ると、無料Wi-Fiを使ってタブレットをインターネットに繋いだ。電気屋の店員が言っていた通り、Wi-Fiと接続できれば、オンライン機能が使えるようだ。詳しい仕組みはまったくわかっていなかったが、どうやら現代で一番力を持つのは、電波らしい。

 浅利はグーグルのアプリを起動し、『金子岳郎』と検索した。『岳』の変換がうまくいかず、『竹』や『丈』となり、結局は『たけろう』とひらがなで入力した。早くもうんざりしはじめたが、グーグルが気を利かせて『金子岳郎ではないですか』と目当ての人物を表示してくれたおかげで、気を持ち直した。

 殺人事件の調査など、最初からするつもりはなかった。三十万円で十分だと思っていた。が、その金はもう残り少ない。日付が変わる前になくなることもあり得る。そうなれば、話は変わってくる。表面だけでも調査をしているふうを装い、人見との契約を継続し、追加の三十万を手に入れる必要がある。

 浅利は、ゲーム機を買った後で、事務所の家賃を二ヶ月滞納していることを思い出していた。三十万円の最初の使い道は、それであるべきだった。時すでに遅し。が、今払うも来週払うも、大した違いはない、とすぐに気持ちを切り替える。立ち直りは早い方なのだ。

 浅利は煙草をくわえ、タブレットに向き直る。

 いくつかの新聞社のオンライン記事によると、事件が起こったのは六月二十八日未明。与党・金子岳郎参議院議員は、大阪市北区のホテルに滞在中、頭を拳銃のようなもので撃たれ死亡した。警察は、現場に争ったような跡はみられず、顔見知りによる犯行とみて捜査を進めている、らしい。金子議員が自ら部屋に招き入れた人物に殺されたということだろうか。

 週刊誌やスポーツ新聞の記事には、さらに詳しく生々しいことが書かれていた。

 かいつまんで言うと、金子議員はバスローブ姿で亡くなっていた。つまり、そういうことだ。妻ではない女性と会っていた。ホテルの一室で、裸同然の姿で。それがただ会っていただけでないことは明白だ。然るべき事象があった。記事には、過去に関係があったことをにおわせる女性たちのモザイク入りの写真と、発言内容も書かれていた。ようするに、金子議員は、不倫相手に殺されたと疑っているわけだ。

 浅利は目を擦り、コーヒーを飲む。インスタントよりも深い苦味を感じる。旨い。が、目を閉じて飲み比べろと言われたら、正解を導ける自信はなかった。

 新しい煙草に火をつけ、バックライトが暗くなったタブレットを眺める。

 事件の基礎知識は頭に入った。が、何から始めたらいいのかはわからなかった。フィクションで得た知識から考えると、まずは聞き込みだろうか。でも、どこに何を聞き込めばいい? 

 熟考の末、浅利は夜の街に繰り出す。酒場での聞き込みこそ、探偵の性分だ、と。翌朝には、三十人でやってきた福沢諭吉が一人残らずいなくなっている。

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