▼ 不眠症のゾウ

 名前を呼ばれた。

「ゾウヤマさーん。ゾウヤマさーん」

 よく通る肉声が、病院の待合室に響いた。尼崎市のその病院に、ゾウは数年前から通っている。今更名前を間違えられるはずはないのだが。

 受付を見ると、初めて見る看護師がバインダーの名前を読み上げていた。

 ゾウは立ち上がり、受付に行った。

「キサヤマです。ゾウヤマと書いて、象山キサヤマ象山きさやま人見ひとみです」腹を立てたわけではなかったが、ゾウは訂正した。自分でも気づかぬうちに、象山人見という名前が定着しているのかもしれない。

 看護師は詫びを口にし、診察室へゾウを通した。

 白髪の医者はいつものように穏やかな声で症状を訊いてきた。子守唄のような声だ。この声で眠れるなら、どれだけ幸せだろう。もしかすると、ゾウを眠らせるために意図的に穏やかな声を出しているのかもしれない。

「まだ眠れませんか?」医者は言った。

 ゾウは頷く。だから、いまもここにいる。

「眠るために、何かしていますか?」

「ベッドに横になり、目を瞑る。でも、眠れない」

「薬は飲んでいますか?」

「いいや」ゾウは正直に言う。「薬の類いはどうも身体に合わなくてね。先生が処方した薬を飲んだら、酷い頭痛に襲われた。以降は何も口にしないと決めた」

「そうですか」医者は怒ることも注意することもなく、聴診器を耳につけた。

ゾウは服をまくる。

 医者は聴診器を握る手を止めた。「以前には見られなかった傷がありますね。どうしたんですか?」

 ゾウは指先で、医者の指摘した銃痕に触れた。数日前の銃撃を思い起こす。

 大雨洪水警報が発出されていた夜、バイクを降りたゾウの前に、痩せた男が現れた。激しい雨音と視界の悪いフルフェイスのせいで、気がつくのが遅れた。

 痩せた男は鉄の筒を構えていた。よく見ると鉄の筒は二本連なっていた。まずい、と思ったときには銃弾が飛んだ。銃弾はカプセルのようなものに鉛玉を詰めたものだった。手製の散弾銃だ。立ち昇る黒煙から、黒色火薬を使った火縄銃のアレンジだと思われた。

 一発目のカプセルはゾウの側にあった電柱に着弾した。鉛玉のひとつが身体をかすめた気がしたが、痛みはなかった。

 二発目はゾウの腹部に着弾し、衝撃で後ろに倒れた。ゾウは倒れたまま、動きを止めた。痛みはあったが、骨は折れていなさそうだ。致命傷ではない。防弾用に改良したキャッチャープロテクターが功を成したようだ。

 男が手製の銃を構えたまま近づいてきた。距離が縮まり、男のそれが、銃と呼ぶにはあまりにもお粗末な造形をしていることがわかった。子供が段ボールで作るような玩具の銃よりも酷い。鉄パイプ二本をテープで固定してあるだけの造りだ。おそらく、一発限りで連射はできない。

 男はバックパックに手製の銃をしまい、新しい銃をだそうとした。やはり。

 ゾウは男の視線が自分から外れた隙に、素早く身体を滑らせ、男の脛を踵で蹴り飛ばした。突然の足技にバランスを崩した男は水浸しの路上に倒れ落ちた。

 ゾウは勢いよく起き上がり、男の頭を踏みつけ、すぐに距離を取った。

 痩せた男には見覚えがあった。一年前に土方組沖中幻騎を前に、驚異の身体能力を見せつけたガマという男だ。貧弱な体格に惑わされてはならない。組み合いになれば負ける可能性も視野に入れる必要があった。本来ならば、貧弱という擬態を纏ったガマに分があったかもしれないが、ガマという男の危険性を知っていたゾウの前では、そのアドバンテージはなかった。もっといえば、ガマの貧弱は擬態ではなく、本物の貧弱だった。奇襲し油断しきっている相手に対し、攻撃を受けずに暗殺を成功させるからこその脅威であって、警戒しきっている相手に対してはほぼ無力といえた。面と向かった格闘技術はないに等しく、武器がなければ、やんちゃな中学生を相手にするよりも簡単だった。誰にも見つからずに相手を殺す––––暗殺の条件が崩れてしまえば何もできない。

 ゾウは二発目の蹴りを入れると、それを理解した。ガマに類似する暗殺者のことはよく知っている。どう対処すればいいのかも心得ていた。冷静に適切に痛めつけ、うつ伏せにしたガマにのしかかり、膝で首を押さえて顔を水溜りに沈めた。釣り上げられて跳ね回る魚のように暴れていた身体も、数秒後には動かなくなった。あとはドブにでも転がしておけばいい。すべて、雨のせいになる。

 ゾウは銃弾を受け、痣となった傷跡に触れる。あのとき––––あの花火工場でガマを殺していれば、危機に直面することもなかった。しかし、それは起こり得なかった未来だ。ゾウは自らの意志でガマを生かし、その代償を負った。

 ゾウは後悔をしない。過去を反省することはあっても、自らの行いを後悔することはなかった。今も、これからも––––

「象山さん?」医者が言う。どうやら、銃弾の痣の話は既に終わっていたようだ。医者はゾウの不眠症の診断結果について見解を述べていた。

 ゾウは立ち上がる。「私が来なくなったら、眠れるようになったか、あるいは死んだものと思ってくれ」

 お決まりになりつつある捨て台詞に、医者は笑い声だけで答えた。

 ゾウは病院を出て、スマートフォンの機内モードを解除するとタイミングを見計らったように電話が鳴った。

「もう声が聞けないのかと思った」百合餡が言った。

「病院にいたものでね。機内モードにしていたんだ」

「てっきり飛行機に乗っているのかと思った。病院って機内モードにしなきゃいけないんだっけ? 控えるのは通話だけじゃなくって?」

「さあね。口実にしたかっただけなのかもしれない。携帯電話を切れば、世界から自由になれる。電波の届かない世界にこそ、本当の自由がある。そう信じているんだ」

「病院って、どこか悪いの?」

「悪くないかどうかを診ていたんだ」

「そう。電波がどうとか言い出すから、頭でも打ったのかと思った」

「手厳しいな。しばらく会いにいっていないことへの当てつけかな?」

 百合餡は小さく笑った。それが答えだった。

「それで?」ゾウは咳払いする。「何か要件があるんじゃないのかい?」

 百合餡の口調が事務的に変わった。「育成選手の面倒を見てほしいの」

「私のところにそんな依頼が来るとは思わなかったな。育成契約って、何人いるんだ?」

「さあ。詳しいことは私も。支配下契約ですら、全員を把握していないんだから」

「君は一軍のコーチだから」

「そういうこと。正捕手のあなた以外には……そんなことはどうでもいいね。安心して、育成契約の全員を面倒見てって言ってるわけじゃないから。担当するのは、一人。"彼"を支配下登録するのか、それとも自由契約にするのかは、あなたに一任する」

「気が重いな」

「知っていると思うけど、育成契約の選手にはまだ"選手名"はないから。あなたが自由に名前を付けていい。それが後の選手名になるかもね」

「ますます気が重いな。他に回すことはできないのか? 熊耳くまがみにでも任せたらどうだ? 私よりは適任だと思うが」

「熊耳は別件があるの」受話器の向こうで、百合餡は冷たく言い放つ。「〈球団〉は誰よりもあなたが適任だと考えている。私も含めて」

「方便にしか聞こえないな。私は今まで育成契約に関わったことなどないのだから。それなのにどうして適任だと言える?」

「彼の名前を聞けば気が変わるかもしれないよ」そう言って、百合餡は育成契約選手の名前を告げた。「どう? あなたがやるべきだと思わない?」

 どうやら、そのようだった。

 ゾウは通話をブルートゥースのイヤフォンに切り替え、フルフェイスのヘルメットを被った。「いつから始める? 彼との連絡手段は?」

「通話アプリのアカウントを教えるから、三日以内にあなたから連絡して。育成を開始したら私に連絡すること。オーケイ?」

「わかったよ」ゾウはバイクにまたがる。「ところで、今夜食事でもどうかな?」

 通話は、既に切れていた。

「残念」ゾウはヘルメットの中でつぶやくと、バイクを走らせる。

 よく晴れた空の向こうに、入道雲が見えていた。

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