▼ 不眠症のゾウ

「こんばんは、夜更かしさん」ヘルメットのイヤフォンから、あくび交じりの百合餡の声がする。「夕食にチーズバーガーを食べたせいで『パルプ・フィクション』が観たくなったの。ビッグ・カフナァ・ヴァーガー! こいつは最高だぜ、ってサミュエルが言うシーンがどうしても観たくって。観はじめたらそれだけじゃ物足らなくなって五ドルのシェイクとツイストのシーンまで観ようと思ったんだけど、気がついたら全部観ちゃってた。おかげでこんな時間。こんな時間でもまともに話ができる相手って、あなたしかいないでしょう?」

 ゾウは答えない。

「それにしても配信サービスって便利ね。返却の手間もないし、ろくでもない延滞料金もない。時代の変化って恐ろしいね。少し前にテープを巻き戻す必要がなくなったと思ったら、今度はディスクさえいらなくなったんだから。おまけにテレビだって必要なくなった。小さなデバイス一つでどこでも映画が観られるんだから。もう少ししたら、眼鏡をかけるだけでよくなるかもしれないね」百合餡が紅茶を啜る音が聞こえる。おそらく、ダージリンだ。「ねえ、もしかしてヘルメットにも映るの?」

「そんなわけがない」ゾウの視界に映っているのは、たった今この手で殺めた男、否、男たちだけだ。しかし、それもすぐに見えなくなる。

「聞こえているなら返事くらいしてもいいじゃない。電話越しに相槌を打っても伝わらないんだよ」

「手が離せなくてね」

「あら、邪魔しちゃった?」

「いや。ちょうど終わったところだ」ゾウはバイクにまたがり、走り出す。

「スコアボードの件だよね? 進捗状況は?」

「四回の表が終わったところだよ」

「さすがね。勝利はもうすぐ」

「お褒めいただき光栄だけどね、試合はまだ始まったばかりだ」

「野球は九回が終わるまでわからない」

「そう、野球ならね」残念ながら、これは野球ではない。「要件はそれだけかな? 今夜は帰って眠りたいのだが」本当に眠れたのなら、どんなにいいか。

「〈ココナッツ〉って知ってる?」百合餡は脈絡もなく話し始める。

「南国の果実ではなく」

「そう。堅い実にようやく穴をあけられたと思ったら、出てきた液体は甘いどころか無味に近い。ところが、使ってみたらいろんなところで活躍しちゃう。でも、私が言っているのは食べられないし、オイルにもならない方の話」

「知っているよ」

 ゾウが記憶している限り、闇サイト〈ココナッツ〉の由来は、百合餡が口にした南国の果実の説明と同じだ。警察の手が届かないように堅い殻で覆われていて、ちょっと穴をあけただけじゃ、出てくるものは味気ない。しかし、うまく使えばあらゆるものに加工できる。そういう意味を込めて名付けられた、犯罪を提供するインターネットサイトだ。

「〈ココナッツ〉がどうかしたのかい?」ゾウはバイクにまたがり、国道を走る。近くに、長距離トラックが二台見える。コンテナには、別々の社名が書かれている。

「ちょっと妙な書き込みがあってね。それについてあなたの意見を聞きたいから、明日の午前––––もう日付は変わってるけど––––に店に寄ってくれる?」

 ものは言いようだ。実際に意見を聞きたいわけではなく、厄介事を押し付けるだけだというのに。それでも、ゾウはわかった、と言う。自分の仕事と役割を理解しているからだ。「あの映画の話だが、私は一つだけ気になるところがある。ヴィンセント・ベガだ」

「あら、トラボルタのツイストがそんなに気に入らない?」

「いいや。むしろ、あそこは気に入っている。私が言っているのは、便所だよ。彼は凄腕の殺し屋のはずだろう? それがブルース・ウィリスの家に入って、長いクソなんか垂れるかな。あんなゴツい銃をキッチンに置きっぱなしにして。結果がどうなるか、分かりきっているのに」

「言いたいことはわかるよ」百合餡はまた、あくびを挟む。「それでも、結果面白いじゃない。あの映画は最高だった。それじゃ不満?」

「いいや、全く」

「タランティーノ万歳」百合餡はあくびしながら言う。

「完全に同意するよ」しかし、電話はすでに切れていた。


 その店は〈ブティック・ネビュラ〉という名で、全国に複数の店舗を構える古着屋だった。百合餡は神戸店の店長、という肩書きを持っていた。もちろんそれは、表の顔、社会に紛れるための社会的身分だ。

〈ネビュラ〉は〈球団〉が隠れ蓑にする会社の一つだ。〈ネビュラ〉自体に違法性はない。従業員も、全てが"球団員"というわけではなく、多くは何も知らない一般従業員だ。店舗の目的は、非合法な物資の取引でもマネーロンダリングでもない。監視カメラやスマートフォンが普及するより遥か前から、仕事の伝達のために使われている。指名打者と呼ばれる暗殺者に、仕事の指示を出す場であるのだ。そして〈ネビュラ〉の店長は、〈球団〉本部との仲介人の役割を担う「監督」や「コーチ」と呼ばれる人物が務めている。百合餡の本職はそれだった。

「いらっしゃい」百合餡はデスクに座ったままティーカップを口に運ぶ。

 神戸店の地下に設けられた店長室は、よくわからない彫刻や絵画が飾られていて、地方都市の美術館を連想させる内装だった。談話用のソファやテーブルは置かれているが、それ以外は必要最低限に抑えられている。

 ゾウはフルフェイスのヘルメットをとると、羊の彫刻の隣に置いた。この部屋に来たのは初めてではなかったが、随分と時間があいたように思う。彫刻や絵画の種類が前とは違っていた。それがいつ取り替えられたのか、想像もつかない。

「何か飲む?」百合餡は戸棚からカップを取り出す。ゾウのために置いてあるカップだ。

「同じものを」ゾウは視線で百合餡のカップを指す。「ミルクはなし、シュガーもなし」

「承知しました、キャプテン・エレファント」百合餡はポットの紅茶を注ぎ、談話用のテーブルに置く。

 ゾウはカップを手に取り、香り、飲む。

「うまいね」本心だった。きっとフォートナム&メイソンのダージリンだ。ただ、コーヒーを飲みたかったが。

「それはよかった。でも、本当はアールグレイがよかったって顔してる」

 ゾウは肩をすくめて応える。

「嘘よ。本当はコーヒーが飲みたかったんでしょう? 淹れた方がいい?」

「いや。それより〈ココナッツ〉の話がしたいね」

「甘党だったなんてね。……冗談よ。そんな顔しないで。〈ココナッツ〉の使い方は知ってるんだよね?」

「闇サイトだということは知っている。けど、使い方は知らない。存在を知っているだけで、覗いたこともないんだ」

「簡単には覗けないようになっているしね。クリックしただけじゃ、ココナッツの殻は抜けられない。タップって言った方がわかりやすい?」

「どっちでも。それがなんであれ、会員登録する気はない。私は〈球団〉と契約しているからね」

「でも、二つとも登録しちゃいけないなんて決まりはない。ネットフリックスとアマゾンプライムを同時に登録するみたいに。ツイッターとインスタグラムを同時にやるみたいに」

「書き込みと言っていたのはそういうわけか」

「どういうわけなのかはわからないけど、あれは電話だったから。もっと直接的に言うなら〈ココナッツ〉に殺しの依頼があった」

「そりゃそうだろうな。〈球団〉の関係者でも狙われたのかい?」

「笑えない冗談」百合餡はカップを口に運ぶ。「〈球団〉が金子岳郎って衆議院議員の元に指名打者を送ったってのは言ったよね?」

「ところが、試合は中止になった。別の打者が先に打点をあげてしまった、と言った方がいいかな? なんにせよ、〈球団〉はどこかの誰かに先を越されたというわけだ。だから、私が指名された。リストアップされた人間の中から、そのどこかの誰かを見つけ出し、始末するために。そのせいで夜な夜な試合をする羽目になっている。今夜は四回裏だ。いや、明日に持ち越しになるかもしれない。相手の動き次第では、凡退も致し方ない」まったく、私はどうしてこんな用語を口にしている? 昨夜までに七組の人間を殺し、今夜は八組目を殺そうとしている。そう言えばいいと言うのに。しかし、ゾウは思う。〈球団〉の野球隠語にうんざりする半面、楽しんでいる自分もいた。「今更説明が必要かな?」

「そんなに怒らなくてもいいじゃない」

「怒っていない」

 百合餡はわざとらしく上半身だけを仰け反らせる。「金子議員が殺された後〈ココナッツ〉に殺害依頼があった。あろうことか、金子議員を殺す依頼がね。一体どうやったら死んだ人間をもう一度殺せるの?」

「確かなのか?」

「ええ。投稿された時間には、金子議員は確かに死んでいた」

「依頼を投稿してから、サイトにあがるまでのタイムラグということはないのか?」

「その可能性はゼロじゃない。金子の死亡推定時刻はおおよそだから。もしもタイムラグならそれでいい。あの汚職政治家が永遠に喋らなくなることを願う人間なんて山のようにいるだろうから、それほどおかしな話でもない。でも、もしも、金子が死んだ後に依頼を載せた人間がいるとしたら?」

 ゾウは両手をあげる。「さっぱりだ。見当もつかない」

「私もよ。どれだけ考えても、金子を二回殺さなきゃならない理由はまったく思いつかない」

「それで?」

「それで?」

「私に何をしろと?」

「別に何も。意見を聞きたいって言わなかったっけ? 投稿した彼––––あるいは彼女が、何を考えているのか、あなたはどう思うかって訊きたかっただけ」

 ゾウはダージリンを––––すっかり冷めていた––––喉に通し、考え込む。「残念ながら、力にはなれそうもない」

「仕方がない。自分を責めないで。実を言うと、はっきりとした答えを求めていたわけではないの。コーチと選手には、こういったコミュニケーションも必要じゃない?」

「ビジネス上のパートナーであると同時に、良き友人でもあるから」

「そう、それ。それが言いたかった」

 ゾウは冷たくなったダージリンを一気に飲み干す。覚悟は決まっている。「誰がその投稿をしたのか。それを頭に置きながら、試合を進めることにするよ」

「ありがとう。そう言ってくれると思ってた」

 つまり、それは個人的なことで、追加条件による報酬は望めないということだ。もっとも、大した問題ではないが。

「世間話ついでに聞くけど、昼間の方はどうなの?」百合餡は自分のカップにダージリンを注ぐ。「まだ飲みたい?」

 ゾウはそれを断る。「特別言うことはないよ。代わり映えしない日々さ」

「それはそれで問題ね」

「まあね。でも、私ではどうしようもない」

「悩ましいね」

「悩ましいな」

 そうして、会話は脱線したまま続いていく。暇を持て余したファミリーレストランのティーンエイジャーみたいに。

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