▼ 不眠症のゾウ

 電話が鳴ったとき、ゾウは最後の一人を殺したところだった。

「もしもし」ゾウはボイスチェンジャーを通し、ブルートゥースのイヤフォンに語りかける。

 機械音声は非通知からの着信だと告げていた。ゾウは百合餡からだと予想するが、聞こえてきたのは男の声だった。

「ゾウ? わしや」

 ゾウは聞き覚えのある声に、顔を思い浮かべる。「エド?」

「そうや、そうや。いま何しとる?」

「ちょっとバッティングを」ゾウは会話をしながら、速やかに処理をする。「この言い方で通じる?」

「何となく」

「そういうわけだから、少し立て込んでいる。要件を手短にお願いできるかな?」

「フリーランスのカエル。"カエルとガマ"のカエルの方や。ガマの方は見てへんけど、何年も前から二人は一緒や。今でもコンビを組んどるはず。まだ生きとるんやったらな」

「死んでる可能性もあるんだ?」

「こんな商売やからなあ。ないとは言えんやろ」

「それはそうだね。他には?」

「ゾウの見た目に関しては伝えた。もちろん、素顔のことは言うてへんで。わしも知らんねやからな。中立に反しないと考える範囲で喋った」

「そして、中立の立場だから、カエルとガマについてこれ以上詳しいことは喋らない」

「ようわかっとるやないか。契約は『ゾウの情報を探りにきた人物の呼び名の開示』やからな。たとえ〈球団〉であっても、依怙贔屓はせえへん」

「うん。それで十分だよ。ありがとう、エド。もう一つの件はどうかな?」

「それはまだ調査中や。……ほなな」

 電話が切れる。ゾウは黙々と作業をし、今夜その場で起こった惨劇は跡形もなく消え去る。そして、バイクにまたがる。


 夜明け前に電話が鳴ったとき、ゾウは自宅でフィンランド語の学習をしていた。不眠症のせいで持て余す時間を、語学学習に充てるのが、もっぱらのマイブームだった。ただ、習得できるかどうかは別問題だ。悪魔の言語と言われるだけあって、日本人にとってフィンランド語の学習はかなり難しい。

 画面の表示を確認し、ボイスチェンジャーアプリ(非正規)を起動し、スマートフォンの通話を押す。

「ゾウさん?」

「やあ、百合餡」非通知だったが、ゾウには出る前から相手がわかっていた。そろそろかかってくるだろうということも。「スコアボードは五回の表。まだ途中だ。2アウト走者なしってところかな」

「それなのに電話は出なかった」百合餡は少しだけ不貞腐れたような声を出す。「てっきり試合中なんだと思ってたけど」

「試合中ではあった。ただ〈球団〉の組む試合ではなく、個人的な草野球だったんだ」

「詳しく聞きたいところね」

「どうやら〈ココナッツ〉に私の暗殺依頼が掲載されているようなんだ。さっきもそれで襲われた。心配はいらない。尾行されているのはわかったから、都合のいい場所に誘導し、返り討ちにした。痕跡は残していない」

「心配なんてするはずないでしょうが。相手は?」

「半グレというのか不良グループというのか。呼び方はわからないが、ヤクザにすらなれない半端者、というような連中だった。もっとも、だからこそ無鉄砲で過激な行動に出るわけなのかもしれないが。とにかく、ただ賞金に目が眩んだだけの悪党たちの群れさ。あまり統率のとれた組織とは言えなかった」

「グループ名は?」

「さあね。忘れたよ」

「だと思った」百合餡はため息交じりに言う。「〈ココナッツ〉に名前があがった心当たりは?」

「ありすぎるね。このところスコアボードの件で連戦だったからね。どこからかゾウの名前が漏れてもおかしくはない。というより、漏れるに決まっている。あれはゾウの仕業だってね。大阪中のあらゆる事象が、私のせいにされているんだろう」

「噂ってそういうものよ」百合餡は少女のように笑う。「私の聞いた話じゃ、ゾウは二メートルを超える巨漢だって。そんな目立つ見た目なら、正体不明のままでいられないと思わない?」

「二メートルを超える一般人は、日本じゃ見たことがないな」

「私だってそう。あ、そういえば、あなたがなんて呼ばれているか知ってる?」

「ゾウ、だと思っているが」

「それは内輪でしょう。答えは、エレファントマン」

「ああ。そういえば、例の試合中に誰かがそんなことを言っていたような気がする。デヴィット・リンチも知らないようなやつがね」

「スパイダーマンとかバットマンだとかと同じような感覚なんだよ、きっと。蜘蛛に噛まれたみたいに、ゾウに噛まれたんだとか。ねえ、ゾウって噛むの?」

「襲われればあるいは。でも、優しい動物だ。きっと、そんなことはしない」

 百合餡は小さく笑う。

「なんだ?」

「別に。動物が好きなんだな、と思って」

「動物は好きだよ。人間よりもね」

 百合餡の笑い声が飛ぶ。大きく口を開けて笑い、手のひらで口元を覆ったせいだろうと、ゾウは予想する。

「どうかしたのかい?」

「前に、同じようなことを言った指名打者がいたからつい。深い意味はないの」

「そうか。それより、訊きたいことがあったんじゃないか?」

「ええ。進捗状況について。でも、もう大丈夫。何もないということはそういうことだから。続けていけそう?」

「どうだろう。率直に言えば、続ける意味すらわからない」

「でもやる」

「ああ、それが〈球団〉の意向ならね」

「だから気に入ってる」電波に乗って百合餡の笑みが見える。

 ゾウは相好を崩す。「よしてくれ。会いたくなる」

「私はとっくに会いたいけど?」

 ゾウは少々お大袈裟に声を出して笑った。

 

 ゾウは不眠症だ。若い頃に頭部に受けた銃撃による後遺症らしい。医者は何やら小難しい専門用語を使い、仰々しい病名をつけて寄越したが、何一つ理解することはできなかった。今となっては用語の一つすら覚えていない。とどのつまり、銃弾による脳の損傷で眠れなくなった。事実はそれだ。

 不眠による影響がどれほどのものかはわからないが、体感する身体的影響はそれほど感じられなかった。運動能力も疲労も、以前となんら変わりはない。精神的影響に関しては、もっと少ないと言える。眠れない、ではなく、眠らなくて済むようになった。そう捉えるようになったのだ。一日二十四時間のうち、睡眠が占める平均六〜八時間がそのまま活動時間として転換できる。これは、捉えようにとってはかなりのアドバンテージになる。ゾウはその時間を使って、さまざまなことを学ぶようになった。

 まずは語学。日に一時間から二時間程度、他国の言語を習得することに充てる。言語は覚えて損になることはないし、脳へのちょうどいい刺激になることもわかった。軽い覚醒状態になり、その後の行動に集中力が増すのだ。あるいは、これも銃弾の後遺症なのか。

 次は武術。幼い頃から学んでいた空手に加え、イスラエル近接格闘術クラヴマガ、カポエイラ、と興味が湧いた格闘技や実戦で役に立ちそうな武術を独学で吸収した。割く時間は日によってまちまちだが、シャドウだけは最低三十分、必ずやるようにしている。語学学習によって活性化された脳により、想像力も底上げされているようで、仮想敵とのイメージトレーニングは目に見えて効果的だった。

 もう一つは、備品の整備と改良だ。フルフェイスのヘルメットとキャッチャーマスクを融合させたり、実験を重ね即効性の睡眠導入剤を調合したり、武器や防具になるものを作った。当然ながら、これに最も時間を費やすこととなった。しかし、一度装備が完成した後は、次に必要なものが思い浮かぶまで整備点検以外にすることはなくなった。時間は、自ずと空く。状況に応じてその他に取り組む内容もあるし、読書や映画鑑賞など趣味に没頭することもある。

 そして現在、ゾウは街が眠る時刻を、〈球団〉の用意した「殺しのリストスコアボード」から名前を消す作業に充てている。それが「試合殺し」だ。

 スコアボードに記された人物たちがどういう人間なのかは知らない。知る必要のないことだ。その人物が善人であれ、聖人君主であれ、〈球団〉が殺せというのなら、それに従う。それが仕事だ。ただ、今回の仕事では「スコアボード」の中に一人だけ「当たり」がいて、その人物だけは捕獲することになっていた。

 ゾウにとって、殺しの境界線は一つ。「子供」ではない人間。子供の定義は年齢ではなく主観だ。言語化できる明確な区分はないが、概ね、高校生以上が対象となる。〈球団〉を介した仕事として未成年が標的となることはない。全くのゼロというわけではないが、ほとんど皆無と言っていい。これまでに、そういった仕事はなかったのだから。考えてみれば当然のことで、大金を払って未成年を殺したがる人間など、そうはいない。ゾウが過去に少しばかりこの世の終わりを届けた十代後半の人間は、どれも私用だった。否応なくそうした。そうせざるを得なかった、というところだ。

 動物が対象外なのは言うまでもない。悪意の対極にある存在であり、まごうことなき純真無垢な存在だ。いかなる理由があろうと、殺すことはない。ベジタリアンのゾウは、食事のために殺すこともしない(そして、それを他人に強制することも)。動物だけが、ゾウの殺しの条件から、完全に外れた存在だった。

 ゾウの住処すみかは東大阪市某所。賃貸アパートに住んでいて、家具・家電は必要なだけ揃えているが、思い入れのある物品はない。いざとなればその身一つで、姿を消すだろう。そのための備えもある。

 仕事が生き方となる。ゾウはそういうたぐいの人間だった。

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