▲ 太ったカエルと痩せたガマ

 突然の花火に、カエルは目を奪われた。

 こんなにまばゆいのはいつ以来だろう。明るく楽しい学生時代とはかけ離れた青春を過ごし、ずっと暗闇の世界を生きてきた。花火とは正反対にあるような日常だ。それが当たり前だと思っていた。不満など、生じるはずがないと思っていた。

 それなのに––––

 目を背けていた景色を突きつけられたようで、目がくらんだ。神も仏も悪魔も幽霊も信じていなければ、善悪に唾を吐いて自由に生きてきたつもりだったのに、全てはまやかしだった。本当は誰よりも不自由だった。心の奥底に眠る、魂を形成する上で最も大切な何か[#「何か」に傍点]が、湧き上がってくるような気がした。

 カエルは一筋の涙を流し、慌てて拭った。皆、花火に目を奪われていたおかげで、誰の視線も集めることはなかった。

 情緒も風情もなく、騒がしいほどの爆音と光に、全てを見透かされように感じ、その困惑を隠すように煙草をくわえた。火もつけずにガマを見ると、彼もまた、花火の銃火に目を奪われていた。その表情はどこか物憂げで、愛おしくすら思えた。

 そんな全ての感情を吐き捨てるように、いつもの悪態をつこうとした矢先、花火よりも大きな怒号が飛んだ。

「ワレらの仕業か!」いち早く我にかえった外岡の声だった。

 ガマは否定の言葉を並べるが、それを口にするよりも早くに、近くにいた沖中が動き出していた。慌ててテーザー銃に手を伸ばすが、ポケットに引っかかり、もたつき、焦りのせいで床に落としてしまった。

 沖中の凶暴な肉体が、膨張するように見えた。カエルは思わず目を瞑る。

 片方ずつ目開けると、ヤクザの姿はそこにはなく、床に転がったどでかい身体が見えた。うつ伏せに床に寝る沖中の首は、生命活動を維持するのに逸脱した方角に曲がっていた。

 呆然と佇むカエルに、ガマは拾ったテーザー銃を手渡した。

 カエルは無意識に受け取り、ハッとしてガマの顔を見た。その顔は、凛として外岡を見据えていた。

「とことん舐め腐ったやつらやなあ!」外岡が巻き舌で怒鳴った。

 ガマは無言で構えた。幾度となく見てきたその臨戦態勢に、カエルは頼もしさを覚えた。

 やせ細ったガマの体形は、肉弾戦には圧倒的に不利に映ったが、人を殺すという点において、腕力は必ずしも必要ではなかった。その証拠に、ガマは大した力も用いず、人を死に至らしめていた。

 しかし、それは素手による格闘、なかでも、不意をつく襲撃が前提にあった。つまり、複数人を相手にしてはあまり効果はなく、対処できるのは最初の一人だけだ。すでに、その一人目は沖中で消費していた。警戒を強める外岡には、奇襲は通用しない。

 それでも、ガマの表情は、そのような不利を覆い隠すような威圧感があった。およそ、普段の腹痛に悩まされる青年とはかけ離れているような研ぎ澄まされた表情だった。

 もしかすると––––

 カエルは一筋の光明を見出す。相棒ガマとなら、この窮地を脱することができるのではないかと。

 花火が強くなる。

 倉庫の床や壁に跳ね返る火花に紛れ、風を切るような閃光が走った。耳のすぐそばを飛んでいったそれが、本物の銃弾であるということは、本能で理解できた。

 外岡は、グリップに白いバンテージテープが巻かれたリヴォルヴァー銃を構え、銃口をカエルとガマに向けていた。

「ヤクザを舐め腐りよって、こんボケが!」

 こうなってしまっては反撃はほとんど不可能だった。殺人において最大兵器といえる拳銃を前に、カエルはすぐに諦めた。現状、空を切る銃弾によって致命傷となる距離だ。さらに距離をとって物陰に隠れたり、反対に距離を詰めて銃口を反らせたり、選択肢はあるのかもしれない。なにせ、二対一の状況だ。拳銃にはあまり詳しくないが、銃身が短く六連発であれば、両腕を顔の前に出し、前屈みで突進すれば、頭部と心臓への被弾は免れる気がする。傷を負うが命までは届かない。その隙にガマがこのくそったれの暴力ヤクザを制圧すれば、勝機はある。だが––––

 耳元をかすめていった銃弾と、残酷な銃声はカエルの脳にこべりついて落ちなかった。確かなる死を目前に、萎縮してしまっていた。精神の遅れは、必ず悪い方へと進む。カエルは何をされたわけでもないのに尻餅をつき、両手をあげるように顔の前に出し、凶弾に平伏した。

 情けなく地べたに這いつくばる相棒カエルを前に、アスリートでいうゾーンに入りかけていたガマの戦意も、徐々に喪失されていく。突如溢れ出す恐怖に、胃を鷲掴みにされているような気がした。

 圧倒的優位に立ったことを確信した外岡は、銃を構えたままうっすらと笑みを浮かべ、片手で画面も見ずにスマートフォンを操作した。

 その動作で、彼が電話をかけていることは想像できたが、カエルとガマには、その相手までを知るすべはなかった。

 外岡は、倉庫周辺に待機させていた土方組の若い衆に連絡をしていたのだが、その電話は一向に繋がらなかった。

「ボケ! どないなっとんねん! なんで出えへんねん!」

 外岡は感情に任せて怒鳴りながらも、冷静に組員たちの造反を視野に入れていた。が、その可能性はすぐに捨てた。土方組とカエルとガマを天秤にかけたとき、カエルとガマにつくメリットがない。金銭面も、裏社会での将来の安定度も、土方についた方が有利に決まっている。それでもあえて、カエルとガマに味方するのは? 義理だ。突き動かすものは渡世の仁義しかありえないだろう。組の雑用に喜んで尻尾を振るような若人たちが、金にならぬ昔ながらの心意気に命を懸けるだろうか? いや、それは考えにくい。それよりも、第三者の介入を考慮するのが現実的だ。ということは––––

 外にいる仲間は皆、第三者の手によって葬り去られたことになる。

 外岡は唇を噛み締め、銃を握る手が力む。第三者は、カエルとガマの仲間か? いや、数分だが、会話をした印象では他に仲間がいるとは思えない。この廃工場を指定したのは俺だ。たとえカエルとガマに仲間がいたとしても、待ち伏せする時間があったとは思えない。それとも、あらかじめ土方組の所有物に仲間を待機させていた? ここは表向きはNPO法人の所有物だぞ? 土方組との接点はないはずだ。どうやって、誰がここを嗅ぎつけた? 

「ボケカスが!」唾を飛ばして怒鳴る外岡の視線が、自然とバンを捉える。浅利海人––––

 花火を撃ち込んだ第三者は、浅利海人の仲間か? 

 タイミングよくバンのドアが開き、浅利が転がるように車外に出てくるのが見えた。外岡の銃口が少し逸れる。

 外岡の意識が逸れた瞬間を、ガマは見逃さなかった。

 ガマは素早く地面を蹴り、動作に転じる。が、収まらない腹痛が初動を遅らせた。その数秒が、再び外岡の注意を引く。凶悪な意志が、銃弾に込められる。向けられる銃口と指がかかる引き金がスローモーションに映った。

 確実な死。

 ガマの身体は、沼にまったように動かなくなった。

 銃弾が飛び、血飛沫が舞う。

 ガマは自分の身体に触れた。何も感じない。手のひらを湿らせる液体は無色透明、ただの手汗だ。

 もう一度音がする。今度は、はっきりと見えた。銃弾が襲ったのは、カエルの方だった。カエルは、ガマと外岡の間で膝をつき、両手を広げて壁になっていた。

「アホガマ、ええこと教えたろか?」カエルはガマに背を向けたまま言う。「おまえの下痢やけどな、それ、精神的なもんやで。極度の緊張が腹痛なんねん。つまりや、人殺しをやめたら、下痢も止まるで」カエルは血反吐を吐きながら咳き込んだ。

「……カエル?」

「俺のケツポケットにスマホが入っとるやろ? 見てみい」

「カエル、そんなことより……」

「ええから、見てみいて」

 ガマは言われるがままにカエルのスマートフォンを取り出す。

「顔認証、二つできるやろ? 一つは俺で、もう一つはおまえにしたある。ネット銀行バンクも使えんで」

「何言ってんだよ」

「アホガマ、二人分やぞ。ごっつい金持ちやんけ。もうこんな仕事せんでええやろ。〈ココナッツ〉に関わることもなくなんねん。足あろうたらええ」

「カエル……カエルの分はどうするんだよ?」ガマは縋り付くようにカエルの身体に触れた。

「アホガマ。みなまで言いなや」

 カエルの重く大きな身体が、何かが抜け出たように軽くなる。ガマは彼の身体を支え、何度も何度も相棒の名前を呼んだ。しかし、耳にタコができるほど聞いていた悪態は、二度と聞こえてくることはなかった。

 カエルに対し、六発の銃弾を撃ち尽くした外岡は、シリンダーを弾き、新たな弾丸をリヴォルヴァーに詰めた。残るガマも撃ち殺すつもりだったが、それよりも、浅利海人の方が気にかかった。未だ止まない花火の中、浅利は地べたを這いつくばるように出口へ向かっていた。

 聞きたいことがあったが、逃すくらいなら殺した方がいい。

 外岡は両手でリヴォルヴァーを構え、浅利に照準を合わせた。

 激しい花火に紛れ、殺戮の火花が弾ける。

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