第4話 大仏さま

 ギラギラと太陽が照り付ける群青色の空の下、身じろぎもせず大仏さまは静かに座っていた。緑青色ろくしょういろの巨大な体は前かがみで、お顔はのっぺりと平坦でうつむきがち。


 そのまわりを、大勢の観光客が取り巻いている。朝、十時半でもうこの人出。さすが、鎌倉を代表する観光名所だ。


 鎌倉大仏は、夏の暑さと観光客の熱気をまとい覆いかぶさってきそうな迫力だった。 でも、同じ人ごみでも昨日の由比ガ浜の海水浴場とは、時間の流れがちがう。波音のかわりに、あたりに蝉時雨が満ちている。


 騒々しいのは変わりないのに、大仏さまの背負う時間軸は、ゆっくり進んでいるようだ。緑青色の大仏さまと正面から向き合い、そっと手を合わせた。手をおろし、仰ぎ見る。


「大きい。でもこの大仏さまって猫背だね」


 視線を大仏から外さず、隣に立つ藤原くんに感想をもらした。


「鎌倉のシンボルに対して、猫背って。でも猫背でもイケメンだろ」


 ちょっとあきれた藤原くんの台詞につられ、隣のリアルイケメンの横顔を見る。


「イケメンなのこのお顔? 平べったい――」


 そこまで言うと、藤原くんと目が合った。慌てて視線を足元に向けると、彼のベージュの七分丈パンツからのぞくくるぶしが目に飛びこむ。


 骨ばったゴツゴツとしたくるぶし。わたしの丸っこいくるぶしとは全然違う、鋭利にとがったくるぶしだ。


 昨日も砂浜で見ていたはずなのに。隠れていると思いこんでいるものが、ふいに目に入ると、心の準備が追いつかない。


 追いつかないから、石床いしどこに落ちる濃い影へ、意識はだんだんと吸いよせられていく。


「与謝野晶子の歌知らないの? 『かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな』っていうの」


 汗をかくうつむく頭の上から、記憶の片隅にかろうじて引っかかっていた歌がどこか遠くから聞こえてくる。


「知ってる。古典の授業で習った気がする――」


 生唾をのみこんで、なんとか答えた。そうしたら、藤原くんは大仏さまの後方を指さし、

「あっちに歌碑があるから、見に行かないか」

と言って、わたしがうなずくのを確認してから歩き出した。わたしも、遅れてついて行く。


 大仏の背後にまわり回廊を通り抜けようとして、ふと足をとめ振り返った。大きな背中を見あげると、猫背の背中の肩甲骨あたりに四角い窓があり、両開きの扉が羽根のように開いている。


「えっ? あんなところに窓があるけど、なんで」


 あまりの光景にわたしは、思ったことを全部口にしていた。


「ああ、この大仏の中には入れるんだ」


 その言葉を聞いて、さらに驚いた。


「中に、入れるの? だって、たしかこの大仏さまって国宝でしょ」


 わたしの素直な驚愕に、藤原くんはすこし得意げに答える。


「鎌倉の仏像で唯一の国宝だけど、たった二十円で中に入れるんだ。すごいだろ」


「二十円? 安すぎ」


「歌碑は、あよにして中に入ってみよう。ほら、こっちに入口がある」


 藤原くんはぼんやりと突っ立っていたわたしの手を取ると、背後から左側に歩いていく。わたしの冷たくなっていた左手は、藤原くんの手の温みに包まれる。その熱でわたしの額には、さらに汗が流れたのだった。


 大仏のすぐそばにある小さな受付でお金を納めて、台座にある入り口から階段を降りていく。胎内は薄暗く、階段と踊り場しかなくがらんとしているが、裏側からみた大仏さまはつぎはぎだらけだった。


「なんか、痛々しいね」


 その感想はとても場違いで失礼極まりないものかもしれないが、わたしは率直にそう思った。表の万物をみすえる悠然としたお姿と違い、裏側はこんなにも人の手が入り補強の跡もある。それは満身創痍であることを隠し、涼しい顔をして人々の願いを聞き続けている姿に思えた。それが、仏というものなのかもしれない。


「そうだな、ここに八百年もじっと座ってるのも楽じゃないよな」


 わたしの発言を失礼とはとらず、藤原くんは同意してくれた。うれしい。うれしいと思ったら、つなぎっぱなしの手に力を入れてしまった。


 だんだん胎内めぐりの感動よりも、藤原くんとつないでいる手が気になってくる。窓が開いているとはいえ、胎内はかなり蒸した。


 自然とわたしの手のひらに汗を浮く。そんな汗に濡れた手は不快だろうと思い、手を離そうとひっぱっても、藤原くんは手を離してはくれなかった。


 ようやく外に出て、外気の涼しさにほっと一息つく。晴れた空を見あげると陽光がまぶしく目を細めた瞬間、視界がゆがんだ。


 どんどん視界に黒い影が侵入してきて、スローモーションのようにわたしの体は後ろへ倒れていく。しかしつないでいたわたしの手が強く引かれ、ふわりと甘いローズの香りに包まれる。


 それはわたしと同じ柔軟剤のにおいだと思ったとたん、意識が遠のいていった。




 遠くで誰かがしゃべっている。何を言っているかはわからない。でも、低くひそめた声音が、父の声になんとなく似ていて耳に心地よい。


 子供のころ、珍しく家にいた父の話し声を聞いていると、安心して寝てしまった記憶がよみがえる。


 あのころは、やさしい父の声が好きだった。けれど、今は……。


「……すいません、そのようにお願いします」


 うっすらと、まぶたをひらくと見たこともない木目の天井が目に飛び込んでくる。室内は快適な温度を保たれていた。


 いったいここはどこだろうと、首を横に向けると少し離れたところに藤原くんが立っていた。どうもここは和室でわたしは畳の上に寝かされているようだった。


 その和室の襖がひらいていて、藤原くんは廊下に立っていたのだ。じっと、廊下に立つ藤原くんを見ていると、彼もわたしに気づき急いで室内に入ってきてそばに座った。


「目が覚めたか。気分はどう?」


「えっと、今だれかとしゃべってた?」


 わたしは、聞かれたことに答えず、質問で返していた。


「ああ、寺の人としゃべってたんだ。ここは高徳院の寺務所。なつがなかなか起きないから、救急車よぼうって言われたんだ」


 ここまで言って、藤原くんの手がわたしの額にふれた。


「ほんとは、救急車よんだ方がいいのはわかってたんだけど……ごめん。大丈夫か」


 六年前の世界で病院に行くわけにはいかない。ゆっくりと、体を起こす。


「ありがとう。大事にしなくて。きのう寝不足で貧血起こしただけだから」


 わたしのしっかりした受け答えを聞いて、藤原くんはあきらかにほっとした顔をする。寝乱れた髪を整えているわたしへ、ペットボトルの水を差し出した。


「よかった。なつに何かあったらどうしようかって」


 わたしはペットボトルを受け取り、水をすこし口にふくんだ。


「大丈夫だよ。もう、だいぶ気分いいから。ちょっと寝たらすっきりした」


「それならよかった」


 藤原くんはよかったと口にしたのに、まだ心配そうな顔をしている。


「わたしどれぐらい、寝てた?」


 あまり、この部屋に居座るのが悪いと思って訊いてみた。


「だいたい一時間ぐらい」


「そんなに?」


 わたしがあわてて立ちあがろうとすると、藤原くんはわたしより先に立ちあがり手を差しのべた。


「本当に、大丈夫か? もうちょっと休んでた方が」


 わたしは、にこりと笑い「大丈夫」と答え藤原くんの手を迷わず握った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る