第3話 湘南の海
別荘から坂をだらだらとくだって、徒歩十分で由比ガ浜に到着した。燦々と降り注ぐ太陽光に体を熱せられて、頭がくらくらして立っているのがやっとの状態だった。
眼前には人、人、人で埋めつくされた砂浜と、昨日の雨で少し濁っている青い海が広がっていた。
朝食後、穂香さんがお弁当を持たせてくれて、すぐに出発して今は十時をまわったところ。すでに波打ち際は、芋の子を洗うようなありさまだった。
湘南の海って人出がすごいって言うけど、こんなに?
「なっちゃん、ボーっとしてたら迷子になっちゃうよ。唯と手つなご」
幼稚園児に心配され、湘南の海に圧倒される大学生。それが、いまのわたしだ。人込みから少し離れたところに場所を決め、レジャーシートを敷いた。荷物を置くと、唯ちゃんは水着の上に着てきたワンピースを脱ぎ始め、藤原くんはレンタルパラソルを砂浜に立て始めた。
手持無沙汰にぼーっと突っ立っていると、唯ちゃんのするどい声が飛ぶ。
「なっちゃんも、お洋服早くぬいで。そんなんじゃ海に入れないよ」
あの青いビキニの上に白いパーカーをはおり、ジーンズのショートパンをはいてきたのだけれど、それを今ぬげと言うのか……。
まわりを見渡せば、家族連れの女性はラッシュガード、帽子とサングラスと重装備だ。だけど、若い女の子たちはビキニのまま何も羽織っていない子がほとんどだった。
わたしは観念してのろのろとショートパンツをぬぎ、パーカーのチャックに手をかけたが思いとどまる。いやいや、これは脱げないよ。
少しでもお尻を隠したくて裾をひっぱるけれど、半分見えた状態だった。わたしのこれまでの人生において、ビキニを着る機会なんてなかった。だから足はなんとか出せても、下着となんら変わらないビキニを太陽の下にはさらすなんてとてもじゃないけどできない。
先ほどからわたしたち三人に、視線が集中している。わたしにではなく、モデル並みのルックスを誇る藤原くんにみんなの目が釘付けなんだ。わたしなんて視界の端っこにかろうじてひっかかっているだけだろうけれど、それでも気になってしょうがない。
「よし、完成」
藤原くんはパラソルを立て終わり、振り返って不思議そうな顔をした。
「どうした? パーカーぬがないのか」
「えっと、このまま海に入ろうかな。日に焼けるし――」
「帰りの着替えは、持ってきてるのか」
藤原くんのこのセリフに、がっくりとうなだれる。帰りの着替えなんて持って来ていなかった。
いつまでもパーカーの裾をいじくっている場合ではなかった。瑠璃ちゃんが支度ののろいわたしの手をふりほどいて、さっさと浮き輪を持って海へ入ろうとしている。
それをあわてて引き留め、唯ちゃんのツインテールをお団子にくくり直し、日焼け止めを塗ってあげる。
くすぐったいのか、唯ちゃんは奇声を発して体をくねらせた。
「じっとして。ちゃんと塗っとかないと肌がやけどしたみたいになるよ」
「だって、くすぐったいんだもーん」
「それでも、がまんするの」
強い口調で言うと、ようやく唯ちゃんは大人しくなった。塗り終えると、やれやれとパーカーを脱ぎ自分の体にも日焼け止めを塗り始めた。
「背中は、唯が塗ってあげる」
そう言ってくれたので、わたしは唯ちゃんにくるりと背を向けると後ろにいた藤原くんと目が合った。じっと、わたしの青い水着をみつめる藤原くんの目線から今更ビキニを隠すのも滑稽だ。しかし、はずかしくてうつむくと頭上から声が落ちてくる。
「その水着、似合うよ」
藤原くんにとったら言いなれた社交辞令なのだろうけれど、このタイミングで言われては恥ずかしすぎて砂に埋もれそうだった。
「唯、俺も背中塗って」
藤原くんのカラッと湿り気のない声を聞いて、顔をあげると藤原くんは着ていたTシャツを脱いでいた。これまたどこを見ていいかわからず、わたしは前方の海へ視線をさまよわせる。
「待って、もうちょっとで終わるから」
背中を動き回る唯ちゃんの小さな手が、太陽の熱でほてる肌をよりざわざわと煽っていく。
「終わったよー」という声にほっとして、唯ちゃんにお礼を言うと、日焼け止めクリームで手を真っ白にした唯ちゃんがにやりと笑った。
「ねえ、ねえ。彼氏と彼女は塗りっこするんでしょ」
平然ととんでもないことを言ってのけた唯ちゃんに、唖然とした。
彼氏彼女という単語を知っていることにまず驚いた。最近の幼稚園児はこういうことに、敏感なのは知っていたけれどいざ面と向かって言われるとあいた口がふさがらない。
めざとく周りのカップルの動向をチェックしていたから、塗りっこという言葉が出てきたのだろう。
唯ちゃんの台詞を受けて藤原くんは、気まずそうに眉根をよせて言いよどむ。
「まあ、普通はそうだけど」
「じゃあ、あきちゃんの背中はなっちゃんが塗ってあげないと。だって、なっちゃんはあきちゃんの彼女でしょ」
ムーミンのようはふっくらした頬のあどけない顔をして、唯ちゃんは無理難題を押し付けてくる。
「でも、ふたりはいつから付き合ってたの? 唯、全然知らなかった。ねえねえ、いつから?」
無垢なムーミンは芸能リポーターばりに、追い込みをかけてくる。ここで、本当は違うといえば唯ちゃんの口から宗平夫婦に知れるだろう。そうしたら、あのふたりに怪しまれる。とにかく、事件まではあの別荘にいなければ。
どうしようとちらりと藤原くんを見ると、彼も同じことを考えているのか恋人設定を否定せずに黙っている。黙ってないで、なんとかしてほしいんだけど。
こ、ここは恋人設定にのっとって彼の背中に日焼け止めを塗るべきなのだろうか。着やせするタイプなのか、藤原くんの上半身は引き締まってほどよく筋肉がついていた。
やはり、俳優をめざそうという意識の高い人は全方位に隙がない。
整いすぎているのだから、生身の人間ではなく人形と思えばなんとか……。いや、人形設定には無理がある……。
そんなバカバカしいことをぐるぐると、頭の中で思い迷っていると、ストンと藤原くんの声が胸に落ちてきた。
「最初に会った時から、ずっと好きだったんだ。なつのこと。だから、この別荘に行く前に俺が告白した」
ものすごく、真にせまるセリフを藤原くんが言ってのけた。本当に、わたしに対する恋心を抱えていそうな、すこしかすれた切ない声音だった。
す、すごいさすが俳優志望。演技力が半端じゃない。これに、のっかってのり切るしかない。わたしは、そう判断してセリフが棒読みにならないよう、注意深く口をひらいた。
「えっと、そうなの。付き合ったばっかりだから、ちょっと恥ずかしくて塗れない――」
自分で言っていて、身もだえしそうになり最後はうつむいていた。今日はうつむいてばかりで、首が痛くなりそうだ。
その迫真の演技に唯ちゃんはすっかり騙されている。
「えー、なっちゃん照れちゃって、かわいい。そっかー、ふたりは付き合いはじめなんだ。そういえばね、お友達のみいちゃんもね、はるくんと付き合ったばっかりのころは――」
幼稚園のお友達の話をしながら、唯ちゃんは藤原くんの背中に日焼け止めを塗り始めた。よかった。なんとか、この場を切り抜けた。唯ちゃんの背中を見つつ大きなため息をつくと、そのため息が聞こえたのか藤原くんが首だけをわたしの方に向けた。
なんとか切り抜けたね。とお互いをねぎらいたくて、わたしはほほ笑んだのだけれど……。藤原くんはふと捨て犬のような、さみし気な笑みを浮かべ視線をそらせたのだった。
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