第9話 事件当日
眠れない夜があけた。今日の深夜に事件がおこる。出窓から遠くに見える海は、変わらず美しい。この景色は、何年たっても変わらないだろう。変わっていくのは、人間だけ。
まだ眠っているふたりを起こさないようにそっと部屋を出ていき、着替えをすますと螺旋階段を降りて行く。あめ色の手すりをつかみ、素足で踏む階段の床が冷たく一段一段ゆっくりと降りていくたび、目が覚めていった。
ちょうど、一階についたところでチャイムが鳴った。食料を配達してくれる商店のご主人だろう。シューズケースの引き出しからお金が入った財布を出し、玄関のドアをあけた。
段ボールをかかえた男性が、立っていた。荷物を中に入れてもらいお金を渡すと、いつもはさっさと帰っていくのに、今日は珍しく話しかけられた。
「あの、配達は明日まででいいんですよね? メールにそう書いてあったけど」
食品の注文は、穂香さんがネットでしていると言っていた。わたしは聞いていなかったけれど、明日までと穂香さんがメッセージを送ったのならそうなのだろう。
「はい、そうだと思います」
「あの、奥さんが……」
ここまで言ってご主人は、言葉を飲み込んだ。
穂香さんがどうかしたのだろうか? 一瞬変な間が流れると、ご主人は慌てた様子で自分の台詞を打ち消した。
「いや、なんでもないです。じゃあ、明日」
それだけ言って、ご主人は去って行った。あのご主人はいつも挙動不審だ。今どき御用聞きのような仕事を負担に思っているのだろうか。
わたしは段ボールをかかえリビングに入ると、穂香さんはもうキッチンに立ってお玉を手にして鍋をかき混ぜていた。トマトスープの匂いがこちらまで漂ってきて、爽やかな酸味を想像してごくんと唾をのみこんだ。
箱を床におきながら、わたしは口をひらく。
「食品の注文は、明日で終わりですか? いま、配達の人がそう言ってましたけど」
穂香さんは、お玉をおいてわたしを見る。
「なっちゃんたちが、明日で帰るでしょう。わたしたちもいっしょに帰ろうかと思って。三人がいなくなると、急にさみしくなるだろうなって」
目の前にまだわたしがいるのに、穂香さんはきれいで大きな瞳をもうウルウルとさせていた。
「東吾さんも、そうしようって言ってくれたの」
今にも泣き出しそうな穂香さんを見ていると、重要なことを思いつく。
明日わたしたちが帰るのではなく、今日帰ると言えば穂香さんたちはこの別荘から離れるんじゃないだろうか。そうすれば、余計なことを言わずに事件は防げる。
とても簡単なことだ。藤原くんに聞かずにいま言ってしまおう。
「あの、藤原くんと話し合って今日帰ろうかなって。だから、穂香さんたちもいっしょに今日帰りませんか」
帰ると言ってほしい。そう強く念じて穂香さんをみつめていると、美しい弓なりの眉はどんどん下がっていった。
「そうなの、今日帰っちゃうの……。東吾さんの原稿がね、今日いっぱいかかるんですって。だから、今日はこの別荘から離れられないの。彼、今日は一日書斎にこもってると思うわ」
父の柔和な顔を張り倒してやりたい気分になった。あの父は原稿と命を天秤にかけたら、原稿をとりそうな人だ。でも、とにかくこの別荘から今日離れてほしい。
「あの、穂香さんはさみしくないですか? 赤ちゃんとずっと離れてるの。穂香さんだけでも、いっしょに帰りませんか」
唯ちゃんとの接し方を見ていると、穂香さんはとても子供好きな人だと思っていた。そんな人が二週間も自分の子供と離れているのはつらいだろう。
せめて、穂香さんだけでもこの別荘から離れてほしいと思って言ったのだけれど、穂香さんの表情は一瞬で曇っていった。
「私ね、ろくに育児ができないダメな母親なのよ」
穂香さんのうつむく顔に、今まで見せたことのない疲労感がにじんでいた。
「赤ちゃんがなかなか泣き止んでくれないと、もうどうしていいかわからなくなってパニックになってしまうの。夜泣きがひどくて眠れなくて、イライラもしたし」
いつも穏やかな穂香さんからは、想像できない事実だった。藤原くんからは産後の体調がよくないとしか、聞いていなかった。
「だから、父が赤ちゃんから離れてこの別荘に行くよう強く進めてくれて。その言葉に甘えているの、私、最低な母親よね」
言葉もなく話を聞いているわたしに、穂香さんはあわてて言いつくろう。
「あっ、でももう大丈夫だから。ここで、ゆいちゃんやあきくん、なっちゃんと暮らしてすごく元気をもらったの。もう、育児にへこたれたりしないわ」
明るい声を出した穂香さんだったが、今にも泣き出しそうな顔をしている。
そんな穂香さんになんと声をかけていいか、子育てなんかしたことのないわたしはまったくわからない。
わたしができることは、今日帰らずに一日でも長く穂香さんたちといること。わたしたちが未来からやってきたと本当のことを言おうかと思ったけれど、これ以上穂香さんに負担がかかることは言いたくなかった。
わたしたちが、この人を守らないといけないのだ。
「やっぱり明日帰ります。もうちょっとここにいたいから」
わたしが笑うと、穂香さんも花が咲き誇ったような華やいだ笑みを浮かべた。
「よかった。そうしてね。一日でも長くみんなといたいの」
この人は、こんなにも華やかで美しいのに、育児につかれ自分を卑下している。今は通りすがりの、穂香さんの中では縁もゆかりもないわたしたちといっしょにいたいと願う。
穂香さんは父といっしょになって、幸せだったのだろうか。
思わず、口から『幸せですか』と漏れそうになったが、あわてて口をつぐむ。かわりに、仕事のことを聞いてみたくなった。
藤原くんが以前、映画の中の穂香さんは最高にかっこよくて自慢だったと言ったことを思い出したのだ。明日を無事迎えられたら、また女優をしている穂香さんの姿をわたしも見たいと思った。
「あの、穂香さんって前は女優をしてたんですよね。また、体調が戻ればお仕事に復帰されるんですか」
ほほ笑んでいた顔が、また暗く沈む。さみしい憂いをおびた顔は、痛々しい。またわたしの言葉で、かなしませてしまった。罪悪感が口をつく。
「ごめんなさい、余計なことを言いました」
「謝らないで。でももう、女優はしないわ。事務所の社長が……って父なんだけど。父がまた仕事をするように、進めているけど絶対しないの。わたしはこれ以上大勢の人の前に立ちたくない」
穂香さんは父との不倫で、世間から猛烈なバッシングを受けたのだ。それは大変なストレスだっただろう。
安易な気持ちで芸能界に戻るのかなんて、よく訊けたものだ。傷つけてしまった後悔もあるけれど、わたしはやはりこの人を守りたいと強く思った。
父と不倫をしてわたしの家庭を壊した人だけれど、穂香さんのことを知れば知るほど憎しみは薄まっていった。
それだけ、魅力的な人なのだ。はかなげで支えてあげたいと思う反面、穂香さんの気づかいに救われることもある。
穂香さんは母とはまったく、正反対な性格をしていた。母は、サバサバとした性格であまり物事を引きずらない、強い性格の人だと思っていた。
でも、それはうわべだけの姿で、穂香さんを殺したいほど憎んでいたのだろうか。
しかし記憶の中の母を手繰り寄せても、恨み言をいっている母の姿は皆無だった。
父が留守がちでも、家族より小説を優先しても愚痴を言うどころか、応援していた。いま思い出したけれど、母はよくこう言っていた。
『お父さんは、お父さんにしか書けない小説を書いているのよ。それってすごいことよね。人と違うことができる人は、やっぱりみんなと同じようにはできないのかも』
母は、父のすべてを受け入れていたのだろうか。それとも……。
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